028 フリック・バーンスタイン

「あれ? フリックスさん、今からお出かけですか?」


 夜、家を出かけようとするフリックにアイリスが言った。

 彼は右手でマスクの位置を調整しながら「ああ」と頷いた。


「たまには夜風に浴びようと思ってな。一緒に行くかい?」


 フリックはアイリスが断ると分かっていて尋ねた。

 なぜなら大好きなお風呂が待っているからだ。

 しかも今日は彼女が一番風呂にありつける日だった。


「私はお風呂に入ります! お風呂、お風呂♪」


 フリックは「そうか」と笑った。


「では行ってくる」


「はい! 行ってらっしゃいです!」


 そう言うと、アイリスは浴室へ消えていった。

 その背中を見つめながら、フリックは思う。


(魔法肥料の作物を販売できなくなったことで悲しんでいるかと思ったが、表向きはそれほど悲しんではいないようだな)


 家を出たフリックは、中心地のへ向かって歩く。

 暗がりの中に様々な畑で構成された農地帯が見える。

 良く言えばのどか、悪く言えば退屈な光景だ。


 しばらくして、彼は目的の人物を発見した。

 ペッパーマン・ボルテックスだ。


「遅いっすよーフリックスさん!」


 ペッパーマンは馬に乗って待機していた。

 フリックが近づいてきたので降りる。


「それで、結果はどうだった? 俺の睨んだ通りか?」


 フリックは世間話をすることなく本題に入った。

 戻るのが遅いとアイリスが心配する。

 なので手短に話を済ませようとしていた。

 早く帰りたいペッパーマンとしてもそのほうが助かる。


「いやー大正解っすよ! ミレイの仕業でしたわ」


「やっぱりそうか」


 フリックたちが話しているのはニコラスの件だ。

 あの学者がどうして論文を発表したのか、その意図を調べていた。


 フリックは背後にミレイが絡んでいると睨んでいた。

 そんなことをしでかす理由についても、おおよその察しが付いている。

 アイリスの仕事を潰すのが狙いだ。


 魔法肥料の畑で農業を営む農家など、この世界には一人しかいない。

 名目上はフリックのことを指すが、実質的にはアイリスである。


 そんなアイリスを潰して喜ぶ人間もまた、この世界には一人しかいない。

 深く考えるまでもなくミレイが怪しいと思っていた。


「で、これからどうします? 報復するなら手を貸しますよ。こっちだって貴重な収入源を一つ潰されたんだ。遠慮なくやってやりますよ」


 ペッパーマンは右の拳を左の掌に打ち付けた。


「いや、何もしなくていいだろう」


「えー。マジっすか?」


「動いたところでやれることは高が知れている。かまってもらえたとミレイを喜ばせるだけだろう」


「それもそうですけど、格下の貴族にやられっぱなしとかムカつきますよ俺」


「何を言っているんだペッパーマン。俺たちはもう貴族じゃないだろ。俺は只のしがない大富豪で、お前は新進気鋭の卸売業者だ」


 ペッパーマンは「まぁ、そっすね」と笑う。


「フリックスさんに言われてハッとしましたよ。やっぱり俺ってまだ貴族臭さが抜けていないんだなぁって」


「俺も同じようなものだったさ、アイリスと出会うまではな」


 こうして、二人はミレイの嫌がらせを無視することに決定した。


「そういやフリックスさん、アイリスちゃんには話したんですか?」


「何をだ?」


「何をって……決まっているじゃないですか。本名とか身分とか、あとその悪趣味なマスクを外した顔とか」


「いや、実はまだなんだ」


「何やってんすかー!」


 ペッパーマンが笑いながらフリックスの背中を叩く。


「どうにも切り出すタイミングが分からなくてな……。下手に引き延ばした分、今からいきなり教えるのも変な感じがするというか……」


 フリックはにんまり笑って後頭部を掻く。

 マスクで顔が見えずとも、恥ずかしがっているのは明らかだった。


「そんな調子だとアイリスちゃんからお友達枠に認定されますよ」


「お友達枠ってなんだ?」


「女にはそういうのがあるんすよ。『この男は友達だ!』って思ったら、もう一生お友達枠から出られません。後になってから愛しているだの何だの言ってももう遅いんですわ」


「本当か? 俺はアイリスのお友達枠になっているのか?」


 途端にあたふたするフリック。


「そんなこと俺に訊かれても分かりませんよ。もしかしたら既にそうなっているかもしれませんし、これからなるかもしれません。とにかく好きならアピールしないと! 惚れちゃったんでしょ?」


「まぁ……そう、だな……」


 フリックは耳を真っ赤にしながら頷いた。

 彼がアイリスに惚れたのは、初めてデートをした時だ。

 フィンガーボウルの水を飲む彼女を見た時に恋心を抱いた。


「だったら自分の正体を明かして、マスクも外して、ビシッと告白しましょうよ。男じゃないですか!」


「それができたら苦労しないよ」


「いやいや、できるっしょ! めっちゃ簡単なことじゃないっすか!」


「それは恋を知らない男のセリフさ。まだまだ青いな、ペッパーマン」


「カッコつけたってダサいっすよフリックスさん!」


 ペッパーマンはニヤニヤしながら言うと馬に乗った。


「ま、健闘を祈っていますよ! また何かあったらメールしてください!」


「ああ、分かった」


 ペッパーマンは「それでは!」と馬を走らせ去っていく。


「お友達枠か……ライルのことだな」


 フリックはライルと話した時のことを思い出す。


『これは男同士の秘密にしてほしいんだけど』


 そう言って、ライルは誰にも言っていない秘密を打ち明けた。

 実はアイリスに対して恋愛感情を抱いていた、と。


『不思議なことにさ、婚約している時は分からなかったんだ。自分がアイリスのことをそんな風に思っているなんてさ。離れて初めて気づいたんだ』


 残念ながら、ライルの恋が成就することはない。

 フリックの呟いた通り、アイリスにとってライルは“お友達枠”の男だ。

 恋愛対象に変更されることはない。


『だからフリックス殿、アイリスのことをどうか幸せにしてやってほしい。俺にはそれができなかったから。どうか頼んだぞ』


 フリックの脳裏にライルの言葉がよぎる。


「難しいものだな、恋愛というのは」


 そう呟くと、フリックは家に帰った。

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