「注文」

goldenhusky

「注文」

ある日私は古びた定食屋に入った。

あちらこちらが痛んでいてとてもインスタには載せられそうにない。

試しにご飯を食べてみると味もお世辞にもうまいとは言えなかった。

しかし店主は妙に愛想が良く、深刻さを感じていない様子。

己の料理の腕の悪さに自覚がないようだった。

こんなまずい飯を誰が食うというのか。

しかし、私は不思議なことにこの不味い飯をつくる定食屋に通う日々が続いた。

店主がつくる品は悉く不味く、おまけに話が長く、客もまばらだった。

ただ私が落ち込んだ時には時折、

「お客さん、これ作り過ぎちゃってさ」

と言ってはあれやこれやサービスだと言って私に食べさせてくるのだ。

まずい飯を。


最初に店に飛び込んだ時から突然おかしなオヤジギャグを言って一人で笑っていた男だった。

ギャグ自体は変哲もないが脈略がなく大衆的な会話を好むようでいて独特の感性がズレている変わった店主だと思った。


半年間、この店に通い続けた。私はなぜかこの不味い飯を食べに行くことを選んでいた。不思議と店主の長話に付き合い、ここにいることが一つの居場所のようになっていた。


日常が壊れたのは店主がふざけた話をしたからだ。

ガールズバーに行っただの。私が聴きたくもない話を私が嫌がることにも気付かずにダラダラと。

私は立ち上がり、店主に向かって言い放った。


「定食がこんなに不味い上に話までつまらない。

そんな話の用意をしてる暇があるならもっと美味しい料理をつくってください。

それができないならこんなお店やらないで。不味い料理は二度とつくらないでください!」


次の日。

その定食屋は店を畳んだ。

後日店主の友人から聞いた話によると


「不味いと言われたこの飯づくりで35年間生きて来た。

お客様の声に耳を傾けて来たつもりだったが、時代の流れに乗る努力が追い付かなかった。

『二度とつくるな。』

それが今のお客様のお声であれば潔く店を畳むのが筋でしょう。」

と店主は語ったという。


私が不味い飯と感じていたのは紛れもなく事実で、多少なりとも美食を好む私にはさすがに見抜けぬ味ではなかった。

明らかに不味いのだ。いつ来てもこの店主がつくる料理は人に出すとは思えぬ程に不味い。


私は建前が好きな人間ではなく、本音を語り、夢を語り、

欺瞞ではなく、本物の言葉と行動で生きていきたいのだ。

それに自信と誇りを持ち、私は常に上を目指してきた。

それが人間としての理想であり、より強く生きることではないのだろうか。

それを周りに求めることがどうして間違っているのだろう。


だけど、私は今立ち止まっている。

脳裏によぎる。

あの店主のくだらない長話が聴きたいと。


もう一度店を始めてくださいと言うべきか。

厚かましい。引導を渡したのは私ではないか。


味が不味いと。

自信を持って引導を渡した。

間違ったことは言っていない。


けれども頭から離れない。

なぜあの時、不味い飯と本当のことを言ってしまったのか。


店を畳むとまでは思わなかった。

あの味なら今までにも誰かに言われてきたはずだ。


店主は今どこで何をしているのだろう。

あのおしゃべり好きなオヤジのことだ。


タクシーの運転手にでもなって、繁華街で鼻の下を伸ばして

若い子によくわからない話をしてヘラヘラしているのだと思う。


定食屋が店を閉じて3か月後、私は仕事終わりに路肩に停まったタクシーに乗った。


タクシーに乗り、運転席から後部座席へと大きく振り向いた顔はあの店主だった。

元、店主の男。

男は私の顔を一瞥すると私の顔等覚えていないかのように素知らぬふりで

どちらへ行かれますかと訊いた。


私が行先を告げると男は少し驚いた表情を見せたがすぐに車を動かし始めた。

男は

「お久しぶりですね。お客さん。」

と口を開いた。

男なりの気遣いだったのだろう。

男は最初こそ他人のフリをしていたが行先を告げると以前のような能天気な顔に戻り車を走らせる。

それでも口元は少しだけ引き攣っていた。


無理もない。

私が傷つけた。


「着きましたよ。」

元店主のタクシードライバーが言う。


頷いた私が支払いの為に財布を取り出そうとしていると、男は助手席側に大きく乗り出した。顔が今にも窓に接しそうな程に興味津々と景色を眺めながら独り言のように話し出す。


「いやぁ~見違えるなぁ。

お客さん、覚えていますか。

そんなに前じゃないから覚えているかぁ。お客さんともたくさんお話させて頂きました。

ただね、あまりに不味いと言われたもので潔く店を畳んだんですが。

でもまぁ同じ建物でも別の人がやると変わるもんですね。」


相変わらず勢いよくペラペラと口が回る。

停車したタクシーの中から私も左に聳える(そびえる)景色を覗き込む。


店先を見るとあのボロボロだったはずの定食屋が

リノベーションが施され小綺麗なワインバーとなっていた。

都会で一時期流行って定着したスタイルだ。昼はカフェ、夜はワインを出しているらしい。


「あの店、本当に料理がまずかったですよね。」


あの店とはもちろんこのワインバーがリノベーションする前にこの男がここで店主を務めていた定食屋のことだ。

私の一言で店を畳んだことに、なっている。


「いや~久しぶりなのにはっきり言うなぁ。参っちゃうよ。」

「お店はもうやらないんですか」

「やらないやらない。あの味は性(さが)だからね。

お客さん達からすると不味いのはわかっているんだけど、俺はあれが美味いと思ってんだから。

向いてなかったんだね。潮時さ。」

「おじさんって変わってますよね」

「そうかい。まぁ味覚は確かに定食屋失格だったかもしれない。まぁこんな変なおじさんでも35年も店をやってこれたのは奇跡か強運だったな。ハハ」


男は少し寂しそうな顔をした。

自分で気づいたその表情に打ち消すように続けた。


「それはそうと、どうしてここに。オシャレな店に変わりましたからね。彼氏とデートですか。ちょっと時間が遅いけど。」


男の問いかけに答える。


「話が聴きたかったんです。」

「話」


何のことかとわからぬ様子で元店主のタクシードライバーはオウム返しの後に沈黙する。

定食屋がワインバーになったことを私は知っていた。私はこのタクシーに乗りこの男の顔を見た時にもう二度とないと思うとかつて定食屋があった場所を目的地として告げた。

目的を果たすとしたら今だ。


「私はおじさんの長話がまた聴きたい」

「それが今日のご注文だったんですか。」

「注文です。おかしいですか。」

「おかしいことなんかありませんよ。

お客さんの本当のご注文が知れてよかったです。景気の悪そうな店内で私のつくった不味い飯が目的じゃなくて、私のバカ話の方がお気に召していたわけだ。でも気にならないですよ。そういうお客さんのお陰でなんとかやってきましたからね。」


「そうじゃないんです。」


元店主が目を丸くする。

私は息をのむ。


「おじさんと一緒にいられれば話の内容はなんでもよくて場所もどこでも良かった。

料理がおいしくなかったのは本当。でも店をやめろとまで言わなければよかった。」


元店主は神妙な空気を作らせまいと一呼吸入れて気さくな雰囲気を装い答えを返す。


「なんだい何か後悔でもしてくれてんのかい。

勘違いしないでくれよ。今はこうやってタクシーでバカ話する方に生きがいを見つけているんだから。

お客さんのお陰さ。」


元店主は相変わらず目の奥が読めない仏像のような笑顔で笑っている。


「でもまぁ。今後悔しているんなら次に何か注文をする時はちゃんと間違えない方がいいよ。

よくいたんだよ。そばとうどんを間違えて注文したお客さんがね。こっちは確かに蕎麦って聞いたのに俺はうどんを頼んだって怒るんだ。

疲れていて間違えたんだろうけど確かにこっちははっきり聞いたからね。蕎麦を注文したら蕎麦しか出てこないのがこの世の中ってもんさ。」


そう。注文をしたものが出て来ただけだ。

店を辞めろと言ったからこの男は店を畳んだ。

何を驚くことがあるというのか。

結果には原因が付き物である。


「私、今回の注文は間違えません。」

「長話のご注文かい。ありがたいけどもう店もやってないからね。」


間違えない。


「ここで飲みませんか。」

「あいにくだけど今無線が入っていて次のお客さんがいるんだよ」


無理だったか。


「でもまぁ。その後だったら問題ないね。次のお客さんで最後だから。

悪いけど1時間ばかし待てるかい。これ、私からの注文だけども。」

「承りました。」

「これ先に渡しておくよ。私の連絡先。

大丈夫だとは思うけど、もしかしたら1時間で済まないかもしれないからね。

酔ったお客さんがなかなか降りてくれない時があるからさ。待ちきれない時はすぐに連絡してくれよ。

別の日でも連絡先と注文さえ分かっていりゃ私は逃げたりしないんだから。」


私は逃げると言う単語の怪しさから受け取った連絡先をそのまま携帯電話に打ち込んで調べてみた。連絡先が出てこない。どうやらこの男は嘘をついていたらしい。


「おじさん。連絡先、見れないですよ。もしかして逃げるつもりだったんじゃないですか。酷いです。」

「すまんね。やっぱり料理の味がまずいだのなんだの言われるんじゃないか。怖くてね。

誘ってもらったのは嬉しかったんだけど。何の魂胆か読めなくてね。疑ってごめんね。

ボンクラなもんで元嫁にも逃げられてさ。」


「おじさん。これはデートですよ。」

「デート?何かの間違いじゃなくてかい。それがお客さんのご注文かい。」


この男は注文という言葉が好きらしい。


「注文です。さっきから注文って好きですね。それ。察してくれないと女の子にはモテないですよ。」


つい口調がきつくなる。


「この世の中は注文したものしか出てこないからねぇ。」


さっきも同じような言葉を聞いた。


「くどくて悪いね。考えた言葉も大事なんだけどね。

現実をつくるのは言った言葉の方なんだって。

私も出来が悪くてさ。この歳になってやっと気づいたんだよね。」


逡巡(しゅんじゅん)する。


「じゃあ。デートの為に私は連絡先を教えればいいわけだ。

わかったよ。」


男は手元で携帯電話を取り出し動きを見せる。


「もう一度見てごらん。」


男の連絡先が見れるようになっていた。


「ありがとうございます。本当に逃げないでくださいね。注・文です。」


私が念を押すように言うと男は意図を見透かされたことに焦った様子を見せたが、意図的に落ち着いているように見せこう言った。


「おっ。わかってきたじゃないか。」

「その言い方。連絡先教えた後も逃げる気だったんですか。ここまで来て。」


男は一点を見つめ答えた。


「私からの注文なんだけど、おじさんをからかってないよね。

おじさんになってもさ。裏がないか。後で酷い目に遭わないか気にしちゃうんだよね。

情けないけど。相手が本気じゃないと私はもうデートとやらには行かないよ。おじさん見た目より中身は乙女だからね。ハハ。若い子に遊ばれたくないんだ。」

「逆じゃないんですか。女の子の方が遊ばれていないか気になるものでしょ。」

「注文の答えになっていないよ。」

「遊びじゃありません。バカにしてるんですか。」

「それが答えなんだね。ありがとう。もうだいぶ長話してるけどね。これはデートじゃないのかい。」

「そんなわけないじゃないですか。」

「そうかい。私はお客さんが店に来てくれたときはデートみたいだと思ってウキウキしてたからね。

やっぱりちゃんとデートはデートって言うべきだね。なんかうやむやにしちゃった方がおしゃれな感じするでしょう。

でもだめだね。こうやって勘違いしちゃってるんだから。」


元店主の言葉を聞いて思う所があった。

否定はしてみたが、この男が営んでいた定食屋に行く度に私も同じ気持ちでいたことを。


「デートって。なんでしょう。」

「さぁねぇ。ただまぁ。お客さんと私とじゃ。元お客さんと元定食屋のオヤジの関係でしょ。

カップルじゃなくても男と女としてなんか考えるってことなんじゃないの。デートって言うからにはさ。

それとも遊びかい。それでも男と女って言えるのかもねぇ。どういう男と女の関係をご注文したいんだい。」


なんだか面倒になってきた。

こんなにも色々注文をさせるなんてこの男はやっぱりどうかしているのだろうか。


「女の子にそこまで言わせるっておじさん酷いですね。」

「そうかい。私はこれまでずっと色んな女の子から注文されては、自分の方も色々な注文をしてきたからね。

それに大体の男はこういったやりとりをほとんど自分からやるものだよ。男女平等の時代なら逆にお願いしても良いのかと思っていたよ。

結構やることが多いでしょ。連絡先を訊いたり、デートに誘ったり。

どんな関係になるのかを訊いたり、自分から意思を伝えたりね。毎回結構大変なんだよ。」


男は続ける。


「これでも一応最後はプロポーズまでしてさ。自分から付き合ってくださいとは上手に言えなかったんだけど。

プロポーズはちゃんと自分でしたんだよ。でも逃げられたんだよなぁ。いろいろあってさ。

まぁ私の場合、いろいろグダグダだったから偉そうにしてちゃダメなんだけどねぇ。悪かったね。

色々と注文させて。人間、弱い所があるものでしょ。こんなおじさんに期待するってそういうことだよ。

どうする、デートはやめるかい。」


わからない。

私はわからなくなっていた。

男から何かがあればそのまま何の支障もない話なのに。

まどろっこしい話ばかりでなかなか先に進まない。

私は判断を妨げる人間が嫌いだ。

情報は必要な分を手早くモタモタせずに提示してほしい。

物事は効率的に。私は仕事ができる人間だ。


「相手を思い通りにさせようとすると苦しいでしょう。

ちゃんと考えてちゃんと伝えればいくらでも思い通りになるものなんだけどね。

相手がこう動いてくれるはずだって予測や期待を言わないでいると途端に思い通りにならなくなるものなんだよ。」


そうだった。

私は店を辞めろと言った。

現実は想いとは裏腹に、事態は言葉の字面(じづら)が示す方向へとあっけなく動き、私の現実は崩れた。


「期待まで思い通りにさせようとするとさ。

やっぱり注文しなくちゃ全部は伝わらないじゃない。

なんとなく気づいていてもさ。勝手に進めていいものかそこまではわからないものなんだよ。」


私がしばらく黙っていると、元店主は真剣な表情で話し始めた。


「実はね。今再婚相手を探しているんだ。寂しいんだよ。

お客さんが真剣に恋人を探しているのなら、私の方からむしろお願いするよ。デートをしてほしい。

これは私からの注文だ。もしかしたらお客さんからのご注文と被っちゃうのかもしれないけど。

但し本当にそうなのかはまだ詳しく訊いていないからわからない。ご注文はどうする。」

「注文が被っていそうならおじさんの注文と同じにしてください。」

「いいやだめだ。もしかしたらお客さんのご注文は違うものかもしれない。もう君をお客さんなんて呼ぶのはやめようか。」


長話が続く。タクシーのメーターの動きは既に切られていた。

無神経なように見えて意外にそこは気が利くらしい。


「君が望むことは君からも伝えないとダメだよ。

君の一言で私は店を畳んだんだから。君の言葉は十分影響力がある。

店を潰すよりも今君が思っていることを伝える方がずっと簡単なことだよ。」


いつまでも諭すような言い方が子ども扱いをされているようで腹が立つ。

こういうことは一般的に考えて女性は慣れていないもので、準備や覚悟をしていないとできないものだ。

飲みに誘ったのも一瞬ではあったが私としては大きな覚悟をしたつもりだった。

それなのに。


「おじさん。こういうの、覚悟がないとすぐには言えないです。」

「そうかい。じゃあ聞くけど。君が私に店を辞めろと言った時は覚悟していなかったの。

私が店を畳まなくても。へそ曲げて君を追い出すとか。今の状況を考えてみると、あの時の言葉は君の為になったのかな。本当は今の現実になるとわかっていたなら覚悟が必要だった。覚悟もなくつい口に出す言葉の方が思いのほか現実を動かすこともある。」


何度も何度も私が触れられたくない傷をこの男は話題に出す。

この傷は元に戻せない。

私には悪い所がある。本当のことを言うことで時折事態があらぬ方向に行くことだ。

ただ、ここまで後悔はしたことがない。普段は問題が起きてもそれが正しいことであると信念を持って言葉を発して来た。今回は信念とは別の感情で動いた。私は自分を省みる気持ちに駆られた。考えても、私の発言の全てが正しいとは思えなかったし、あの発言の裏にあった想いもまた間違いであるとも思えなかった。

いずれにしろ元に戻せないなら、別の未来を創ろうと偶然の再会に身を乗り出して想いを口にした。強い覚悟で。それなのに。


「こんなにダラダラ長いやりとりするなら私もういいです。」

「それが注文なんだね。」

「・・・注文です。」


男は深く、長く口から息をゆっくり吐き出すと答えた。


「私は今日君と久しぶりに出会えて、君からのデートの注文を訊いて。とても嬉しかった。

これでも結構緊張してたんだ。また同じ状況が起きても今日と同じ勇気が出るかはもうわからない。」


目の前が暗転する。


「待って」


すがる私に男は冷徹な言葉を投げかける。


「次に会った時は今日のことは全部忘れていてほしい。」


私が何かをいいかけると男は手のひらを私に向けて言葉を遮る。


「もう簡単には変えられないよ。この現実は、君が決めたんだ。」


私は、なんてことをしてしまったんだろう。

この男は、バカなのだ。

話はくどくど、よくわからない。私はそんな風変りな所に惹かれていたが、

元嫁に逃げられた理由がよくわかる。肝心なことを女が黙っていることをこの男は理解できていないのだろう。言葉を伝えるのが大事。そんなことは私もわかっている。

それでも。

自分のことをわかってほしい。気軽に口にはできない私の強い想いを。


私は酷く落胆した。


「・・・って思ったんだけどね。」

私がしばし考え込んでいると男は言葉を発し始めた。


「気が変わった。君の本当の気持ちを『ぼく』は真剣に考えてみた。

言った言葉が大切だという僕の考えは確かに変わらない。

でも君が私のつくる味覚に合わない料理をわざわざ何度も足繫く食べに来てくれた理由を商売人や料理人としてではなく一人の人間として考えるべきだった。」


男が自身を『ぼく』と呼び始めた。


「それって・・・」


私が言い淀むと呼吸を合わせて男は言葉を強く発する。


「君がつくってしまった現実を僕が変える」


再び逡巡する。


「現実を変えるってどういう意味ですか。」

「君が言った言葉だけをそのまま受け取ることだけをやめる。

発した言葉だけじゃなくて、君がどんな気持ちで僕について考えてくれていたかを考える。

君が出してくれたサイン。君とはそんなに長い付き合いじゃないけど、君と出逢って、そして今日偶然再会して君から誘ってくれたこと、それもまた君が勇気を出してくれた結果だということを僕は気づくべきだった。少しだけ時間をくれてありがとう。思いとどまったよ。すまない。」

「もう、帰るところでした。」

「帰らないでくれ。また同じ状況が起きたら、次も同じ、いやそれ以上の勇気を出す。」


本当のことを言っているのか不安になった。


「連絡先、ちゃんと連絡ができるようにしておいてくださいよ。設定を変えたりせずに。

連絡ができない連絡先は意味がないですから。」

「わかった。辛抱する。君からの連絡をいつでも受け取れるように。お互いが連絡できるように。約束だ。次のお客さんを乗せて、その先僕がすぐにこのお店に戻ってくることができなくても、この連絡先に連絡をしてくれ。ちゃんと必ず何度でも勇気を出して君に会いに行く。」


私は真剣にこの男の目を見て言う。

正直、まだどこか不安だ。


「信じて、ますよ。」

「大丈夫。君と僕のどちらかが何度揺れても僕は必ず落ち着きを取り戻す。」


信じて、みよう。


「まだデートもしていないのに、もう彼氏面ですか」

「いいや、未来の旦那面(だんなづら)だよ。覚悟はできている。」


男はそういうと目尻を細めて笑いながら真剣に私の目を見る。


「それは、どうでしょうかね。」


私がそう焦らしてみると間髪入れずに男が言う。


「大丈夫。何度でも君の心を探しに行く。」


急に人が変わったようだ。


「さっきまで逃げようとしていたのに。」

「君が何度もサインを送ってくれていたことを深く考えて思い出した。それだけさ。」

「もう、注文はいいんですか。」

「生憎察しが悪いもので、注文はこれからもほしい。でも、常連さんには何かサービスしたくなるものだろう。調子は気になるものだし。いくら察しが悪い僕でも君のような常連さんは大切にしたくなったものだ。自分にできる範囲でいつも気にかけたつもりさ。他のお客さんからもね。定食よりそっちの評判が良かったくらいさ。そういう想像力をちょっと応用すればいい。」


何もわかっていない男ではなかったらしい。自分の短所も長所も。

ある程度自覚はあったのだろう。フランクに見えるが商売とは別の所で心理的に壁を感じさせる男だった。自分の大事なことについて核心的なことについて伏せる所がある。いつも気になっていた。自分のことを話しているようでまるで話していない。開けっぴろげに見えるが実は神経質だ。自分の内面の見せて良い部分しか見せていない。見せたくない部分はどこまでも隠そうとする。その癖こちらが落ち込んだ時ズケズケと容赦なく踏み込んでは頼みもしないサービスをしてくる。思いがけない角度から来るため予想を良くも悪くも裏切られ、イライラもするし、喜びもする。そんな予測不能な行動に感情を揺さぶられる自分が嫌になる時もあった。今もそう。最初は親切に見せていたが隙を見て逃げる気だった。優しくする。必要以上に。その癖距離感の取り方は自分にばかり都合が良い。こちらに期待を持たせても。分が悪くなると自分は逃げるくせに。


私は年相応な話し方を意識してあえて雑にもう一度言ってみる。

「本当に逃げんなよ!!おじさん!」

「辛抱する。」

「逃げないって、言って。ちゃんと言って。」

「さっきも言っただろ。君も僕も何度も揺れるだろう。」

「やっぱり一度は逃げるってこと。」

「そうなったら落ち着きを、取り戻す。逃げようとした時に、踏みとどまる。」

「逃げないってはっきり言ってくれたらかっこいいんだけどなぁ」

「逃げないさ。ただ逃げない姿が、かっこよくないかもしれない。とても。みっともなく。」


なるほど。この男は、風変りな割に案外かっこつけなのだ。

情けない姿を見せて、かつての元妻が去った時のような思いをしたくはないのだろう。

それだけがすべてなのかも、今はまだわからないが。


「みっともなくてもいいですよ。だって最初からみっともないですから。

全然かっこよくないですから、おじさんは。」


本当に正直な感想を言ったつもりだった。

私の言葉に対して男は不思議な顔をしていた。

何故か満面の笑みを浮かべている。


「君は、良い女だね。」


女、という表現が気になるが発言を認めてくれたようだ。


「私、結構モテますよ。」

「そうかい。じゃあ離さないようにしないとね。逃げる前に。離さないよ。」


またどこか人が変わったようだ。

それとも。元々こういう男だったのだろうか。


「離さないってどういうことですか。」

「君だけを見続ける。」

「どうしたんですか。プロポーズみたい。」

「言っただろ。未来の旦那面をしているって。」


男はなかなかに気障ったらしいことを言う。年甲斐もないと言うべきか。

距離感がおかしい。それとも。この男なりの背伸びなのだろうか。


「無理は長続きしませんよ。」

「無理そうなことを長続きさせるのが、工夫をするってことだ。これは年の功だよ。

一度失敗しているけどね。ハハ。」


男はそう笑う。


「じゃあ、まずはデート!デートからですよ!未来の旦那面をしても!私たち、まだ付き合ってすらいないんですから!」

「わかった。」

「本当にわかっているんですか。」

「いや、わかっていないかもしれない。」

「なんですかその返事は!」


男は悪びれずに返す。


「わかっていなかったら、何度でも君の心を探しに行く。

君を離さない。君が僕から離れて、僕も離れようとしても。安易には行動しない。必ず戻って来られる所までで踏みとどまる。」


男は発言の後、私の顔をじっと見つめた。

私は男の誠意を確かめるべくその顔を見つめ返した。

先ほどよりも偽りはないと感じられた。

私は男のお株を奪う。


「ご注文をお願いします。」

「・・・どちらにしてもまずはデートからだね。これが僕からも改めて注文さ。

とびっきりサービスする。」

「おじさんのサービスは当たりはずれがすごそうですね。」


私が嫌味を言うと二人で同時に悪戯っぽい笑みがこぼれた。

少しだけ二人の時間が流れる。

タクシーに無線が入る。


「おっと、これはかなりまずい。」


そうだ。メーターが止まったことに安堵していたが、本当に長話をしてしまった。


「次のお客さん、大丈夫ですか。」

「これはかなりのクレームを入れられるかもしれない。

でも大切なものを失うことに比べれば大した問題ではない。次のお客さんには大変申し訳ないけどね。」


男はシートベルトを付け直す。


「それじゃ行くよ。」


私は後部座席から降りて締まり行くドアに大きく声を張って呼びかける。


「逃げんなよ!おじさん!」


実は、私たちはお互いの名前をまだよく知らない。

あの男の名前はなんて言うのだろう。名前も知らない男とこんなやり取りをしている。

しかし不思議と、名前も良く知らないこの男とのやりとりが他の誰よりも普通に思えた。


次に助手席側の窓ガラスが開いて男が身を乗り出して同じように声を張り上げる。


「逃げない!君に決めた!君は僕のピカチュウだ!モンスターボールには入らなくて良い!ずっと隣にいてくれ!気が利かなかったら、100万ボルトを浴びせてくれ!それじゃあ行ってくる!」


どこかで聞いたようなセリフ。しかしわかりにくい。

男の年齢からすると私の年齢に合わせてくれたのかもしれない。

それもまた男なりの風変りな気遣いだったのだろう。

男は威勢の良い言葉の割には丁寧に発車して周りの車と同じようなスピードで去っていった。客を待たせたタクシーがあんなに遅い速度で良いのだろうか。安全運転と言えば聞こえが良いが。よくわからない所でやたらと律儀でマイペースな男だ。


その夜、案の定男は1時間どころか5時間も私を待たせた。


私はワインバーにて2時間を過ぎた所で『もう帰る。』と連絡を送った。

入れ違いになることも考えて気の短い自分にしては限界とも言える程に待った。

更に1時間連絡を待つが連絡は来ない。


家に帰り化粧を落とさずに更に待つ。


何度も私の気持ちを裏切りかけた男が最後に見せた表情を私は信じた。

それでも時間が経つと信じる心を保つことに疲れを感じ始める。

信じた自分自身に半ば諦めのような心境を持つと不思議と不安や疑いは消え去って行った。

少なくとも、正直な自分の弱さをあの男が吐露したからだった。

二人の間に横たわっていた壁が取り去られたことにどこか安堵の気持ちがあった。


2時間が経過した時、スマートフォンの通知が鳴った。


『遅くなってすまない。未来の花嫁へ』と相当気の早い文言で始まる謝罪の連絡が来ていた。

なかなかに怒涛の長文。謝罪文かラブレターなのかどちらなのかわからない。これが知り合ったばかりの人間であれば困惑が深まるものだが、あの男の今まで取り繕ってきたものがないことは逆に気持ちを示していると感じた。今までにあった壁のようなものが消えていることに私は胸をなでおろす。

その後デートをいつするかについて連絡のやり取りを続けた。想像通りかみ合わない所があったが、男はその度に本人なりの『工夫』をしているようだった。

男とやりとりをしていると男の独特な癖が何度も飛び出る為、何度か交わしたやりとりを俯瞰的に見ると思わず口から言葉が零れた。


「変な人」


私たちのあたらしい関係はそうして始まった。


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