第32話 無量大数も、不可説不可説転も、清浄も、人生において使う機会はほとんど無さそう


 トウヤ、イソロウの勉野兄弟と共に、リヒトは紅久衣からお叱りを受けた。


「私のコトを心配して気遣ってくれるのは嬉しいけど、こういう気遣いはちょっと違うから」


 芝生の上に、男三人が正座させられている光景はなかなかシュールである。

 ちなみにマインドリップは、よく分かって無さそうな顔でトウヤの膝の上に座っていた。


「とはいえ、停戦協定そのものには異議ないわ。こっちとしても気を張ってばっかっていうのも疲れるし」


 小さく嘆息すると、紅久衣はスマホを取り出す。


「トウヤさんとイソロウくんだっけ? 二人のLinkerのID教えて。

 リヒトくんだけじゃなくて、私とも連携しておいた方がいいでしょう?」

「ええ。それは助かります」

「っスっス!」


 うなずいて二人がスマホを取り出したタイミングで、リヒトは立ち上がる。

 そして、紅久衣と二人の間に立ちはだかった。


「……リヒトくん?」

「紅久衣ちゃん。お叱りの最中に申し訳ないんだけど……これからボク、ちょっと心の狭いコト言うね?」

「う、うん?」


 急に何だろうと紅久衣が首を傾げると、リヒトは切実な様子で告げる。


「紅久衣ちゃんとのIDと電話番号の交換……二人よりも先にしたいッ!

 だって紅久衣ちゃんのスマホが昨日までなくてそれが出来てなかったしッ!」


 あまりにも真顔で言うものだから、紅久衣はビックリして固まった。


「ビックリしたわ。あまりにも予想外な言葉にもビックリしたけど、あまりにも心の狭い言葉にもビックリしたわ」


 しばらく固まってから、思わずビックリした理由を口にする。

 そう言いながらも、実は内心ではそれがちょっと嬉しい紅久衣である。


 でも、必死なリヒトをちょっとからかおうという気持ちが湧いたので、それを優先する。


「なるほど確かに狭いわね。清浄よりも小さいかも知れないわ」

「小数点以下0が21個よりも小さいのッ!? そこまで小さくないよ!」


 そう口にしたあとで、小声で「……ないはず」と付け加えているので、多少の自覚はあるようだ。


「……大方広仏だいほうこうぶつ華厳経けごんきょう版の阿僧祇あそうぎの頭にマイナス付けるくらい?」

「もっと小さいよ!? もうそこまでいくと画面が0で埋まるやつじゃん!? 折りたたまれちゃって1が見つからないくらい小さいってコト!?」

「旦那、マイナスの時点で小さいどころか、存在が反転してないっスか?」

「そういえばそうかも!? じゃあボクの器大きいかも!?」

「何の会話ですかこれ?」

「お姉ちゃんのお説教おわったのであるかー?」


 完全に様子のおかしいリヒトと、なにやら冷静にツッコミを入れる勉野兄弟に、紅久衣はクスクス笑ってから、自分のスマホを示す。


「ほら、リヒトくん。スマホだして。フリフリしましょうか」

「……うん!」


 目を輝かせながらスマホを準備するリヒトが可愛く見えて、紅久衣はさらに笑みを深める。

 そして、仲良く笑い合いってスマホをフリはじめた二人を見ながら、マインドリップが小さく呟く。


「……ワガハイもあんな風に笑いたいのである」

「その為の約束をしていたのに、貴方がやぶりかけたので、今お叱りを受けてたんですよ」

「それは申し訳ないコトをしたのである。ワガハイ反省」

「ええ。反省してくれるのであればそれで構いません」

「……ワガハイも、あんな風に笑えるのであるかな……?」


 膝の上にいるマインドリップの表情は、トウヤからは分からない。

 けれども、マインドリップが口にした言葉は、トウヤやイソロウも理解できるのだ。


 イソロウが横から手を伸ばし、マインドリップの頭を撫でる。


「おれとアニキは、これからあんな風に笑えるようになる為の仕事をしようと思うんスよ。

 お前も付き合うって言うなら、今日からお前は、おれとアニキの妹っスよ」

「……ワガハイ、二人を兄者あにじゃと呼んでも良いのであるか?」

「キミにその気があるなら構いませんよ。必要な書類なども用意しましょう」


 トウヤの言葉に、マインドリップはトウヤへと向き直り、彼の顔を見上げる。

 そして無言のまま彼の服をぎゅっと握ると、そのままトウヤの服に顔をうずもれさせて、小さな声で「よろしくお願いするのである」と漏らした。


 そんなマインドリップの頭をなでながらトウヤはリヒトたちへと視線を向ける。


「ついに紅久衣ちゃんと連絡先交換できた……ッ!」


 スマホを天に掲げてリヒトが大袈裟に喜んでいる。


「さすがにそこまで大袈裟だとちょっと引くわ……」

「いやだって女の子と連絡先交換するなんて滅多になかったから! 久々のそれが紅久衣ちゃんっていうのはすごい嬉しい」

「そ、そうなのね。テンション高すぎてちょっとビックリよ」


 そう答えてから、紅久衣はふと自分の中にある、ちょっとした感情に気づいた。


「……ところでリヒトくん。私もリヒトくんに負けず劣らず器の小さいコト口にしてもいいかな?」

「どのくらい小さそう?」

恒河沙ごうがしゃの砂粒より小さいかも知れない」

「それはだいぶ小さいね」

「自分にもこんな小さな器があるなんてってビックリしてる」

「そうなんだ」

「あのね……」

「うん?」


 リヒトを首を傾げながら、話の先を促す。

 ちょっと半眼気味になって、紅久衣が訊ねた。


「……私以外と連絡先交換した女の子って誰?」

「恵琉ちゃんと、リハビリ病院の先生――かな?」


 即答するリヒトに、紅久衣の顔が安堵に輝く。


「今のどこに器の小ささがあったの?」

「分かってないならそれでいいから。ね? ね?」

「まぁ紅久衣ちゃんがそう言うなら」


 釈然としないリヒトだったが、紅久衣が嬉しそうだから良いかと、気にしないことにした。


 ともあれ、お説教は終わったし、連絡先の交換は終わったので、これにて終了だ――と紅久衣は思った。


 リヒトと連絡先を交換し、そこで発生した小さな嫉妬が杞憂で終わったことに安堵した時点で、色々と満足してしまったのだ。


 なので、さっさと告げる。


「さて、リヒトくん。そろそろ帰りますか」

「え、あの……」


 トウヤが立ち上がろうとするが、マインドリップが膝の上にいて上手く立ち上がれなかった。そうこうしているうちに、紅久衣がきびすを返す。


「三人も変に徘徊とかしてないで真っ直ぐ帰りなさいよー」

「待って、紅久衣ちゃん!」


 颯爽と立ち去っていく紅久衣と、それを追いかけるリヒト。


 そして、連絡先の交換をしそびれた勉野兄弟。


「……アニキ、とりまおれたちも帰るっスかね」

「……そうだな」


 なんとも言えない空気のまま、勉野兄弟は新しく増えた妹と手を繋ぎながら、アジトへと帰るのだった。


 ……ちなみに、帰る方向は紅久衣たちと同じだが颯爽と帰って行った紅久衣に声を掛けるのはためらわれたし、なんか一緒になっちゃうのも気まずいので、三人は途中でコンビニに寄って時間を潰したのは余談である。

 

 なお後日――

 勉野兄弟と連絡先交換しそびれたと気づいた紅久衣は改めて連絡先の交換をしたのだった。


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