ゲドガキは違えぬ

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ゲドガキは違えぬ

 扉を開けると、まず目に飛び込んでくるのは豪華なシャンデリアの輝きだった。

 天井から吊るされた無数のクリスタルが、柔らかな光を反射してキラキラと輝き、まるで星空のように美しい光景を作り出していた。シャンデリアの光は、エレガントな白いテーブルクロスがかけられたテーブルに優しく降り注ぎ、銀のカトラリーやクリスタルグラスがその光を受けて一層輝いていた。

 藤崎有季ゆきは、初めて訪れた高級レストランの豪華な雰囲気に圧倒されながらも、その場に相応しい振る舞いを心掛けていた。彼女はエレガントなワンピースに身を包み、軽く巻いた髪が肩にふわりと落ちている。

 隣に立つ男性は背が高く、細身でスタイリッシュな雰囲気を持っていた。彼は白シャツの上に紺色のスーツを羽織り、それが彼の端正な顔立ちを引き立てていた。

 名前を山下とおると言い、有季の会社の先輩にあたる人物だ。

 ウエイターに案内されテーブルに着くと、透は椅子を引いて有季の着席を促してくれる。有季は促されるままに、ゆっくりと着席をしていく。

 テーブルには美しくセットされた銀のカトラリーが整然と並び、シャンデリアの柔らかな光がグラスに反射してキラキラと輝いていた。

 有季の向かいに座る男性は、同僚の中でも一目置かれるエリート社員だ。彼は落ち着いた表情でワインリストを眺め、有季に微笑みかけた。

「藤咲さんは、何か好きなワインはありますか?」

 有季は少し緊張しながらも、微笑みを返した。

「お任せします。私、ワインのこととか全然知らなくて」

 そう答えると、透は恥ずかしそうに表情を崩す。

「実は。僕も、そうなんです」

 透は軽く笑いながら、ウエイターに注文を伝えた。

 数分後、テーブルに運ばれてきた赤ワインが二人のグラスに注がれると、その香りがふんわりと漂い、有季の心を落ち着かせた。

 銘柄は分からないが、色と香りから高額なものであることは分かる。

「乾杯しましょう、藤咲さん」

 透がグラスを持ち上げた。

「乾杯」

 有季もグラスを持ち上げ、軽く触れ合わせた。クリスタルグラスが奏でる澄んだ音が、レストランの優雅な空気を一層引き立てた。

 有季はワインを一口含み、その深い味わいに目を細めた。

「美味しいですね。こんな素敵な場所に連れてきていただいて、ありがとうございます」

「こちらこそ、忙しい中、時間を作ってくれてありがとう。今度の仕事は藤崎さんの力がなかったら上手くいかなかった」

 透は微笑みながら答えた。

 有季の心には、一抹の不安と期待が入り混じっていた。彼女はこのディナーが単なる仕事の延長ではなく、少し特別なものになる予感を抱いていた。山下の落ち着いた振る舞いや、時折見せる優しい笑顔が、彼女の心に温かな灯をともした。

 料理が運ばれてくると、その美しい盛り付けに有季は目を奪われた。

 前菜のサラダはまるで芸術作品のように色とりどりで、メインのステーキは香ばしい香りが漂っていた。有季はフォークを手に取り、一口運んだ。肉の柔らかさとソースの風味が口の中で広がり、彼女は思わず微笑んだ。

「美味しい」

 有季は山下に目を向けた。

「気に入ってもらえて良かった」

 山下の声には温かみがあり、その一言が有季の心をさらに和ませた。

 二人の会話は自然と弾み、仕事の話から趣味の話まで、様々な話題で盛り上がった。有季は山下の知識の豊富さや、人柄の良さに感心し、次第にその場の緊張も解けていった。

 デザートが運ばれてきた頃、山下はふと真剣な表情になり、有季の目を見つめた。

「藤咲さん、今日はどうしてもお伝えしたいことがあって……」

 透の言葉に、有季は察する。

 いや、分かっていたことだ。今日、食事に誘われた時から……。

 有季は胸が高鳴るのを感じた。

 そして、その瞬間が訪れたのだ。

「……僕と、付き合って欲しい。最初から、こんな事を言うなんて非常識かも知れないけれど、結婚を前提にお付き合いして欲しいんだ」

 有季は息を飲んだ。

 予想はしていたものの、実際に言葉にされると動揺を隠しきれなかった。

 しかし、それは決して不快な感情ではなかった。むしろ、嬉しいという気持ちの方が勝っていた。

 有季の返事を前に、透は続ける。

「僕は早くに両親を無くして、孤独な暮らしをしてきたし、恋愛にも臆病になっていたと思う。でも、街中で夫婦が子供を連れて楽しく歩いている姿を見る度に、羨ましく思っていたんだ。自分もあんな家庭を築きたいってね。だから、もし僕と結婚してくれる人がいるなら、その人の事を大事にしようと思っていた。

もちろん、今まで誰とも付き合ったことはないよ。そんな時に、君に出会った。君の一生懸命な姿に惹かれたんだ。一目惚れだったのかも知れない」

 透の目は真剣だった。その瞳からは、彼が本気であることが伝わってきた。

 有季は胸に手を当てた。心臓の音が大きくなっているのが分かる。

 鼓動が激しくなるにつれ、自分の心の中にある感情がはっきりと浮かび上がってきた。

 透はテーブルの上にあった有季の手に自分の手を重ねようとした。自分が手を握れば有季は必ず手を寄せてくれる。彼は、それを信じて疑わなかった。

 だが、透が有季の手に自分の手を重ねようとした瞬間、有季は手を波が返すように引いた。

 予想外の反応に透は驚く。

 二人の間に沈黙が流れた。

 その後、有季の口から発せられた言葉は意外なものだった。

「……嬉しいです。……でも、私子供が嫌いなんです」

 その言葉を聞いた時、彼の心の中にあった温かい気持ちが一瞬で凍りついたのが分かった。まるで冷たい氷水を浴びせられたような衝撃があった。

 しばらく呆然とした後、山下はゆっくりと口を開いた。

 その声は微かに震えていた。

「子供が、嫌いって……」

 なぜ彼女がそんな事を言うのか理解できなかったからだ。

 いや、理解することを拒んでいたのかもしれない。彼女の口からそんな言葉が出る訳がないと思っていたかったのだろう。

 だが、現実とは残酷なものだ。

 彼女の表情は硬く強張り、目には涙が浮かんでいた。

「正確には男の子が嫌いなんです。女の子なら育てます。でも、男の子なら……」

 それ以上の言葉は出てこなかった。代わりに嗚咽が込み上げてきた。彼女は手で口元を押さえながら席を立った。

「ごめんなさい。今日は、失礼します」

 彩音は深々と頭を下げると、そのまま足早に出口に向かう。

 残された男の耳に届くのは、扉の閉まる音だけだった。

 ホテルを出た彩音は、夜の街を彷徨うように歩いていた。もう何も考えられなかった。ただ歩き続けなければ倒れてしまいそうだった。

 後悔の念に苛まれる一方で、心の奥底ではどこか安堵している自分を感じていた。これ以上傷つく事を恐れた心が無意識に防衛本能を働かせたのだと感じた。

 そんな思いを巡らせているうちに自宅にたどり着いたようだ。

 玄関の鍵を開け中に入ると靴を脱ぎ捨てる様にして脱ぎ散らかした。家の中に入り明かりをつけるとリビングのソファに倒れ込むようにして横になる。

 そして、枕に顔を埋めると大声で泣いた。

 大粒の涙が次々と溢れてくる。

 リビングの棚にある家族写真に目を向ける。

 父と母。

 彩音と弟の峻平が写っていた。

「私さえ。私さえ、我慢すれば峻平しゅんぺいは無事でいられるのよ……」

 そう自分に言い聞かせるように呟く。

 有季は自分が学生時代にした《約束》を思い出していた。


 ◆


 赤い夕陽が静かに部屋を染め、柔らかな光が窓から差し込み、リビングの壁や家具に温かみのある色合いを与えていた。

 夕焼けの光は、まるで部屋全体を優しく包み込むかのように広がり、有季の机の上に広がる教科書にもその赤い光が映し出されていた。

 紺色の半袖シャツと七分丈のパンツというリラックスした格好をした有季はノートにペンを走らせていく。

 有季は少々焦っていた。

 なぜなら、おたふく風邪にインフルエンザに感染と二度も長期の休学をしてしまっていたからだ。

「勉強は遅れてるし、このままじゃ単位も危ないかも……」

 公立の小学校・中学校の場合、成績が著しく悪いとか出席日数が少ない等の問題が無い限り進級も卒業もできる。学習指導要領で年間35週以上学習すること。 従って、1単位は、1750分、すなわち29時間強の授業時間に相当する。

 有季は中学生だが、高校受験はもう始まっていると同然なのだ。あまりにも休みが多いと推薦も受けられないし、面接時に面接官の印象を悪くしてしまうのは確実だ。

 だからこそ少しでも遅れを取り戻したいという思いが強かったのだ。

 勉強に熱が入り、お風呂に入っていなかったのでシャワーだけでも浴びようと風呂場へ向かう為、着替えを手に二階から一階へと降りる途中、弟の峻平と出会った。

 小学校中学年くらいの年齢だが、歳よりもまだ幼い顔立ちをしており、背も低かった。

「お姉ちゃんお風呂にいくの?」

 峻平は何気なく訊いてきた。

「ちょっと勉強に疲れちゃって」

 苦笑いを浮かべつつ答える姉を見て、弟は無邪気な笑顔で応えた。

 それは、いつもと変わらない光景だった。

 有季は階段を降りると台所を抜けて脱衣所へと向かった。その後姿を峻平はじっと見つめていたが、歯を剥いて笑う。その顔には悪意に満ちた笑みが浮かんでいた。

 有季が脱衣所の扉を開いて一歩踏み入れた瞬間、頭上から水が降り注いだのだ。

 突然の事に驚き、思わず悲鳴を上げる。

 一瞬にして髪と服がずぶ濡れになり、水滴が床を濡らしていった。顔を濡らした水が冷たく、肌を伝った滴が胸元まで垂れ落ちていく。

 有季は何が起こったのか分からず困惑している中、上を見上げると割れた風船が釣られておりそこから雫が落ちていることから、それが破裂したのだという事を理解した。

(なんで?)

 そう思いつつも、有季は後ろを振り返ると峻平が手を叩いて笑っていた。

「やーい。ひっかっかてやんの」

 無邪気に笑う弟の姿を呆然と見ていたが、次第に怒りが込み上げてきた。

 峻平はやんちゃで、しょっちゅうイタズラを仕掛けてくるのだ。部屋のドアノブに糊を塗ったり、廊下の隅にゴキブリのオモチャを置いたり、スマホを隠されたこともあった。

 今回のは特にタチが悪いと思った。姉の威厳を保つためにもこの事は厳しく叱らなければならないだろうと思い口を開く。

「峻平、アンタね。いつもイタズラばっかりして! いい加減にしなさい!」

 そう言って怒るのだが、一向に悪びれる様子はなかった。それどころか、ニヤニヤ笑いながらこちらの様子をうかがっているようだった。

「どうせ風呂に入って濡れるんでしょ。いいじゃん別に減るもんじゃないんだからさ~」

 そんな屁理屈を言う弟に苛立ちを覚えながらも、タオルを使って濡れた髪を拭きつつ峻平を懲らしめる必要があると思った。

「待ちなさい!」

 そう言うと、峻平は逃げ出す。

 そこからは家を舞台にした鬼ごっこが始まった。

 峻平は素早く廊下を駆け抜け、階段を駆け上がって二階へと逃げ込んだ。有季もすぐに追いかけ、怒りのままに弟の名前を叫んだ。

「峻平! 待ちなさい!」

 峻平は階段を駆け上がりながら、振り返って姉の様子を見ていた。彼の顔にはまだ悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。

 有季はその後を追って、階段を全速力で駆け抜けた。

 峻平の姿を探して、ベッドの下やクローゼットの中を探した。

 しかし、どこにも弟の姿はない。

「どこに行ったの?」

 すると廊下を忙しく走る音がし、有季が部屋を出る。

「こっちだよ~」

 と階段下の方から有季をからかう峻平の声が聞こえた。

「峻平!」

 有季はそれを追いかけるように自分も階段を下りて行く。

 彼女は急いで一階へ降りて行くことにした。

 一階に到着するとまず洗面所へと向かう。洗面台の下の引き出しを開けてみるものの何も入っておらず空振りに終わった様子だ。続いて浴室へ向かったようだがここでも収穫は無かった。

 どこにも弟の姿はない。

 彼女は一瞬、弟がどこかに隠れたのではないかと思い、食卓の下に目をやった。

 有季は苛立ちながら、仏壇がある押入れの中を探した。

 押し入れの扉は少しだけ開いている。有季はその隙間を見つけると、急いで近づいて扉を開けた。

 しかし、中には誰もいなかった。押し入れの中は静まり返っており、ただ座布団がきれいに積まれているだけだった。

「ここにも居ない……」

 有季はため息をつきながら、再び部屋の中を見回した。

 峻平の姿は依然として見つからない。弟がどこかに隠れたのかと考えたが、分からず次第に苛立ちが増していく。

「どこに隠れたのよ、峻平!」

 イラ立ちをぶつけるように、有季は叫ぶ。

 探しても見つからないことで、見つけるのではなく別の手段で炙り出すことを思いつく。

 それは、有季が父親から聞いていた怪談話をするというものだ。

 峻平はイタズラ小僧だが、まだまだ小さいということもあって、テレビなどでホラー映画や怪談系を見ると泣きじゃくるほど怖がるらしいのだ。その事を母親から聞いたことがあり、それを思い出したのである。

「峻平、どこに隠れてるのか知らないけど、聞こえるよね? お父さんから聞いた話を思い出したの」

 有季は部屋の中を見渡しながら、自分の声が一階のどこにでも届くように語り始めた。

「昔、『――のバケモン』っていう恐ろしい怪物がいたんだって。この怪物は、夜中に悪戯をする子供を食べにくるんだよ。人々はその怪物を怖がって、夜には外に出ないようにしてたんだ」

 有季の声が低くなり、部屋の中に不気味な雰囲気が漂い始めた。

「ある日、一人の男の子が、夜中に外で遊んでいたんだ。お父さんやお母さんは彼を止めたけど、男の子は『大丈夫だよ、怖い話なんて信じないもん』って言って、聞かなかったの。その夜、男の子はいつものように悪戯をして、夜更けまで遊んでたんだ」

 有季は廊下を歩きながら、一瞬の間を置いてから続けた。

「その時、突然風が強くなって、木々がざわざわと音を立て始めたの。男の子は怖くなって家に帰ろうとしたけど、もう遅かった。暗闇の中から現れたのは、赤い目をしたバケモンだった。バケモンは、それはそれは恐ろしい姿をしているの。子供を頭からバリバリ食えるように、ヒキガエルみたいに大きな口を持っているんだけど、歯だけはびっしり生えそろっていて、涎を垂らしてるんだって……。蛇が病気にかかったように気持ち悪い顔をし、体全体からは悪臭を放っていたそうよ……」

 そこまで話すと、不意に二階に上がる階段下の収納庫で何か音がするのを有季は聞いた。

(ここに隠れているのね)

 有季は、そう思いながらも、足音を殺して恐る恐るそこに近づく。

 峻平の反応を探るために、有季は声をさらに低くして続けた。

「男の子は必死に逃げようとしたけど、バケモンはどんどん近づいてくる。彼の心臓の音が高鳴り、息が切れても走り続けた。でも、バケモンはどこまでも追いかけてきたんだ。ついに、男の子は家にたどり着いたけど、バケモンは扉を押し破って家の中に入ってきたの……」

 有季は一瞬、話を止めて恐怖を煽るように沈黙を作った。

「家にはお父さんもお母さんも居ないの。男の子は怖くて納屋に隠れたんだけど、バケモンは鼻を鳴らして匂いを嗅ぐの。そして、男の子を見つけ出したのよ!」

 有季は、そのタイミングで階段下収納庫の扉を勢いよく開けた。すると、そこには小さく縮こまって涙目になっている峻平が隠れていた。

「見つけたわよ。このイタズラ小僧」

 有季が言うと、峻平は目を大きく見開いて瞳孔を収縮させる。


 ヒィ

 

 峻平は息を短く吸って怯える。

「さあ大人しく出てきなさい。じゃないとバケモンに喰わせるわよ」

 そんな脅し文句を言いながら有季が手を伸ばすのだが、峻平はその手をするりと抜けて物置の中に逃げ込む。

 しかし、すぐに有季の手が伸びて弟の首根っこを掴むことに成功する。

「……ヤダ。助けて」

 峻平は歯を鳴らしながら怯えた。

「ダメよ。今日という今日こそは、絶対許さないんだから」

 有季は力ずくで峻平を引っ張る。


 ――なら。俺に、喰わせろ


 その瞬間、有季の背後に不気味な気配が漂うのを感じた。背筋が凍るような悪寒を感じつつも振り返ると、そこには巨大な影が佇んでいたのだった。

 有季が峻平の首根っこを掴んだまま後ろを振り返ると、目の前には大きな影が立っていた。

 その姿はまさに悪夢だった。

 顔は大きくて凶暴で、目は赤く光り、まるで燃えさかる炎のように輝いていた。目の中には恐怖と狂気が宿っており、その視線は見る者を凍りつかせる。

 顔は蛇と獣を混ぜたような風貌をし、黒い皮膚で覆われており、無数の小さな突起が生えていた。口は大きく裂け、そこには鋭い牙がぎっしりと並んでいた。

 怪物の体は黒い液体のようなもので覆われており、それがまるで滴り落ちるかのように重力に従って流れる。液体は粘り気があり、不気味に光っていた。

 体全体が暗闇に溶け込むように見え、その姿を完全には捉えることができないが、その異様な姿形はこの世のものとは思えないほど醜悪であり、とても正視できるものではなかった。

 有季は、その姿を目にした瞬間、全身に鳥肌が立ち震える。走ると、峻平の居る収納庫に身を飛び込ませた。震える峻平を抱きしめるが、それは弟を守るというよりも、そうすることで少しでも自分の身を守ろうとしていたのが正直だった。その場に座り込み、峻平の頭を抱えた状態でガタガタと震えた。目から涙が流れ落ち、鼻水が垂れてくるのを感じる。自分が今見ているものが信じられないという気持ちでいっぱいになり、頭の中はパニック状態になっていた。

 そんな姉弟に対し、怪物は頭を収納庫に突っ込んで来る。

 怪物の鼻息が二人の髪を揺らした。

 そいつの顔は、姉弟をあざ笑うかのように歪んでいるように見えた。

 有季は思わず悲鳴を上げそうになるものの、それをぐっと堪えることができたのは奇跡に近いかもしれない。

「お姉ちゃん……」

 峻平は有季の胸の中で震えていた。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっており、今にも気絶しそうな様子だった。有季はそんな弟に声をかけることができずにただ抱きしめ続けた。彼女は祈るような気持ちで、怪物が立ち去るのを待ったのである。

 だが、現実はそれほど甘くはなかったようだ。

 怪物はゆっくりと顔を引っ込め、再び収納庫の中を覗き込んだ。その顔からは獲物を狙う野獣の目が見えるようだった。

 そして、怪物は再び口を開くと、唾液でたっぷりと濡れた長い舌を出し入れしながら言葉を発したのだ。


 ――その、小僧の肉。うまそうだな。お前、喰わせてくれるといったな?


 怪物の言葉に、有季は正直に、

「……はい」

 と答えてしまう。

 否定できなかった。

 事実だからだ。

 すると怪物は、嬉しそうに口元を歪めた。


 ――よこせ


 その言葉を聞いた瞬間、有季は怪物に言う。

「……ダメ。この子は私の弟なの。家の食べ物を全部あげるから峻平は絶対ダメよ」

 それを聞いた怪物は、一瞬の間を置いてから答えた。


 ――嘘をつくな。お前が喰わせると言ったんだろ、俺を舐めるな

……だが、別のものというのはアリだな

 

 怪物は、有季を見て目を細めた。

 有季は自分が喰われるのではと恐怖したが、次に発せられた言葉は意外なものだった。


 ――決めたぞ、お前だ。お前の子供を食わせろ。赤子の男の子だ。そうすれば小僧の命だけは助けてやる。どうする?


 有季は一瞬戸惑ったものの、すぐに決断を下す。

 峻平を救うためには他に方法がないと思ったからだ。

 それに、ここで断れば間違いなく自分は殺されるだろうと思ったのだ。

 だから……。

「……わ、分かっわ」

 と有季は舌をもつれさせ答えた。

 峻平の顔が青ざめるのが分かったが、それでも有季は自分の判断を変えることはできなかった。

 そんな姉の様子を見て、峻平は言う。

「……お姉ちゃん、ダメだよ」

 そんな悲痛な叫びが聞こえてきたが、それを無視して有季は答えた。

「大丈夫よ、心配しないで。絶対に助けるから」

 そう言って微笑みかけると、弟は泣きながら抱きついてきた。そんな弟の頭を撫でながら、有季は怪物を睨みつけた。


 ――約束ぞ


 そう言いながら怪物は再び口を近づける。

 有季は目を閉じた。

 しかし、有季が恐る恐る目を開けると怪物の姿は無かった。

 ただ、怪物の立っていた床には、透き通った黒い粘液の跡だけが残されていたのだった。

 安心すると、有季は眠るように意識を失っていた。


 ◆


 夜の街を、有季は一人歩いていた。

 あの日の山下透との食事は楽しくなかった訳ではないけれど、それ以上に疲労感の方が大きかった。

 仕事中も彼を避けた。

 しかし、帰宅途中もずっと考えていたことは透のことだった。自分の選択は本当に正しかったのかということを自問し続けていたが答えは出なかった。

 思えば、弟の峻平と一緒に子供の時に見たは夢ではなかったのではないかと思うようになっていた。

 あの時以来、一度も現れなかったからすっかり忘れていたのだが、今になって思い出すことになるとは思いもしなかったことだ。

 あの怪物と遭遇した日。

 揃って帰宅した両親に見つけられ、収納庫で寝ているのを見つけられ呆れられた。そのことでようやく二人は落ち着きを取り戻したのだった。

 もしかするとあれは、自分にしか見えない幻だったのかもしれない。目が覚めた時には、黒い粘液もなく怪物が実在したという証拠となるようなものが全く無かったのだ。

 だが、有季の胸の中には怪物との約束が渦巻いていた。


 有季の生んだ男の子を喰わせる。


 それが守られなかったら、峻平を喰うというのだ。

 もうどうすればいいのか分からないまま、駅に向かって通りを歩いていた。

 そんな上の空でいた為に、有季は周囲の状況に気が付かなかった。

 突然、耳をつんざくようなタイヤのスリップ音が背後から聞こえた。

 逃げる暇もなく、彼女の視界には一台の暴走車が迫ってくる光景が飛び込んできた。車のライトが彼女の影を濃く映し出し、そのまま突っ込んでくる。

「えっ……」

 有季は目を見開いた。体が凍りついたように動けない。

 間一髪で逃げることもできず、衝突の瞬間をただ待つしかなかった。

 その瞬間、目の前で信じがたい光景が広がった。

 車が有季にぶつかる直前、車のフロント部分が凹んだかと思うと進路を変え、街路樹に当たりビルの壁面に激突して止まったのだ。

 車のボンネットからは煙が噴き出しており、周囲にいた人々が騒ぎ始める。

 有季は何が起きたのかも分からず呆然としていたが、腰が抜けたようにその場に座り込む。

 車の運転手は無事だったか、車内からうめき声と血に染まった腕が窓から出てくる。

 有季はその方向に目をやるが、突然のことに呆然としていた。


 ――危なかった


 湿気を含んだ声が、有季の頬を撫でたような気がした。

 それはまるで蛇のように冷たく、不気味な感触だった。

 有季の背筋が冷える。

 忘れもしない、あの怪物の声だと直感的に分かったからだ。

 有季の顔の横に、怪物の吐息がかかるほど近くに顔を寄せていた。その姿は相変わらず醜悪だった。


 ――忘れるな。男の子を生め


 そう言い残し、有季の背後にあった怪物の気配は闇に溶け込むように消えるのだった。


【ゲドガキのバケモン】

 長崎県福江島に伝わるゲドガキという土地に現れた人食い妖怪。

 南松浦郡岐宿町二本楠(現・五島市)と玉之浦町字荒川(現・同)との間にあるゲドガキという土地に住んでいたとされる。ゲドガキという地名にはどのような意味があるかは不明ならば、姿も不明となっている。

 一度約束されたことを忘れず、執拗に追い続ける性格をし、食べる対象に対して一切の情けを持たず、冷酷に自分の目的を果たす。

 昔、玉之浦中須にいた丑松という子供がある晩に大泣きしたので、父親が「そんなに泣くとゲドガキのバケモンに食わすぞ!」と叱りつけた。すると家の外から「そんなら俺に食わせろ」と大声が返った。驚いた父は咄嗟に「これが一人前になったら食わすで」と言い逃れをし、その場を取り繕う。

 やがて一人前の若者に育った丑松だが、ある日、用事で荷物を背負って帰宅する途中にゲドガキを通ると、バケモンが現れ「汝の父から汝は貰ったぞ」と襲いかかられるとバケモンに捕まって食べられてしまった。

 古今東西、よく親が子供のしつけに使う「〜していると〇〇に食べられるぞ」という話があるが、不用意に子供の躾の為に妖怪の名を使ってはいけないという事と妖怪に対して適当な言い逃れをしてはいけないという事だと思われる。


 同時に、周囲からサイレンの音が聞こえてくる。

 どうやら誰かが通報したらしい。

「大丈夫ですか?」

 サラリーマンらしい男性が、有季に声をかける。

 有季は放心状態のまま男性の顔を見ることしかできなかった。男性は心配そうに有季を見つめていたものの、彼女は何も答えられなかった。

 有季には分からなかったことだらけだったが、一つだけ確かなことがあった。

 あの怪物はいつも有季のことを見ているのだ。

 ――そして、これからも自分は怪物から逃げることはできないのだ。

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