赤のような、
古都 一澄
どうか、未完でありますように。
外が明るい。十一月の少し冷たい空気に触れた光が差し込む。私は手探りで眼鏡を取り、部屋の電気を付ける。
穏やかで静かな朝だ。少し頭が痛むものの、目覚めは悪くない。少し欠伸をしてから、眼を擦る。
机の上。散らばった錠剤。ビールの缶。食べかけのカップラーメン。
「片付けが苦手なのはいつになっても変わらないや。」
折角のいい目覚めだったのに、机の上がこれでは気分も下がってしまう。今日は特に予定がないから、一日中のんびりと出来る日だ。早いところ片付けをして、好きに過ごそうかな。
リビングのカーテンを開けて、歯磨きをする。少し寝癖のついた髪の毛はそのままに、イヤホンから音楽を流して、リクライニングを倒す。これで完璧だ。あとは本を読むなり、そのまま二度寝するなり、その時の気分で自由に決めるだけ。
「そういえば、同窓会はどうなったんだっけ、」
限界まで倒した椅子の上でぼんやりと昨日の記憶が蘇ってきた。高校の時のクラスLINEのグループで、同窓会についての案内が回ってきていて、参加の有無を確認する投票が送られていたのだ。なんだか妙に気まずくて、どちらにも票を入れずにしていた。
ゆっくりとスマホに手を伸ばし、確認する。昨日送られてきたのにも関わらず、ほとんどの人数が回答済みになっていた。未投票なのは、私を含めて数人しかいない。
「行かない、とも言いづらいんだよね、」
クラスの雰囲気はかなり良かった。誰も置いていかない、という言葉が一番しっくりくる。穏やかな雰囲気でありながら、イベント事には全力で楽しむ、まさにお手本のようなクラスだった。
だからこそ、昨日送られた投票はすでに『参加します』で埋まっている。
ため息が出る。別に私だって、クラスのことが嫌いだったわけでもない。中学の頃はクラスの雰囲気にあまり馴染めなかったこともあり、高校のクラスには感謝している。それは本当だ。でも。
「……やっぱり、行けないな。」
少し俯きがちにそう呟き、私はスマホを閉じた。ぼんやりと明るい天井に視線を移し、なんとなく見つめてみる。毎日見ているそれは、少し色褪せたにも関わらず無機質なまま。現実を突きつけられているようで、少し心臓が苦しくなったような気がした。
床の上。散らばった書類。端に置いたままのゴミ袋。脱ぎっぱなしの洋服。
「……そんな事は後回しにしよう。」
久しぶりの休みだ。憂鬱な事なんて自ら考える必要がない。
だらだらしようかと思ったけれど、やっぱり外に出かけてみよう。駅前のカフェで少し贅沢をして、綺麗な洋服を買って、後は、友人の誕生日が近いから、彼の好きな香水を見に行って。
一連の流れを立ててから、私は深呼吸をする。よし、折角だからいつもより気合を入れてメイクしてみようかしら。
ごくん、と唾を呑む。まだ痛む頭を無視して、支度を始める。
ルビーが埋め込まれたチョーカーをどこかに仕舞っていたはず。折角だから着けて行こうかな。後は、随分前に叔母から貰った深い赤のイヤリングも。
鞄に財布だけ入れて、玄関のドアに手を伸ばす。この重みが今までは大嫌いだったのに、今日は違うみたい。少し緊張しながらも、どこか晴れ晴れとした気持ちだ。
「行ってきます。」
もうこの家には帰らないから、鍵は閉めないままでいいね。
***
いつも仕事で通る憂鬱な道も、今日は輝いて見える。まるで、友達と遊ぶ予定を立てた後の小学生みたい。私も昔はそうだったかしら。
そんなことを思いながら、少し物悲しくなって、紛らわすように一人苦笑した。
駅前のATMで現金を下ろして、少し厚くなった財布を片手に人の合間を縫って歩く。大丈夫、今日は怖くない。
ふと視線を上げる。誰とも目が合わなくて、それは至極当たり前で。じわり、と安堵が広がる。その安堵を忘れたくて、半袖の季節は終わりか、と心の中で呟いた。
駅の地下を抜けて、百貨店に向かう。自動ドアをくぐり、なんとなく進む。
少し肌寒い外に比べて、店の中は暖かい。照明を反射して輝く新品の商品を見ながら、やっぱり何も買わなくてもいいように思った。
誰かのために、と考えるのはもう疲れてしまった。両親から嫌われないために。友人から関係を切られないために。上司から怒られないために。
生きていても許される場所から、追放されないために。
ショーケースの中に飾られた高級なブランド品を見る。こんなにも綺麗なものは溢れているのに、まっすぐな心でプレゼントしたい相手なんていないんだ。私自身が一番愛しているはずの自分でさえ。
実家に帰った時に母へ送るネックレスも、友人への香水も、自分に送るささやかなプレゼントも、全部。
全部、『愛してください』の裏返しだ。
これだけの価値のものをあなたに差し上げますから、どうか見捨てないでくれませんか、と。
誰かのために、なんて本当は嘘なんだ。でも、そうやって言い訳ばかりして、偽善者ぶらないと、これ以上、生きていけない。
その醜さは私が一番よく知っている。でも、もう今日で終わりにするから、どうか___。
そこまで考えて、我に返る。どうも考えが跳躍しすぎている。大丈夫。生き急ぐことはない。
今日は、ウィンドウショッピングをして、ちゃんと楽しむ日だから。
だから、大丈夫だよ。大丈夫だからね。
たとえ、もうこれからの人生に何も希望がなかったとしても。
***
昨晩のことを思い出しながら、私はふらりふらりと店の中を歩く。
深夜一時を過ぎていたのは覚えている。半ばやけくそになりながらビールを胃に流し込んで、そのあと……。そうだ、風邪なんてひいていないのに風邪薬を飲もうとして、箱の中にかわいらしいイラストで『お大事にね』と書かれているのを見つけて、ごめんなさい、と泣きじゃくったんだった。イラストに感化されて泣くなんて、思い出すだけで嫌気がさす。
はあ、と一つため息をこぼした。途端に体が重くなる。
「何かお探しですか? 」
突然声をかけられて少し驚きながらも振り向く。照明が眩しい。
嫌味一つない、綺麗な笑顔だ。店員さんの表情に、純粋にこちらを気遣う気持ちしかないことを察して、私はもう何も答えられなかった。答えようとして開けたままの口を、ゆっくりと閉じる。
ごめん、その気遣う相手が私で。私なんかに時間使わせて。別に、素敵なものを買いに来たわけじゃないんだ。ウィンドウショッピングも、全部全部嘘なんだ。
同窓会のアンケートが無投票のままなのは、急に外に出ようと思ったのは、家の鍵を閉めないままなのは。
「何かお困りでしたらいつでも声かけてくださいね。」
何も答えず無言を貫く私に、店員さんは優しい笑顔でそう言ってから一礼すると、カウンターへと姿を消した。
やさしさ。友達や家族からは得られないもの。全く知らない、今後一生会うことはないであろう人間から時に貰う、小さな気遣い。
多分、一番苦しいときに助けてくれるのは、それなんだと思う。
薬の箱の中に描かれていたイラストで涙したのも、同窓会に行く気になれないのも、店員さんからの気遣いが私の心を少しだけ溶かしてくれるのも、全部、そう。
最低だ。
最低だ。私をここまで育ててくれた親は、高校の時少し話しかけてくれた友達は、綺麗なアクセサリーをプレゼントしてくれた叔母は。
それらを貰ってなお、私は自分が生きるに値すると思えない。
そそくさと逃げるように店を出る。ここから出よう。私が居ていい場所じゃない。
辺りを見回す。仲の良さそうな親子。楽しそうに会話する中高生。背筋を伸ばして歩くスーツの大人。
下を向きながら駅に戻ると、さっきとは打って変わって無機質な灰色が広がる。きっとここでは、誰かがハンカチを落としても拾う人はいないだろう。それでいい。そうして、そのまま、文字通り見捨てられていくのだ。
風が吹き抜ける。十一月の冷たい風だ。もう一枚上着を羽織るほどではない肌寒さ。人の流れるままに進み、ぼんやりとしたまま、私は改札を通る。あ、と気付いた時にはもう遅い。
「……ちょうどいいのかも、ね。」
そのまま流されるように駅のホームに行き、周りと同じように電車を待つ。ここがどこのホームなのかも見ていないし、いったいどこまで乗るつもりなのかも考えていない。
ただ、身を委ねるだけ。赴くままに、向かうだけ。
アナウンスが響く。電車が来る。開いたドアに促されるまま入る。
そこでようやく、何時間揺られていようか、と呟いた。
窓の外。灰色のビル群。路上を走るトラックの音。沈みかけの太陽。
数時間電車に乗って、どこか知らない場所に行くのもいいかもしれない。そしたら、綺麗で静かな場所に行けたらいいな。
そんなことを考えていたのも束の間、知らない景色を見れば見るほど、段々と鼓動が早くなっていく。何かいけないことをしてしまっているかのような錯覚に襲われて、得体のしれない恐怖が私を埋め尽くす。何かに怒られるような、心臓が軋む、そんな感覚。
呼吸がしんどくなって、でも過呼吸になるほどではなくて。ただただ広がる苦しさの中で、私は小さな声で呟いた。
やっぱり駄目だったんだよ。
外に出るのも、人と話すのも、何もかも、全部。
***
結局、すぐに電車を降りて、少し田舎の寂れた駅のホームで、私はただ何もせずに空を眺めていた。日はもう既に落ちていて、寒さと相まって孤独感を助長してくる。
「……ここは、静かな場所だな、」
そう口にすると、どっと疲れが押し寄せてきた。
このまま誰も知らない場所に行って、食べるものも飲むものもなくなって、冷たいところで独りになって誰にも知られずに死んでしまおう。もともとそのつもりだったのだから。思い残すことは沢山あるけど、それらはこの命を引き留めるのにはあまりに軽い。
ふと、叔母が悲しむだろうな、と思いイヤリングを外す。これはここに置いていこう。深紅に輝くそれを見ながら、申し訳ない気持ちで私は瞳を閉じた。
「ごめんなさい。」
これでいい。なにも良くないだろうけど、これで、いいんだ。
ゆっくりと立ち上がる。改札を抜けて、知らない場所へ歩いていこう。そのまま、どこかで死ぬのを待とう。
風が吹く。次の電車が来る。扉が開いて、人が降りてくる。寂れた駅といっても、思っていたよりは利用者が多いようだ。流れるように改札へ向かう人の列に私も入ろうと、重い足を引きずる。
「あの、これ……」
突然肩を叩かれて、びっくりして振り返った。中高生くらいの女の子が、おずおずと差し出す両手。部活帰りだろうか、近くに彼女の友達とみられる子も立っていた。
「あなたのですよね? 」と赤いイヤリングを持って、こちらを覗いてくる。まさか拾われて、ましてや声をかけられるとは思っておらず、私は何も喋ることができないまま目を見開くばかりで。
違います、のそのたった一言が出てこない。多分別の人のだと思います、と言って、さっさとこの場を離れたらいいのだ。わかってる、わかってるよ。
心の中ではなんとでも言えるのに、いざ人を目の前にすると何も言えない。そして、これはきっと人と会話する事が怖いからなんかじゃない。
やさしさ。見ず知らずの他人からの、ほんのささやかな気遣い。
どん底に墜ちそうな崖の縁で、最後に助けてくれる、小さな小さな、温かいもの。
ぽたり、と右目から涙が零れ落ちる。
え、と戸惑う声が聞こえた。それでも私の涙は止まらない。膝をついて、人目なんて気にせず零れるまま涙を流す。
やさしさがうれしかった。やさしさがくるしかった。
全部終わりにするつもりでここまで来たのに、捨てるつもりで残したイヤリングを拾ってもらった、その小さな優しさに、少しだけ、でも確かに救われてしまった。
__終わらせられないよ。
どれくらいそうしていただろうか。ぼやけた視界の中で辺りを見回すと、とうに女子高生はイヤリングを残して去ってしまい、その他の人も姿も無かった。
視線の先。深紅のイヤリング。褪せたコンクリート。涙の跡。
周りには誰も居ない。小さな駅だ。駅員もめったに巡回しないのだろう。
結局、私は独りのままだった。
「……これから、どうしよう。」
掠れた声で、そう呟く。
答えてくれる人は誰も居ない。自ら死を考えた私に、これからのことを考えるだけの希望は残っていない。
暗い駅のホームに、深紅のイヤリングがひとつ。
私はただ、黙ってそれを眺めているままだった。
赤のような、 古都 一澄 @furutoko
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