第4話 記憶とペトリコールの匂い
午後からの職務と始末書を終えた華怜(かれん)は、徐にスーツを脱ぎ捨てた。自分以外は誰も残っていない更衣室で露わになったのは、仄かに桜色を帯びる柔肌だ。
華怜は自分を備え付けの姿見に映すとすぐに、左足、脇腹、右腕の順で視線をやった。
それらの部位を注意深く観察し、一人で頷く。────「最新のホログラムはやはり凄い」と。
次いで華怜は、ロッカーから一着のウェアボットを引っ張り出した。
ウェアボットとは、着込んで運用する着衣型ロボットの総称だ。凡そ一〇年前より普及したこれら製品群は、薄型のバッテリーとモータから成り、様々な身体的動作をアシストしてくれる。言うなれば小型化に成功したパワードスーツであった。
そのデザインはプロテクターを思わせるようなものが一般的で、近年はスーツ裏にも違和感なく着込める薄型モデルが流行りつつあるが、それでも各部機構や配線類の関係上、どうしたって無骨な様相になってしまう。
だが華怜が取り出したウェアボットは、一般的なウェアボットとはかなり掛け離れたデザインが採用されていた。
それはまるで競泳水着のような。皮膜が肌に密着するために身体的ラインが強調されるものであった。
「はぁ、この格好だけは本当なんとかならなかったのかしら……まぁ、開発者だって別に変な意図があったわけじゃないんだろうけどさ」
六〇式ドライバーアシストウェア────警視庁特務課・幻想人(フェアリスト)対策班に所属する〈ウルフパック〉のドライバーにのみ支給される特殊なウェアボットだ。
その様相は一見ふざけているようにも見えるだろう。だが耐衝撃性や耐熱耐寒性に優れ、特殊繊維から編まれた皮膜は装着者のバイタルデータを常に記録し続ける。さらには測定された体電流を元に、装着者の意思を車両へと伝達するBMI(ブレインマシンインターフェース)の機能まで備えられた優れものである。
〈ウルフパック〉を駆るには必要不可欠な装備。そんなアシストウェアに身を包んだ華怜は、そのまま十三号車の元まで足を運んだ。
運転席にその細身を滑り込ませ、シートベルトで胴体を固定。フルフェイスメットを装着し、初めて愛車の乗り心地を直に確かめる。
小柄な自身の体格に合わせて調節された踏板(キックペダル)や一対のスティック型ハンドルの位置(ポジション)もちょうどいい。
実際に走らせて細かな車両のクセを把握もしておきたがったが、それは後日の運転技能訓練で行おう。そのためにエンジンキーは回さず、車両に搭載されたアシストAIだけを起動させた。
「十三号車、私の声は判る? 貴方のメインドライバーを務めることになった大上(おおがみ)華怜巡査部長よ」
〈ドライバー認証。大上華怜巡査部長の声紋を検知。各種機能を解放します〉
「ありがとう。それじゃあ、疑似体感シミュレーターモードを起動(アクティブ)に」
華怜が語り掛けたなら前面のモニター画面に外の風景が映写された。だが、それは実際の風景ではない。鬱蒼とした木々に囲まれた森の風景は、幻想人との交戦が予測される仮想状況の一つであった。
〈追跡する仮装対象を選択してください〉
対策班のデータベースには、確認された幻想人の記録が事細かに残されている。この訓練機能の本質は、それらのデータを元に再現された仮装対象の追跡をシミュレート出来ることにあり、再現可能な幻想人の数は一〇〇を超える。捕縛された個体から現在指名手配中の個体まで。仮想敵の候補は無数にあるようにも思えたが、華怜は何の逡巡もなく一人の標的を選定する。
「指名手配リストより検索。連続小児誘拐殺人犯────『赤ずきん』」
画面上に表示されたのはドイツ風の衣類を纏う少女。その小さな身体は鮮血を思わせる緋色のケープに覆われて、薄っすらと窺いた銀と金のオッドアイが闇夜に怪しく煌めく。
「待っていなさい……いつか、必ず貴方を追い詰めてみせるから」
華怜は思考のギアを切り替え、自身から表情を消した。
そして、画面の中の彼女を「轢き殺す」つもりでハンドルを握る。
◆◆◆
それは真夜中の森林での一幕────
何度転んだかも分からない泥まみれの身体で木々の間を走り抜けるのは、一〇年前の幼い華怜であった。
土砂降りの雨は、逃げ惑う自分の姿をゲラゲラと笑っているようだ。先の見えない暗闇の向こうからは、いつ何が飛び出してきたとしてもおかしくはない。
ここ一体は何処なのか? 何故、こんなところに連れてこられたのか? 目が覚めたら森の中にいたのだから、そんなことは皆目見当も付かなかった。
ただ、一つだけハッキリしている事もある。
「逃げなくちゃ……逃げなくちゃ、殺される!」
背後で重く、乾いた銃声が響き渡る。それからほんの一瞬遅れて、真横の木肌が爆ぜ散った。
微かに鼻腔を刺すのは甘ったるい香りだ。
「イヤだ……もうヤだよ……」
華怜が森の中で目を覚ました時、そこには気絶した自分に寄り添うよう一人の少女が立っていた。
────クスクス。お目覚めかしらね、可愛らしいお嬢さん。
歳は十五か、十六。当時の自分より少し歳上のお姉さんに見えた。緋色のケープと、銀と金の瞳が印象的だったことをよく覚えている。
────私はね、狩人なの。そして貴女は可愛い獲物。さぁ、この広い森の中を存分にお逃げなさいな。
初めは彼女の言っている意味を理解することができなかった。だが、それも彼女が時代錯誤なマスケット銃を取り出すまでだ。
銃の照門越しに彼女の眼差しが細められた時、その意味を嫌でも理解させられた。
────今夜も楽しい夜になりそうね。
そこからは一方的なハンティングゲームの始まりだ。
きっと彼女は、これを遊戯として楽しんでいるのだろう。ワザと弾を外し、逃げ惑う華怜を追い立て続けているのが何よりの証拠だ。
華怜は背後で響く銃声から逃れようと、木の陰に身を隠した。
ずっと無我夢中で走り続けていたのだから足は棒のようで、息も絶え絶え。少しでも気を緩めれば、胃の奥から酸っぱいものが競り上がって、そのまま吐き戻してしまいそうだった。
それでも華怜は幼い頭で必死に考える。どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか? と。
両親の言いつけを破ったわけでも、誰かに意地悪をしたわけでもない。それなのに、こんな目に遭うのは「理不尽」であろう。
「……お父さん……お母さん……助けてよ」
すると今度は頭上から、やけに生暖かい水滴が落ちて来た。
冷たい雨とは明らかに違う液体。額を伝って、華怜の顔をベッタリと汚すのは赤黒く、錆臭い臭気を帯びた人血であった。
「クスクス。クスクス。貴方は一体何を言っているのかしら? 貴女のお父様もお母様もすぐ側にいるじゃない」
いつの間に追いつかれたのか、ライフルを抱いた彼女はすぐ真後ろにまで迫っていた。
まだ熱を帯びた銃口との距離は数ミリにも満たない。
「ほら、上をご覧なさいな」
そして、華怜は目を見開く。────頭上の木々に吊るされるのは二人分の死体だ。
服が泥まみれになっているのは、自分と同じようにこの暗い森を逃げ回ったからであろう。額は柘榴(ざくろ)のようにかち割られ、誰かも分からない状態になっていた。
それでも華怜には理解できる。この二人が一体誰なのかを。
「クスクス。クスクス。クスクス。もしかして、私は家族団欒のお邪魔だったかしら?」
この少女の正体が巷を騒がせていた幻想人だと判ったのは、一命を取り留めた後のことだ。
だが、今は相手が誰であろうとも関係なかった。限界だった様々な感情が爆発し、その果ての「怒り」へと集約される。
半ば無意識のまま身を翻した華怜は、爪の先が食い込むほどに強く拳を握り締めていた。
「貴女は絶対に許さないッ! 貴女は私が殺して────」
言葉はそこで遮られた。
立て続けに響いた三発の銃声の中で、華怜の意識は深い闇へと堕ちてゆく。
◆◆◆
ハンドルを握った華怜は自分だけのゾーンに没入しつつあった。頭の片隅で自らの過去を振り返りながらも、それを燃料に集中力を燃やす。
「捉えたッ!」
シミュレーター上での十三号車は急加速して、画面内の赤ずきんとの間合いを制圧。そのまま牙を突き立てるが如く、展開されたブレードを振り上げたが────そこで訓練は終了されてしまう。
再述するが、この訓練機能はあくまでもAIによって再現された仮想対象の追跡をシミュレートするものであり、「殺し」のシミュレートをするための代物ではない。
擬似的に再現された少女との距離がゼロになった時点で、システムは「捕縛判定」を下し、訓練を終了させたのだ。
華怜はそのことに少しの苛立ちを感じながら、それでも理性的であるよう努めた。
「今日はこれで十回目のシミュレート……そのうち「捕縛判定」まで漕ぎつけたのは三回だけか」
残る全ては、手痛い反撃にあっての「死亡判定」。そのショックが、集中力が切れたが故の疲労感と共に華怜を襲った。
ハンドルをずっと握り続けたせいで、左腕の痺れも尋常じゃない。
「うっ……ビリビリする……」
三:七。半分にも満たない勝率は悲惨なものと言えよう。ただ、これでもマシになった方なのだ。
十三号車が納車される以前から、華怜は余裕を見つけてはこの訓練に何度も興じてきた。そして辰巳(たつみ)に
「一号車のシミュレーター機能を貸して欲しい」と頼み込んでは、一割にも満たなかった勝率を、なんとかここまで延ばしてみせたのだから。
ドライバーとしての細やかな技量だって、警察学校の頃よりもさらに成長したと自負している。
だが、ここにきて勝率に伸び悩んでいることも確かな事実だ。
「私には何が足りないの」
刑事としての経験か? それとも犯人を追い詰める上での戦略性か? はたまた幸運なんていう不確かな物が欠けているとするならば、華怜自身にはどうすることもできなかった。
辰巳を筆頭にした一部の人間が、自分のことを気に掛けてくれていることだって重々承知している。きっと彼のように無償の優しさを打算もなく振り撒ける人間を「お人好し」というのだろう。
ただ、それならば自分はどうすれば良い? 表面ではその場その場に合わせて取り繕っているが、自分の中に在るのは紛れもない「憎しみ」であり「怒り」だ。
「……幻想人『赤ずきん』、か」
それは一〇年前から殺すと決めた仇の名前。一度、殺すどころでは物足りない。
結局、華怜がろくな答えも出さないまま自問自答を繰り返していると、不意に頭上の天蓋(キャノピー)を叩かれた。
「おい、大上ッ! そこにいるのかッ!」
辰巳の声だ。しかし、その声は苛立っていて、本人は隠しているつもりでも確かな緊張が窺えた。
普段はお茶目な彼がこんな声を出す場面は決まっている。何か事件が起きた時だ。
慌てて十三号車を降りた華怜の鼻先が捉えたのは、濃密な雨の匂い。
いつの間に降り始めたのか?
ペトリコールの独特な臭気が鼻腔の奥を突いてきた。
「これは……」
あの日と同じ土砂降りの雨────それには、どうしたって不吉な予感を感じずにはいられなかった。
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