【短編】海に花は咲かない

ずんだらもち子

海に花は咲かない

 少女は砂浜にたどり着いたところだった。

 少女はどこかの制服を着ていたが、近くに学校は無かった。

 家もなかった。いわゆる海水浴場として開かれる海岸通りから外れて小高い山道を抜けた先にある、藪や森に囲まれてひっそりとした入り江に少女はいた。

 さっくさっくと砂の音色を確かめるようにローファーで浜を踏みしめる。

 手に提げた鞄を見れば学校帰りなことは誰にも予想がつくかもしれなかった。

 が、そこには誰もいない。

 ――そう望んでいたのであろう、少女は砂浜に先客が一人寝ていたことに気付いてはっと息を飲んだ。

 組んだ両手を枕代わりに、海の方へと投げ出された足は酷く細くて、打ち上げられた流木のようだった。

 きちんとボタンが留められている色褪せたピンクのアロハシャツに、限りなく白に近い水色の七分丈ジーンズは、もう少しすればそのまま砂浜に溶けてしまいそうだが、日に焼けた焦げた肌色がそれに抗うように少女には見えた。

 麦わら帽子を顔に被せていて、その顔は分からなかったが、隙間から覗く灰色の髪は、その寝ている男の年齢を、少女の想定より高齢にしてしまった。

 何よりその男のそばで、墓標の如く砂浜に杖が突き刺さっていたことが、拍車をかける。

 少女は、引き返そうとは思わなかったらしく、まじまじと男を眺めたものの、向こうが気づく様子もなかったので距離をとりながら男の頭の方から周り、少し離れて砂浜に腰を落とす。

 焼けた砂は尻には熱かったのか、少女は慌てて鞄を座布団代わりにした。靴を脱ぎ、紺のハイソックスを脱ぎ捨て、立ち上がった。砂が熱いことを忘れていたのか、ぱたぱたと忙しなく足を上下させてそのまま波打ち際へと向かう。

 やがて砂浜の色が白から茶色へと変わる頃、少女は立ち止まり、呆然と海を眺めた。

 彼女の爪先をそっと撫でるように波が寄せていた。

 揺れる水面は太陽の光を乱反射し、宝石が波間に隠れているよう。

 降り注ぐ日差しを掻い潜り、熱気に混ざって届く海風は、磯の香りを乗せてほんのり冷たくて、少女の火照った頬と、顎の高さで切り揃えられたショートヘアをゆるく揺らした。

 セーラー服の半袖からのぞく白い二の腕に玉の汗が浮かぶ中、少女は振り返った。

 いまだに足を投げ出している男が気になったのだろうか、しばらく眺めていたが、やがて、少女は訝し気に眉間にしわを寄せた。

 男の様子が変化したわけではない。

 むしろ、その微動だにしない様子に怪訝な顔を浮かべたのだ。



 波に足を洗わせて、砂浜の熱に耐えられるようになってから、少女は男の元へと引き返した。

 近づいていっても男は動こうとしない。

「あ、あの、」

 少女は声を掛けた。

 返ってきたのは、鼾だった

「ね、寝てるのかな。でも……」

 少女は不安げに太陽を見上げた。こんなところで寝ていたら熱中症になることは間違いないだろう。

 その男の近くに水分を補給できるような水筒のようなものは無かった。

「……あ、あのっ」

 視線を戻し、さっきよりも語気を強めた。それでも少女の声は、時折強く寄せる波より小さかった。

 だから――、男が「んあ?」と間抜けな声をだし、麦わら帽子に手をかけたのが、自分の声のおかげなのか、波の音のせいなのかは少女にはわからなかった。

 白髪の多い灰色の頭髪、やせこけた頬に無精ひげが蹉跌のように散らかっており、その中でも白髪の髭は金に近い色で輝いていた。

 垂れた瞼の奥に座る瞳は、光を失ってはいなかった。

「お、君が天使かい?」

 男は口角を不敵に吊り上げながらしわ嗄れた声で言った。

「え、へ!?」

 少女は裏返った声を出し、目を瞬かせた。

 男はその反応が不服だったように、ぎゅっと眉間にしわを寄せる。

「随分と奇抜な格好の天使だなぁ」

「あ、あの……大丈夫ですか?」

 少女は取り合わない。むしろこの陽気にあてられて、幻でも観ているのではないかと不安が加速する。

「きゅ、救急車呼びましょうか……?」

「……なんだい」

 男は手にしていた麦わら帽子を目深に被った。

「残念だ。人違いってわけか」

 嗄れた声に悲哀の色が混ざる。

「だ、誰かとお約束されてたのですか?」

 天使に会いたかったのだろうか、と少女は首を傾げた。

「あぁ、そうだ。じゃねえとこんなところにまで来やしねえわなぁ」

 男はもう一度砂浜に寝そべった。

「偽天使のお嬢ちゃん、あんたもそうじゃないのかい?」

「に、偽って」

 少女は口をへの字にして尖らせた。「勝手にそっちが勘違いしたくせに……」

「ははっ。違ぇねえ」

 男の体が揺れる。

「儂の名前は天崎剣一郎てんざきけんいちろうってんだ。ま、怪しい者じゃあねえ」

 寝そべりながら足を組むように右膝を立てて、左の踵をその上にのせた。

「……え、えと……よる――」

「待ちな、嬢ちゃん」

 剣一郎は、麦わら帽子の鍔を人さし指一本でわずかに持ち上げた。

「こんなご時世に、見知らぬ男にそう簡単に本名を明かしちゃあならねぇな」

 にたりと笑む唇の間から覗く歯は年甲斐もなく白く綺麗に並んでいた。

 少女は、からかわれたように感じたのか、そっぽを向き、

「みさきです。ご心配なく、おじいさんみたいなご高齢の男性についていくほどまぬけじゃありませんから」

 みさきはつんけんどんと言い放った。

「ははっ。こいつぁ手厳しいねぇ」

 剣一郎は再び帽子を目深く被った。見降ろす形となっているみさきからは、そのにたりと三日月形に笑う口元だけが見えた。

「みさきさん、あんたもそうじゃないのかい?」

「さっきからそう言いますけど、一体何がですか?」

「誰かと約束でもしてたんじゃあねえのか。こんな辺鄙な所に一人で来ちまって」

 その男の軽い言葉に、みさきは押し黙ってしまった。

 寄る波の一定のリズムが心を穏やかにするはずが、二人の間に流れる空気は立ち昇る熱気に歪められていた。

 みさきは耐えられなくなったのか、剣一郎から一人分間を開けてお尻を砂浜に降ろすと、気弱く顔を崩した。

「い……いえ……。私は一人ですから」

 海の彼方に見える水平線を眺めながら、ぽつりと独り言のようにみさきは言った。

「……そうかい」

 剣一郎の表情はみさきには見えなかったが、その声色は最初から変わらず穏やかで、どこか悟ったような口調だった。

 少しずつ心を許したのか、みさきは顔を剣一郎の方へと向けた。

「だいたい……おじいさんこそ、こんなところで待ち合わせなんて変ですよ。誰も来ないのに」

 彼女のその一言に、剣一郎は短く笑って、続けた。

「だからこそだよ」

 揶揄う様な返答に、みさきはむっと口を真一文字に結ぶ。丸かった瞳はすっかりじとりと座ってしまった。

「もう、なんなんですか。暑さでボケボケになっちゃったんですか」

「ははっ」

 と、笑うまでは、軽妙だったが、

「……だったら楽だろうなぁ」

 剣一郎の声に重みが加わる。

 今も耳に届く波の音と合わさり、妙な聞き心地をみさきに与えた。

 みさきは勢いを失い、口を小さく開いたまま、次の言葉が思い浮かばず、剣一郎に目を向け続けることしかできない。

 彼は、ゆっくりと体を起こした。

「みさきさん、あんたは儂が何歳に見えるかい?」

「え……な、なんですかそれ。なんだかナンパな言葉……」

 精一杯の愛想とばかりに苦笑交じりにみさきは言う。

 それが分かってか、剣一郎は麦わら帽子の鍔を持ち上げ、目だけをみさきに向けた。

「儂にたぶらかされるような間抜けではないんじゃろう?」

 剣一郎が砂浜のように嗄れた声で笑う。

 みさきはすっかり不満顔を露骨にする。むすっと頬を膨らませて、

「おいくつでしょうねっ。私のおじいちゃんよりは……若そうですけど、八十歳くらいじゃないんです?」

 ふん、とすましたように顔を背けた。

「お、すごいねえ。ドンピシャだ」

 目を丸くしたのはみさきの方だった。本当はもう少し若く見えていたが嫌味のつもりで言ったのだろう。

 それが正しかったので驚かざるを得なかったようだ。瞬時に顔を剣一郎に向け、身を乗り出す。手を二人の間に着いたが砂の熱さも忘れてしまっていたのは、彼女の腕や顔に大粒の汗がいくつもの筋を作って流れているからだろうか。

「は、八十なんですか?」

「あぁ、そうだよ」

 その年齢を認識して、みさきは剣一郎に対する認識を改めた。痩せているというより、筋肉量が低下した貧相な体、弛んだ皮膚、灰色の頭、しかしそれでも目と歯は衰えを感じさせない。

「もう長くない。だから死にに来たのさ」

「えっ……」

 みさきはその言葉に瞬時に反応して姿勢を正すと、剣一郎の方へ体を向けて正座した。

 先ほどまでのそっけない表情から一変して、眉尻を垂れ下げた顔を見るや、剣一郎は小さく笑った。

 そのことにも気づかないのか、みさきは言った。

「あ、あのそれって……ご、ご病気とか、ですか?」

「いやぁ、違うね」

 と剣一郎はアロハシャツの胸ポケットに手を当てた。

 取り出した角ばった小さな箱は、たばこだった。

「う、たばこ……」

 みさきが口を歪めてうめくような声をだしたので、

「おっと失礼。若いレディの前で。ついクセでね」

 剣一郎は火をつけることもなく胸にしまった。

「ま、こんなもん吸ってても、今でも元気にしてるよ」

「そうなんですね……。じゃあ、どういうことなんですか? 死にに来たって……」

「夢のない話さ。みさきさんみたいに若い子に聞かせる様なもんじゃあねえ」

「そ、そうかもしれないですけど……ここまで言ってて今更それも……」

「ははっ。まぁそうだな」

 剣一郎はそのまま海を眺めながら続けた。

「さっきも言ったが、儂ももう八十歳……。いつどうなるかわかったもんじゃあねえ。だからって何かやり残したことがあるのかってぇと、そう思いつくもんもねぇ。なのに、死ぬのはやっぱりまだ怖いんだよな」

 剣一郎は乾いた笑みを見せる。みさきは何も言わず、ただ目線だけをその老いた横顔に向けていた。

「病気になったらいてぇだろうし、手術は辛いだろうし、寝たきりになればつまんねぇだろうし。ははっ、ガキみてぇだろう? 儂だって若いころは『年寄りってのはそういうもん』って、なんとなく受け入れてた……いや、見ないようにしてた、なんて言った方が箔がつくか?」

 なんてな。と冗談めかして笑うが、みさきは笑えなかった。

「いっそのこと、呆けちまって何もかもわかんねえ頭にでもなっちまえば、楽なのかもしれねえけど、そうもいかねえみてぇでよ」

 節々に冗談めかす剣一郎だったが、みさきは頑なに真っすぐな目を向けていた。

「……そうなった人も、それはそれで大変だと思いますよ」

「ははっ。みさきさんは鋭いねえ。ま、誤解のないようにしてほしいのは、他人の話じゃなくて儂の考えってことさ」

「……すみません」

「いや、いいってことよ。あんた、真面目で芯が通ってるんだな」

 みさきの頬が、日焼けしたように紅くなった。

「そう考えると……情けねえ話だけどよ、やっぱ寂しくもあってな。若ぇ頃は独り身でも、ゲームや漫画、大人になる頃には動画なんてのもあって、退屈しなかった。でもこうして、死を間近に迎えてよ、色んな苦痛に、これから一人で立ち向かわなきゃならねえのかって思うと……、な。まぁ、誰かがいたらいたで、それが気がかりにもなるんだろうけどな」

 どこかで海の鳥が鳴いた。二人がその姿を追うことはなかった。

「……だから、ここで……死のうとしてたんですか?」

「こんな暑い中で一人寝てたら、ころっと逝かねえかなと思ってよ。で、しばらくしたら天使が迎えに来たんだと思ったら、あんただったってわけさ」

 はははっ。――剣一郎は今日一番の笑顔をみさきに向けた。

 みさきが、つられて笑顔になることは、終ぞなかった。

 話している途中、時折見えた剣一郎の哀し気な影、そのたびにみさきはぐっと奥歯を噛みしめていた。

 そして、それは自分自身を重ねていたのかもしれなかった。

「だから、改めて訊くのも悪いかもしれねえが、訊いておきたいんだよ。みさきさん、」

「は、はい?」

「あんたもそうじゃないのかい?」



 波打ち際から水平線へと向かって、太陽を反射する海面に白い光の道が伸びる。果てに見える小さな影は、遥か彼方の異国へと向かう船だろうか。

「どうして、そう思いました?」

 こくりと首を縦に動かし、みさきは言った。

 その真剣な眼差しから、逃げるように剣一郎は笑う。

「いや、なに。なんとなく、な」

「へ?」

「こんな人気のない入り江、偶然迷い込んだにしては足取りに迷いがないと思ってよ。どこの学校かは知らねえが、女の子が一人でここに来るなんて、よっぽど海が好きなのか……何か一人になりたいことがあったのかなと思ってね」

「学校……サボってきたんです。私の学校、杜埜もりの市なんですよ、って、ご存知ですか?」

「ああ、もちろん。へぇ~、そりゃまたわざわざ遠くから来たね。ま、儂も同じようなもんだけどな」

「そうなんですか?」

「儂は隣の県だよ。海がないからね、わざわざ来たんだ」

「もっと遠いじゃないですか……。どうして海を目指したんです?」

「そうだなぁ。それはみさきさん、あんたが一番わかってるんじゃあねえのかい?」

 みさきは苦いものを飲み込むように顔を顰めながら息を飲んだ。

 砂浜と町とを分け隔てる森から、慌てたように蝉たちが鳴き始めた。生き急ぐ虫たちの残響を感じながら、みさきは両膝を立てて、それを抱えるように座った。

「……私は、海が好きだから。最期に、海を見ながら……って思って」

「……あんたみたいな人が、そんな悲しいことを言うなんてなぁ」

「ははは……。ほんと、一年前はそんなこと思ってもなかったのになぁ」

 みさきは海へと首を回すと目を細める。一年前も同じようにこの入り江を訪れていた自分を羨むようでもあった。

「なんでこんなことになっちゃったんだろう。特に何かしたわけでもないのに。あるんだよね、女子って。そういうなんだろ……順番みたいなの」

 みさきは自嘲気味に笑った。

 剣一郎もまた、嘲るように鼻を鳴らす。

「儂の頃にもあったよ。見ていて気分の良いもんじゃあねえ」

「そうなんだ……」

 みさきはつぶやいた。

「時代が変わっても、人はそう簡単に変わらねえってことだな」

「人は進歩してないんだね。……いつかは変わるのかな」

「あんたの状況も、時が経てば変わるんじゃあねえのかい?」

「うん、そうかも……。でも、手遅れ」

 みさきは太陽のように眩しい笑顔を魅せた。これだけの青空と、深い海を背負っていてもその笑顔は違和感を孕んでいた。

「だって、高校に入学してもう一年以上経つのに、まだ続くんだもん。……高校生活も半分終わったようなものなのに。もう部活もやめちゃったし、バイトもやめちゃった……。でも、全然スッキリしないの。どんどん人に会うのが怖くなっていって。学校も、もう今日で無理になっちゃった」

 みさきは笑顔を崩さないまま、しかし静かに涙をその赤く焼けた頬に流した。

「親御さんは心配するんじゃねえか?」

「どうだろ。」

 みさきは投げ出すようにぞんざいに告げる。「私が部活を辞めたって言った時は、すごく怒ってた。私の話は聞こうとしなかった」

「びっくりしたんじゃねえのか? 大人だって化けの皮一枚はがせば簡単に子どもさ」

「おじいさんみたいに?」

 弱り切っていたが、みさきの久しぶりの笑顔に剣一郎は無言と微笑みで返した。

「まぁ小学生の低学年からさせてもらってたバレーだったから。ショックだったのかもね。だからその分勉強頑張るって約束して、それから親には、ずっと楽しそうにしてみせてたかな」

 みさきは自分の膝をぎゅっと抱き締めて、顔を埋めた。

「辛いか?」

 剣一郎は淡白にそう尋ねた。

「うん……。でも今はなにより、悔しい」

 みさきは手の甲で目元を拭う。

 何度も何度も目を拭って、小鳥の囀りのように小さく鼻を啜る。

「……なんで…………私だけって、みんなフツーに笑って高校生をしてるのに。友達と遊びに行ったり、部活したり、彼氏とかできてたりして……私だけ、見えない何かに怯えてて、でも悔しくて、だから、平気なふりして……歩いてた。でも――」

 みさきが涙に濁った声を止めたのは、いつの間にか自分の鼻先に剣一郎からハンカチが突き出されていたからだった。

 彼は、海を臨みながら、痩せた腕を微かに震わせながらみさきへハンカチを差し出していた。

 みさきは一瞬ためらったが、すぐにそれを受け取り、目元を覆った。

「おめえさん、立派だな」

「そんなんじゃない……よ」

「前を向いて歩いてたんだろう」

「振り返るのが怖かっただけだもん……」

 言葉尻がくしゃりと歪む。嗚咽混じりに、それでもみさきは言葉を止めない。

「負けず嫌いなだけ。それが原因で嫌われてたのわかってるもん」

「いつも見えない何かと戦ってたんだ」

「でも勝てなかった」

「そうして誰にも見えない涙を流していたんだな」

を認めたら、もう戻れないと思ったから」

 みさきの嗚咽が一等強くなる。

 剣一郎は、何も言わなかった。みさきの泣き声を耳に、ただ波を眺めているだけだった。

 やがて、その涙が穏やかになった頃、剣一郎は言った。

「戻りたいか?」

 しゅん、と鼻を啜って、みさきは答える。

「……もう無理かも。……ねえ、おじいさん。人生って、何なのかな? 生きる意味ってなんなんだろ。理由って何かな。こんなに辛くても、生きていかなきゃダメなのかな」

「意味ってのは、ないようである。が、いちいち気にして生きちゃいねえ。そう、波みてえなもんだ」

「……どういうこと?」

「波にも無いようで意味はある。調べりゃ出てくるだろうし理屈もなんとなくわかるだろう? だけど海で遊ぶ時、いちいち波の意味なんて気にしてるか? 人生も同じ、かもな」

「よく……わかんないかも」

「ははっ。すまねぇな、がらにもねえことしちまって。……生きる理由、意味はあるのかなんて八〇年生きてもはっきりしねえ。だが死ねない理由は、その時々であったなあと思えるよ」

「死ねない、理由……」

 みさきはぽつりぽつりと、一文字一文字を噛みしめるように健一郎の言葉を繰り返した。

「他人に求めても仕方ねえ。どんなことでもいい、死ねない理由があって、生きて生きて生き続けて……あと少しで死ぬ、そう分かった時に振り返って初めて、てめぇが生きた意味がわかって、少しでも笑えたらそれでいいんじゃねえか」

 剣一郎は並びの良い歯を見せつけるように笑った。

「……おじいさんは、見つけたの?」

「儂か? それが全然見つけらんねえんだよな。ていうか今のままじゃあ笑えずに終わるかもな」

 まぁ、それも悪くねえか――剣一郎は自嘲をたたえながら立ち上がり、みさきから数歩離れるとたばこを手に取った。

「なんですか、それ。じゃあまだ死ぬのは早いんじゃないですか?」

「ははっ。それはみさきさん。あんたに――……」

「――おじいさん!?」

 剣一郎の体は静かに砂浜に倒れてしまった。

 呼吸は荒く、日に焼けてるが白いと感じる顔色、これだけ暑いのに汗がほとんど肌に流れていない。

「きゅ、救急車――」

 呼ぶべきなのか、みさきは一瞬ためらって、暗い画面の中の自分と見つめ合う。

 波は変わらず寄せては引くを繰り返しているのに、蝉の鳴き声だけがみさきの周りを囲んだ。

 やがて、高い波が轟き、潮の香りが砂浜に漂う頃、みさきは顔を上げた。

 そして自分の鞄から日傘を取り出したのだった。



 剣一郎は、四方が白い部屋で目覚めた。

 柔らかい背中の感触に、未だに砂浜で寝ているかと勘違いしそうになった彼を、覚醒させるような冷たい空気が包んでいる。

 鼻の奥をチクリと刺激する薬臭さ、自分の黒い肌に似合わないラムネ瓶のような緑色の管が腕に刺さっていることに気付き、そこが病院だということがわかった。

 ベッドのそばにはありきたりな看護師の制服姿があった。

 もそりと重い体を起こすと、背中を向けていた看護師が気配を察し、振り返る。

「あ、天崎さん、気づいたんですね」

 妙に甲高く、声量の強い中年看護師の声は、寝起きの老体には辛いものがあった。

 何かわめくように色々と説明してくるが、ちっとも頭に入ってこないのか、天崎は難しい顔を浮かべ、終いには寝転んでしまった。

「――。あ、そうそう。」

 どうやら一頻り語り終えた看護師は、最後に何かを思い出し、ベッドそばに備え付けの棚から一通のメモ書きを取り出した。

「はいこれ、天崎さんの、お孫さんではないみたいだけど、一緒にいたって言う女の子から」

 あの子誰なんですか? もしかして若い彼女とか?

 看護師の気色ばんだ質問は、天崎の耳には入ってこなかった。

 それは、ノートの切れ端だった。罫線の引かれたメモはできる限り綺麗に手でちぎられたような切り目がついていた。それを補うように、丁寧に折りたたまれている。

 ともすれば高齢の剣一郎には難解なパズルのようにも思えて眉間に皺寄せながらゆっくりと解いていく。

 やがて開かれたそのメモに走り書かれた一言は、剣一郎に点滴以上の活力を与えた。

「天崎さん、もうこんな無茶なことしてはいけませんよ」

 と看護師が訴えても手紙に夢中で振り向こうともせず、適当に手で払う。

「あぁ、分かってる。たった今、死ねない理由ができちまったからな」

 剣一郎はにたりと口を歪め、鼻で笑った。

「はぁ?」

 看護師の露骨な怪訝顔は意にも介さず、剣一郎はとても穏やかな声で言った。

「そうか、そんな字を書くんだな」



『――とりあえず、明日も来ます 海咲――』

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【短編】海に花は咲かない ずんだらもち子 @zundaramochi777

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