ストレイドッグ

水野いつき

捨てケルベロス

 雨の夜なら尚更だ。しけった段ボール箱を抱え、照れたように玄関に立つ彼を見て、まあこの人なら拾うだろうな、と、ごく自然に受け止めてしまった。


「猫?」

「犬。リビングに持っていっていい?」

「見せて」


 箱のすき間に顔を寄せ、息を止めてのぞき込んだ。濡れたカラスにも見える黒いかたまりが、丸くなって寝息を立てていた。むっちりしているがまだ小さく、短い毛にはつやがある。パグの血が入っているのかもしれない。


「肉じゃが食べるかな。君の夕飯だけど」

「それは譲れない。でも大丈夫。段ボールの横に餌も置いてあった。元飼い主は、罪悪感があったのかも」

「ざいあくかん、ねえ」


 脱ぎ捨てられた革靴をそろえ、リビングへ向かう彼を追った。


「先に風呂入ってくる。箱抱えてたから傘させなくて。すぐ出るから、この子のこと、ちゃんと見ててね」


 嫌いではないが犬とは縁のない人生を歩んできた。言われるがまま呼吸を見守っていたが、シャワー音が聞こえ、魔が差した。健康状態を見るだけだと自分に言い訳し、箱を強くゆすった。何より顔が見たかった。



「「「ワン」」」


「えっ」



 思考するより先に大声で彼を呼んでいた。素っ裸の彼が、びしょ濡れで飛び出してきた。


「何! 何事!?」

「犬が……」

「死んじゃった?」

「これ犬じゃないよ、だって頭が三つある」


 飛び出したは段ボールのふちに前脚をかけて立ち上がっていた。すっかりお目覚めの六つの瞳はじっと私を見ているし、ニィッと横に開いた口は笑っているようにしか見えない。怖い。


「なんだ。大丈夫だよ、少し珍しい犬だよ」

「これケルベロスでしょ。イギリス映画で見たことある。地獄の門番だよ、殺される」

「待った。君の解釈には異論がある。僕に言わせればこの子は冥界の番犬で……」

「なんでもいいけどこわいよ」


 顔を青くする私を笑い飛ばし、おざなりにキスをすると、鼻歌混じりでバスルームに戻っていった。彼があまりにも普通だから、私が大げさすぎたのかもしれない、なんて思わされてしまった。

 おそるおそる振り返る。彼が犬だと言い張るそれは、箱ティッシュを破壊してグレーのラグをまっ白にしていた。



 ◆



 ケルベロスは忠実で賢い。「待て」と言われれば何時間でも待てるし、たった三ヶ月で人の言葉を覚え大抵のものは取ってこられるようになった。もっとも彼の指示限定で、私の言うことはあまり聞いてくれない。どうやら格下に見られているらしいが、だからといって困ることもなく、案外さらりと生活に馴染んでいった。今となっては幻想生物の実在よりも、私自身の適応能力の高さに驚いている。あの夜の衝撃が、すぐに日常になってしまったのだから。

 



「出張かあ。寂しいな」


 ある平日の朝、彼はそう言ってケルベロスの顔をこねた。支度を終え仕事に行くまでの短い時間に、こうして戯れるのが彼らの朝の習慣だ。三つの頭は順番になでられどれも嬉しそうな表情だが、休む間のない彼の手は大忙しだ。


「台風だよ。運転気をつけてね」

「うん。いってきます」



 食器を洗いながらも、窓に強く打ち付ける雨風が気になって仕方がなかった。心細い気持ちになりケルベロスを目で探すと、まるで人間のようにテレビの前に座り込んでいた。ニュースのアナウンサーが、記録的な暴風雨だと繰り返し警告している。


「テレビ近すぎ。目悪くなるよ」


 無視だ。


「少し離れなって」


 まるきり反応なし。これ以上は構わない。洗濯機をまわし、掃除を済ませると、浴室乾燥のスイッチを入れた。花瓶の水替えを終え、コーヒーを飲み終えても、ケルベロスは同じ体制のままだった。


 ニュースは台風情報を流し続けている。かっぱをかぶり、家から出るなと声を張るアナウンサーの中継映像が、唐突に切り替わった。

 

 映し出されたのは、橋の上で立ち往生する一台の車。目を疑った。間違えようのない車種とナンバー、彼だ。


「嘘でしょ」


 気が遠くなり、膝に手をつくと、「あけろ」という幻聴が聞こえた。ケルベロスが窓の外に向かって吠えている。震える指で鍵を開け、窓ガラスを引いた。そのあとは、全てが一瞬のことだった。黒い影が足もとをかすめ、弾丸のように飛び出すと、土砂降りの空を駆け上がり、厚い雲の向こうに消えた。


 雨が吹っかける窓ぎわでぼう然と立ち尽くしていると、アナウンサーが鋭く叫んだ。はっとして振り返り、テレビを見た。氾らんした川が、彼の命ごと橋を押し流そうとしている。


「あっ」


 濁流が全てを飲み込んだ。

 悲鳴と咆哮が、同時に聞こえたような気がした――







 ――木もれ日がさす病室から、散歩中の犬が見える。頭が三つあると思ったが、よく見れば多頭飼いだった。ため息をごまかし、窓辺にそっと花を置き、彼のベッドに腰かけた。


「具合はどう?」

「ばっちり。今すぐ退院したい」

「まだ寝てなきゃだめ。こんなに軽い怪我で済むはずないって、お医者さんも驚いてたんだから」


 彼はクスクス笑ったあと、窓の向こうの晴れた空を見やった。頭に巻かれた包帯が痛々しいが、顔色は悪くない。


「冥界へ続く扉の前でさ、あの子が僕を待ってたんだ。本来、ケルベロスは冥界から逃げ出そうとする魂を食らう番犬だ。やってくる魂は拒まないはずなのに、なぜか僕は入れてもらえなかった。仕方がないから、来た道を戻ったんだ。そしたら、気付いたらここにいて、君が僕を見て泣いていた」

「やっぱり犬じゃなかったんだ」

「すごく可愛かったよね」



 ケルベロスは、あれからうちには戻らなかった。

 いつか彼と再会するその時を、きっとどこかで待っている。けれど、急ぐ必要はないはずだ。勇敢で義理堅く、『待て』が得意な彼の愛犬なのだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ストレイドッグ 水野いつき @projectamy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ