遠夏

葉羽

深夜二時の遊園地


 茹だるような暑さはなりを潜め、晴れ渡った空からは暗い月が覗いている。少年はぼんやりと浮かぶ赤い光に、手招きされたかのように引っ張られる。

 点々と佇む街灯を巡って辿り着いた建物は闇夜でもわかるほど高く聳え立ち、その存在感を明らかにしていた。

 暗闇、赤い光、ひとりぼっちの遊園地。少年にとって唯一の希望は、その建物から漏れ出る微明だけだった。


 入り口のドアは開け放たれている。まるで焚き火に集る羽虫のように、少年は光を求めて扉をくぐった。


『日本最恐! 本物の廃病院を利用した異次元ホラーアトラクションがついに解放! 

 過去にこの病院でなにが起きたのか……真相はあなたの目でお確かめください』


 ◇


「裕也はね、お兄ちゃんになるんだよ」

「……お兄ちゃん?」

「そう。妹ができるの。だから、お兄ちゃんになれるようにちゃんと準備しようね」

 ずっと、お兄ちゃんになるのはいいことだと思っていた。ママとパパはぼくとたくさん遊んでくれるから、妹ができたら、妹もぼくと遊んでくれる。家族が増えるって、そういうことだと思ったんだ。

 でもそれは違った。ママはお腹が大きくなると、実家に帰ると言ってぼくとパパを残して遠くへ行ってしまった。パパは料理なんてできなくて、毎日うどんとおにぎりとラーメン、お弁当ばかり食べていた。ぼくの大好きな唐揚げだって、パパが作るとべちゃべちゃしておいしくない。

 パパは料理も片付けも洗濯も掃除も、なぁんにもできない。なぁんにもできないのに、ママは妹のせいで家にはいない。

 ぼくは、ベッドに三人並んで寝るのが好きだった。ママが右、パパが左にいて、真ん中はぼく。どっちを向いても温かくて、暗くても怖くなんてなかった。それなのに。

 数ヶ月ぶりに帰ってきたママは、毛布に包まれた小さな何かを持っていた。そうしてぼくは初めて妹の花梨(かりん)と会った。

「裕也の妹の花梨だよ。かわいいでしょ?」「……男の子みたい」

「ふふ、そうね。でも裕也だって、女の子みたいにかわいかった時期があるのよ。髪が長くってね。花梨だってこれから伸びるんだから」

 上機嫌に話し始めたママは、花梨を熱心にみつめて、ぼくが興味なさげに顔を逸らしたのすら興味がないみたいだった。

 本当は女の子なのに髪の毛が短くて顔も変だし全然かわいくないよ、と言おうとしたけれど、口から出る前にやめておいた。理由は簡単。久しぶりにみたママがいつになくニコニコしていたからと、パパが泣きそうに目をうるうるさせていたからだ。ぼくはママとパパの嫌がることをしたいわけじゃなかった。

 初めて花梨をみたパパは、ママを花梨ごと抱きしめた。それに驚いた花梨はふえふえ泣き出す。ママは慣れたように、パパは少し焦って、花梨に向かって話しかけたり変な顔をしたりと、とにかく、側にいたぼくなんていない風に花梨ばっかり構い始めた。その日から毎日、飽きることもせず。

「ねぇママ。お腹すいたよ」

「ごめんね、花梨が泣き止むまで待ってね。ああ、よしよし」

「パパ、鬼ごっこしようよ」

「今忙しくてなぁ。ほら、テレビとかみて待っていてくれないか? もう少しだから」

「ママ、宿題わかんない」

「ちょっと待ってね……やっぱりパパに聞いてくれる?」

「……ママ、あのね」

「なぁに?」

「……やっぱりなんでもない」

 ぼく、妹なんて要らなかったよ。

 ママもパパも、一番はぼくだったはずなのに。いつの間にか、ぼくは花梨に負けていた。花梨が一番優先されて、ぼくはその次になってしまった。何も変わらないと思っていたんだ。二人はこれからもずっとぼくのことが一番に好きで愛してくれるって、疑いようもなく。

 花梨が二歳になっても、ぼくが二番目に成り下がったのは変わらなかった。ぷくぷくした体で元気そうに動く花梨に、ママとパパは喜んでいる。ぼくが何も楽しくないってことに二人は全く気がつかないし興味もない。

 今日もそうだった。花梨の誕生日が近いからって、みんなで山奥の遊園地に遊びに来ていた。おばあちゃんの家から車で十分ほどの場所で、ママはそこが一等お気に入りだと嬉しそうだった。周りは山ばっかりなのに案外人気はあるらしくて、駐車場には車が敷き詰められていた。最初は憂鬱だったけど、遊園地っぽい観覧車やジェットコースターが見えてくるとワクワクして心が躍った。隣に花梨がいなければ、もっとワクワクしたはずだった。


 そうしてようやく遊園地に入って、乗り物に乗って、ご飯を食べて、それから……。

 何があったんだっけ。よく覚えてないけど、また花梨がぼくの嫌がることをしたんだろう。それでついカッとなって、いつもなら絶対に言わない、言うべきではないことを口走った。

「……どうして花梨ばっかりなの? そんなのってずるいよ。ママとパパは花梨が大好きかもしれないけど、ぼくはこんなやつ嫌いだ」

 勇気を出してがんばった。なのに、二人はぼくを叱って。

 花梨ばっかりずるいと思った。でもこれを言った瞬間、ママとパパに嫌われたかもしれないなんて考えが浮かんで、言わなきゃよかったと心底後悔した。

 けれど、言葉に出してみると、すごくスッキリしたんだ。だからどっちがよかったのか、ぼくにはわからない。

 顔を真っ赤にして、キラキラした観覧車を背後にぼくを怒って。ぼくが堪らなくなって走って逃げ出しても、追いかけてもくれなかった。

 それも余計にぼくの心を傷つけた。苦しくて悲しくて、木の陰に蹲って隠れた。そのうちぼくは、そこで眠ってしまったらしい。


 ◇


 目が覚めると、どこかに寝転がっていた。目を開けても視界は暗いままだけど、よく見れば小さな光が散りばめられている。見上げているのは夜の空で、光は星だった。

 硬い地面に仰向けになっていたぼくが時間をかけて起き上がると、目の前には光を失った観覧車が寂しげに揺れていた。目の前は暗いけれど真っ暗ではない。フィルターにかかったように薄暗く照らされたメリーゴーランドの馬は顔の傷まで見えるし、顔ハメパネルの二等身キャラクターもよく見えた。でもどこへ進めば出口があるのか、どこへ行けば人がいるのか、探そうにも辿ろうとした道は沼のように深い闇で覆われて歩こうにも歩けそうになかった。

 頭上を蝙蝠が通り過ぎる。怖くて、暗くて、寒くて、ママとパパに会いたくて。ぼくはキョロキョロと視線を彷徨わせた。あんなに賑わっていた観覧車の前なのに、人が一人もいない。それもすこし不気味で、ぼくは寒くもないのに自分の身体を抱きしめた。

「……?」

 ぐるりと回って一周する直前、ふと、お辞儀をするように頭を下げた街灯がみえた。他よりも特別光を放つその場所に向かうと、そのまた先に同じものがある。そこへつくとまた同じ街灯を見つけ、そしてまた……というように、ぼくは何かに導かれるように、光の方へとふらふら歩いた。パッと気がつくと、ぼくの前には暗闇、いや、暗闇と勘違いするほどの大きな壁があった。

 入り口のドアは茶色いチョコレートのような形で、風もないのにギイギイと音を立てて動き続けている。ドアの隙間からはほんのりと薄い黄色の光が漏れ出て揺れ、ドアはぼくを誘うようにいきなりバタン、と閉じる。

 ぼくは立ち止まって、その建物を見た。ドアが閉じてしまえば灯りは頭上の街灯しかなく、あるとすればドア下の隙間から漏れる微かな色だけ。

 けれど、電気がついているということは、人がいて助けてくれる可能性は高い。ぼくは唯一見つかった希望にかけて足を踏み入れた。


 その扉の向こうは案外明るくて、細長い蛍光灯が光っていた。狭い通路は室内なのに風が吹いていて肌寒い。

「だれか」

 声はあまり響かない。すぐ突き当たりの壁があり、左側へと曲がって続いているらしかった。

 外の暗がりよりかここは随分明るいのに、白い壁のシミや鼻の奥に響く自分の足音が余計に恐怖を煽る。ぼくは一度大きく息を吐いてから先へと歩いた。

 進み始めてすぐに、ぼくは気がついた。ここはただの建物じゃなくて、多分、病院だ。椅子の並んだ待合室や受付のカウンター、ドアの多い通路は見覚えがある。けれどどこも薄黒く汚れて、床の端にはいろんな破片や道具が散乱していた。人がいそうな気配は全くなく、耳がキンとする静けさが聞こえてくるだけだった。

 一歩一歩、ゆっくり歩みを進める内に。ぱち、と。蛍光灯が点滅する。

 ぱち、ぱちぱち、ぱちん。

 暗闇と明るみを瞬きより早く繰り返す中、視界が照らされた瞬間に何かが見える。見間違いかと思うほどそれはすぐに消える。けれど何度も何度も現れて、確かにぼくの目に映っているのだとようやく判断した。けれど、目を凝らしても、何なのかがわかる前にぱちんと姿を消すのだ。

 これは別に怖くなんてなかった。見間違いとか、疲れとか、そもそもこの場所が怖いから見える思い込み、そういうものだと思った。なぜなら高い天井に反響し帰って来る足音は、ずっと一つだけだから。

 ぱちん。ぱちぱち。ぱちん。

 五メートルほど先の曲がり角から何かが飛び出して、反対の壁へ消えた。今度は間違いじゃないと断言できるくらい、はっきりと見てしまった。ぼくが奥へ進むとうちに、その何か────黒い影が、大きくなっている気がする。

 気のせいじゃない。最初よりも確実に大きくなった。それに、見える頻度も高くなった。さっきは十歩で、今は五歩で姿を現す。

 三歩。二歩。つい立ち止まる。黒い影はついにぼくの目の前にくると、パッと姿をくらませた。その途端蛍光灯が消え、視界が真っ暗になる。

 後ろから冷風が吹いてきて思わず振り返ると、手を伸ばせば届く距離に赤色の光が浮いていた。信号の赤みたいな、真っ赤な光だ。

 さっきまで、絶対にこんなのなかった。だって今ここを歩いてきたばかりだ。まん丸でキレイだけど、それがなんだか恐ろしくて仕方がなかった。思わず後ずさりすると、何かに引っかかって転んでしまう。いたい、と喉から反射的に声が出る瞬間。耳元で誰かが囁く。

「──家に帰りたいんだ」

 それは嗄れた男の声だった。体が凍りついたようにピクリとも動かない。瞬きすら憚られ目を見開いたぼくは、震えながら赤い光を見つめるしかできなかった。気がつけば首元に冬の寒さをそのまま持ってきたような手が触れる。乾燥した指先が一本ずつぼくの首にピタリとくっついて、息が止まりそうだった。

 視線だけを下に向けると、そこにはじわじわと黒いモヤが立ち上っていた。

「家族に会いたいだけなんだ。娘はもう大きくなって、かわいくってなぁ。それなのにこんなところに閉じ込められて、どれぐらい経ったかわからない……なぁお前さん、ここから出してくれないか?」

 脳にこびりつく粘性のある声が、耳からドロリと入り込んでくる。荒い呼吸を続けるも、少しでも動こうものなら首にかかった手がどうなるか想像できてしまい、中途半端に倒れ込んだ姿勢のまま近づいてくる光を眺めた。

 燃え盛る線香花火に似た、パチパチと時折弾けるように糸を巻くその光。ぼくに話しかけもせず、ただ徐々に迫ってくる様子が、何よりも恐ろしかった。

 あ、もしかしたら、まずいのかもしれない。ママに、パパに、もう会えないのかも。謝るかどうかは別として、二人にもう二度と許してもらえないまま、死んじゃうのかもしれない。

 想像するだけで涙が出た。目が乾燥して出た涙かもしれないけど、そんなのはどっちだってよかった。でもあんな態度のぼくがママとパパにとっての最後なんていいわけがない。二人にずっと、嫌われたままだなんて。

「……いやだ」

 乾いて丸い爪先が、喉の真ん中にグッと食いこんだ瞬間だった。

「おじちゃんたち、やめて。やめてったら。それ以上やったらわたし、嫌いになるからね」

 ちり、と鈴が鳴るような可憐な声が聞こえた。赤い光がだんだんとぼやけて、その色も相まって火が消えるように小さく縮んでいく。まるで何かに怯えるように光が姿を眩ませると、ぱちん、と頭上の蛍光灯が世界を照らした。それと同時に背後の男の気配もなくなり、首元の圧迫感からも一気に解放される。

 は、と走った後に似た呼吸を続け、ドッと身体中から染み出した汗を拭うこともせず後ろを振り返った。そこには一人の女の人が立っていた。足の指まで凍えるような冷たさも拡散された中、ぼくはその人を、なぜだか怖いと思わなかった。逆に、この人を前にして、自分でもびっくりするくらい安心してしまった。目の力も入らなくなって、涙がぽろぽろとめどなく溢れてくる。さっきまで得体の知れない何かに捕まって、息もできないくらい怖かったのに。

 不思議な感覚に襲われて首を傾げているぼくに、女の人が言う。

「大丈夫? 無事なら早くここから出たほうがいいよ。夜は暗くて危ないからね」

「……」

「着いてきて。そうしたら家族のところに帰れるから」

 オバケみたいに白い手で手招きをする女の人について行こうと腰を上げて、止まる。

 ここに入るまでは、ママとパパがいないこの遊園地からすぐに出たいと思っていた。でも帰り道を教えてくれる人がいて、今すぐに帰れる安心感を手に入れて思い出した。花梨が生まれる前、ぼくが迷子になると、ママはそこら一帯を駆け回って息を切らしてぼくを探してくれたこと。蹲って静かに泣いていてもいつの間にか迎えにきてくれて、それからその帰りに抱っこしてもらう時間がすごく好きだったこと。今は花梨を抱っこしなくちゃならないから、そうはいかないこと。

 さっきあんなに怖い思いをして、すぐにでもここから出たいはずなのに。

「まだ……帰りたくない」

「どうして?」

 ぽろ、と目頭に残った涙が一粒溢れたのを拭う。女の人が高い位置からじっと見つめて質問してくる。下から見上げたその人が、お人形みたいに真っ白で、目が大きくて、髪が真っ黒なのをようやく知った。

「……妹よりも、ぼくをみてもらうため?」

 知らない人にこんなこと言ったってしょうがないからって、言うつもりは一切なかった。それにも関わらず溢れるように出てきた言葉は、まごうことなくぼくの本心だった。

「妹?」

「うん。ママとパパは妹が好きなんだ」「きみは違うの?」

「ぼくは好きじゃないよ。だって、ママとパパが好きなんだもん」

「難しいんだね」

「難しくないよ」

 女の人はあっという間にぼくに近づいて、真横にしゃがみ込んだ。まだここにいてもいい許可を得た気がして、ほっと緊張が綻ぶ。いそいそと膝を抱え込んで体育座りになるぼくを覗き込んで女の人は言った。

「きみは妹が嫌いなの?」

「……わかんない」

「どうして?」

 真っ黒な瞳が、目の奥からぼくの考えを全て盗み取ってしまうんじゃないかと思った。それほどに黒くてつぶらな、なんでも知り尽くしていそうな目をしていた。だからなんでも話せる気になって、必死に質問に答えようと頭を働かせてみた。

「ぼくは、ママとパパが好きなんだ。ママとパパにもぼくを好きでいてほしい」

「うん」

「つまり、二人の好きなものはぼくの敵ってことになるんだ」

「そうなの?」

「そう、たぶん。だから、ぼくは花梨が嫌いじゃない、けど好きになれない」

「ふうん」

 初めてこんなことを人に話した。話すならママとパパだけれど、二人になんて話せるわけがなかった。友達に相談しても、みんな妹や弟が大好きだって言うんだ。だからぼくは誰も味方がいなくて、一人で花梨と戦っていた。

 花梨は、すごく強い。がんばっていろんな策を試してみても、一度も勝てたことはなかった。わざと転んでみたり、怒られるとわかって壁に落書きをしてみたり、友達にあげた鉛筆をなくしたと嘘をついてみたり。どれもぼくになにかしらの反応をしてくれるけど、その腕には必ず花梨がいて、どちらかしかこっちを向いてくれない。

「……ママとパパに、ぼくがいないとどれくらい寂しいかを教えてあげるの。今帰ったら、二人ともぼくに謝ってくれる。でもそれじゃあダメなんだ。何よりも誰よりも大切にしなきゃいけないって思ってほしいんだ」

 引っ込んだはずの涙がもう一度こぼれてきた。今度は怖さとか痛みじゃない、ただ不安になった時にでる涙だった。花梨が生まれてからは、よくあることだった。

「賢い子だって思ったら、意外と子供っぽいんだね」

「バカにしてるの?」

「逆に褒めてるくらいだよ」

 女の人はスッと目を細めて口元を愉快そうに吊り上げた。日本人形みたいにまとまった髪の毛が揺れていて、ずっと風が吹いているのを思い出す。

 子供っぽい、と言われれば誰でもムカつく。ぼくは子供だけど、それとこれとは話が別だった。

「ぼく、大人っぽいってよく言われるんだから」

「そうだろうね。私もそう思う」

「じゃあ、なんで?」

 首を傾げて問うと、目元の涙が膝に落ちた。それを追いかけて、目線が下がる。

「なんでも決めつけて、そこから次に発展していかないから」

「……わかんない」

「ママもパパも、きみのことを愛してるよ。それこそ妹と同じように」

「同じじゃだめ。ぼくは、花梨に勝たないと」

「それ。なんで勝たなきゃいけないの?」

「……なんでって、勝たないとママとパパがぼくをみてくれないからって、さっきも言った」

「ねぇ。小さい子は、一人でなんでもできないの。きみは一人で食事をして風呂に入って着替えができるけど、妹は違うでしょ? きみは転んでも起き上がれる。受け身が取れる。でも、妹は転んだだけで死ぬかもしれない。体が柔らかいから。それは知ってる?」「……うん」

 素直でよろしい、と表情を変えずに続ける。

「両親は、きみも妹も大切で大好きなんだよ。そこに区別や偏りなんてない。ただ、妹の方が小さいから気にかけている」

「でも花梨は、もう大きくなった」

「きみより大きくなることはきっとないよ」

「……そんなの、わかんない」

 女の人は、ぼくの顔を見てさっきから笑ってばかりいる。ふざけてぼくを揶揄っているようにも、優しく見守っているようにも見える、不思議な表情だった。

 わからないって言ったけど、本当はずっとわかっていた。ずっとずっと前から、わかってたんだ。でも、それはぼくがこれからも永遠に二番目だと認めるのと同じだったから。仕方ないって思っていても、悔しくて、やっぱり一番が良くて。妹だとしても譲れない大切なものだった。

「ほら、もう帰らなきゃ。ママとパパが心配してる」

「……ほんとに?」

「当たり前でしょ。きみをこんなに大事にしてるんだから」

 そう言って立ち上がった女の人は、ぼくの右側にあったスライド式のドアを開けた。その先はなぜか病室じゃなくて手術室で、大きな光が人の乗る台を煌々と照らしていた。まっすぐ進んで、向かいのドア。開けると見覚えのある受付のカウンターがぼくを出迎えた。迷いなく歩いていく女の人を見失わないように、小走りでついていく。その道中で、気になっていたことを一つ、質問してみた。

「名前はなんていうの?」

「人に名前を聞くときは……」

「自分から、だったっけ。じゃあ、ぼくは裕也」

「じゃあって。けど、私教えるとは一言も言ってないよ」

「なにそれ、ずるい」

 最終的にたどり着いたのは、非常灯の緑が眩しい鉄製の重たいドアだった。立ち止まる女の人に、ぼくも動きを止める。

「ここを出れば、元いた場所に帰れるよ」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 元の場所ってどこだろうか。まぁ、この人が言うなら多分大丈夫だろう。そんなおかしな安心感が芽生えるくらい、ぼくは女の人を信頼してしまっていた。名前だって知らないのに。

 だから、ほんのちょっと名残惜しさを覚えて。ドアノブに手をかけて、力を込めてから呟く。

「……またあえる?」

 無理なお願いだろうと思った。ぼくは二度とここには来ないし、こようとも思わない。それなのにまた会いたいだなんていう、ただのわがままだった。

 振り返って見えたのは、無表情でも笑顔でもない、目をぱちくりさせて驚く顔だった。そこから柔らかく表情が変わっていく様子を見る前に、ぼくはドアに再び向き合った。

「……会うよ。必ず」

 後ろから聞こえた言葉に、ぼくは嬉しくなって。それでももう一度振り返るのは恥ずかしいから、そのままドアを開けた。

 重いドアの向こうに広がっていたのは真っ暗な道。月明かりすらない暗闇だったけど、一歩踏み出せば案外簡単に前に進めて、ぼくは自分にびっくりする。

 背後で、黄色い蛍光灯の光が細くなっていく。女の人の影も細長く消えていく。

「私の名前は、……」

 バタン、とドアが閉まる瞬間。最後に聞こえたのは、そんな言葉だった。


 ◇


 お兄ちゃんだから、って言われるのが嫌いだった。ぼくは好きでお兄ちゃんになってない。お兄ちゃんにならないほうが、幸せだったって。

 昔は、そう思っていた。


「お兄ちゃん、漫画貸して」

 バタン! と勢いよく部屋のドアを開けてズカズカ遠慮の一欠片もなく向かってくるのは、花のJKであるはずの妹だった。スカートを履いて大股で歩く姿では、花の、なんて笑えてくる。

 母に似て高い身長、日にあたると赤くなる家系のため白い肌。あくどい笑顔が得意な、性格の悪いけれど憎めない妹。最近肩甲骨あたりまで伸びていた髪をバッサリ切ってからは前以上に毎日が楽しそうだ。

「花梨」

「なに?」

「……そのスカート、サイズシールついてる」

「はっ⁈ もっと早く言ってよ!」

 信じらんない! とブチギレながら、両手に漫画を抱えるのは忘れず出ていった花梨の後ろ姿を見送る。

 なんだろう。いつだったか、今の花梨に似た人に、昔会った気がする。さっきの横顔なんて特に見覚えがある。けれどそれが誰なのかは、もう忘れてしまうほど昔の出来事らしい。

「まぁ、いいか」

 何かの拍子に思い出すこともあるだろう。考えて思いつかないのなら、そのタイミングは今ではないのだ。

 思考を放棄してベッドに寝転がると、充電中のスマホが振動した。

『今度、みんなで遊園地行かない? 昔よく行ったところ。ほら、あのお化け屋敷が有名な』







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遠夏 葉羽 @mume_21

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