第12話 キミが気づいてなかった物語~それはデネブもアルタイルもベガも無関係な長い夜の寝物語……の少し前


(な、なんかドキドキする……ッ!!)


 家に帰ってきて、イチゴ白玉を二人で楽しんだ。


 そこまでは問題なかったのだ。

 問題なかったのだが……。


 そろそろお風呂入って寝ようかと、そうなった時からリヒトのドキドキは止まらない。


「と、とりあえず……寝床を用意しないと……」


 今、部屋には誰もいないのに、言い訳のようにそう独りごちながら、リヒトは立ち上がった。


 あいにくとベッドは一つしかない。

 なので、今日のベッドは紅久衣に使ってもらう。


 幸いにして、予備の掛け布団がないワケでもないので、リヒトはそれで寝るつもりだ。


(敷き布団は……)


 フローリングにそのまま寝るのも身体が痛くなるのでどうしようか――と思ったが、冬用の分厚い掛け布団を敷き布団代わりに使えば問題ないだろう。


 折りたたみ式のちゃぶ台を片付けて、そこに布団を敷いていく。


 あっという間に布団の準備を終えて手持ち無沙汰になったリヒトは、布団の上で立ち尽くしていた。


(や、やばい……あとは、何をすればいいんだろう……?)


 ザーザーとシャワーの音が聞こえてくる。

 うっかり出しっぱなしになっている時とは違う、不規則に音が乱れることで、それが自分以外の誰かが浴びているのだといやがうえにも理解できてしまう。


(お、女の子が、うちでシャワーを浴びてる……シャワー……裸……裸ッ!?)


 当たり前の事実に気がついて、リヒトのパニック度がアップした。


(そ、そうだ……! 素数だ! 素数を数えると気持ちが落ち着くってマンガで……ッ!)


 口では説明のしがたい恥ずかしさと落ち着かなさを前に、リヒトはテンパった状態で、小さく呟く。


「2、4、6、8、10、12……」


 呪文のように唱えるモノの――


(だ、ダメだ……! 全然落ち着かないッ!! あとこれ素数じゃなかったッ!!)


 ――効果はいまひとつのようだ。


 お約束のようなボケだが、本人はいたって真面目である。単に今のシチュエーションに余りにも馴れてないため、冷静さを失っているだけである。


「と、とりあえずそうだ。ドライヤー! 女の子なら使うはずだよね!」


 慌ててドライヤーを探し始める。

 一人暮らしを始めた頃は使ってたものの、しばらくして面倒で使わなくなってしまったものがあったはずだ。


 リヒトはそれをすぐに見つけ出すと、パソコン机のところのコンセントに繋げて動作確認をする。


「うん。問題なく使えるかな?」


 ドライヤーのスイッチを切って、机に置く。

 ちょうどそのタイミングでお風呂の方の音へと耳を傾けた時だ。


 キュッ……というシャワーのコックが閉まる音がした。同時に、水の流れる音が止まる。

 キィ……と、バスルームの扉が開く音がする。ややして、キィ……バタンと扉が閉まった音がした。


(やばいやばいやばいやばい……!)


 何がやばいのかは分からないのだが、リヒトの脳内はそんな言葉で埋め尽くされる。


 紅久衣の裸を直接みたワケでもないのに、シャワーを浴びている姿が今になって脳裏に姿を見せた。ただの妄想ながら、出てきた姿にリヒトは小さくジタバタする。


 妄想の舞台は自宅のお風呂場だ。明確にイメージできてしまうので、余計にテンパってしまう。


(ボ、ボクは何を考えて……いやいやいや、あれ、どうしよう、妄想が終わらない……!?)


 鼻歌が聞こえる。タオルの擦れる音が聞こえる。


「うわぁ……」


 何がうわぁなのかは自分でもよく分からなかったのだが、うわぁと声が漏れた。

 リヒトの顔は完全に真っ赤であり、あまりにも落ち着かないので布団の上に正座することにしたのだが、それでどうにかなるものでもない。


 タオルが、タオル掛けに戻される音が聞こえてから、ややして衣擦きぬずれの音が聞こえてくる。


 些細な音も、周囲に人気も車通りのも少ないアパートだからこそ、耳に届いてしまうのだ。

 普段はこの静かな環境がとても好ましいのに、今は何で静かなんだよ――と、八つ当たりしたくなってしまう。


 ガチャっと脱衣所の扉が開いて、紅久衣が出てくる。


「お風呂ありがとね。寝間着まで借りちゃって」


 着ているのは、リヒトが買うだけ買って全然使っていなかったトレーナーと、スウェットズボンだ。


(紅久衣ちゃんが、ボクの服を着てる……!)


 なんだか上手く言えない背徳感を感じる。ヘタなエロスよりもいけないモノを見ているような気分になってきた。


「リヒトくん顔真っ赤だけど大丈夫?」

「う、うん……」


 反応の悪いリヒトの顔を、紅久衣は不思議そう覗き込んでくる。


 普段は色白の肌が今はほんのりと桃色で。

 髪の毛はしっとりとして、艶やかな光沢を放っている。

 加えてシャンプーのせいか、ふんわりと良い香りが漂ってきてくるのがよろしくない。


(ゆ、誘惑系モンスターに誘われるのってこんな感じなんだろうか……!?)


 彼女は無自覚かもしれないが、リヒトはだいぶクラクラしている。


「リヒトくん?」

「ご、ごめん……! だいじょうぶ、なんでもない!」

「?」


 リヒトがドギマギしながらも大丈夫アピールをしている時、それに気づいてしまった。


 トレーナーもそこまで分厚い生地ではない。

 だからこそ、今回はそれが不運だった。あるいは幸運だったというべきか。


 紅久衣の着ているトレーナーは、彼女の身体のラインに合わせて皺を作る。あるいは伸びる。

 大きいとは言えないが、主張していないワケではない双丘のラインはしっかりと浮かび上がらせていた。


 ただそれだけなら問題はなかった。

 だが、リヒトは気づいてしまった。


 双方の丘の頂上に、小さな家が一軒ずつ建っていることに。


 リヒトとて健全な男子である。

 えっちな写真やマンガ、あるいは動画を嗜んでいる。


 しかし、服の上からとはいえ、リアルでそれを認識するのは初めてのことであった。


(うわわっわわ……?!)


 視線をそこに向けてはいけないと思いつつ、向けそうになる。

 欲望を理性で強引に抑え込み、リヒトは軽く深呼吸しながら、パソコン机を指差した。


「えっと、ドライヤー。パソコンのところに用意してあるから……」

「ありがとう。本当に用意周到というか準備がいいのね」

「買ったけど全然使ってなかったやつだから性能は保証しないけどね。動作確認はしておいたから、使う分には問題ないと思う」

「おっけー。早速借りるわ」

「う、うん……じゃあ、僕もお風呂入ってくるから」

「はーい。いってらっしゃーい」


 紅久衣から逃げるように、リヒトは着替え一式を手に脱衣所へと飛び込む。


「……!」


 すると――一人暮らしではまず感じない、他人がお風呂を使った時の温度が、そこに残っていた。


(こ、ここで紅久衣ちゃんは着替えたり脱いだり……)


 自分以外の誰かがいたと理解するたびに、リヒトはドキドキして動きが止まってしまう。だがそれで止まってばかりいては先にすすまない。


 なんとかリヒトが服を脱ぐと、お風呂場へと入る。


(……こ、このシャワーを紅久衣ちゃんが……)


 しばらくシャワーヘッドを見つめたあと、リヒトはシャワーを全開にする。


「…………」


 とりあえず、シャワーを浴びて煩悩の全てを洗い流すことを選ぶのだった。

 当然のことながら――それで洗い流せるような煩悩ではなかったが。


(あ、そういえばシャンプー……)


 いつものを使おうと手を伸ばした時、紅久衣と一緒に買った使い切りの高級シャンプーがあったのを思い出した。


 パッケージの封を切り、手の上にそれを出す。


「あ、これ……さっきの紅久衣ちゃんと同じ香り……」


 同じシャンプーだから当たり前なのだが、この香り=紅久衣が結びついてしまっているので、今までとは違うドキドキ感が湧いてくる。


「い、いざ……」


 しばらくじっと手の中のシャンプーを眺めていた。やがて気持ちが落ち着いてきたところで、手を擦って馴染ませてから、頭に乗せる。


(手触りも泡立ちも、全然違うな……!)


 そのことに驚きながら、わしゃわしゃと頭を洗い、シャワーで洗い流す。


(す、すごいなお高いシャンプー! 洗い上がりがいつもと全然違う! こういうの興味ないボクでも違うって分かるぞ!)


 新鮮な驚きを感じていたのも僅かな時間だ。


(……さっきの紅久衣ちゃんの香りが自分からするの不思議だ……。

 紅久衣ちゃんに包まれてる気がする……って、ボクは何を考えてるんだ……ッ!?)


 そうして、リヒトは悶々としたままのシャワータイムを終えた。


 お風呂場から出て身体を拭く。

 紅久衣が使っていたものとは別のタオルだ。


(……紅久衣ちゃんが使ってたのは洗濯籠へ……うん。素直に入れよう。これを使おうとか思ったりしてる場合ではない……!)


 どうも変態じみた思考が自分を支配しようとしてくることに抗いながら、リヒトは身体を拭いていく。


 それから、自分の中でやたらと主張をするもう一人の自分に対して、「静まりたまえ~静まりたまえ~なにゆえそのようにたけあらぶるのか~静まりたまえ~」と念で対抗しながら、寝間着に着替えた。


 なんだか、普段とは比べものにならない疲労感を感じながら脱衣所を出ると、紅久衣が暇を持て余した様子で、ベッドに寄りかかるように座っている。


 その無防備な姿に思わず見とれていると、こちらに気づいた紅久衣が顔を上げて微笑む。


「リヒトくんおかえりー」

「あー、うん。ただいま」


 お風呂から出てくるのにそんな声を掛けられた記憶がなくて、戸惑いながら返事をする。


 新鮮だし恥ずかしいし、なんだか不思議な気分だ。


「わたし、床のお布団で寝れば良いのよね?」

「そっちはボク。紅久衣ちゃんは、ベッドで寝ていいよ」

「え? でも……わたしは転がり込んできたようなモノだし、さすがに家主の寝床を使っちゃうのは……」

「気にしないで。色々あって疲れてるだろうし、そっちでゆっくりするといいよ」


 リヒトが本心からそう告げると、紅久衣は一瞬だけ不思議そうな顔をしてから、嬉しそうに笑った。


「うん。じゃあお言葉に甘えるね」

「そうして。身体に合うかは分からないけど」


 時刻はもう十二時近い。

 なんだかんだで、買い物するのにだいぶ時間を使ってしまったのだ。


「あ、夜中に目が覚めて喉が渇いてたりしたら、冷蔵庫のモノを好きに飲んでいいから。あと、ボクより先に起きた時に何か食べたかったら、冷蔵庫の中のモノもキッチンのも、食べたり使っていいからね」

「ありがと。リヒトくんってすごいね」

「え? そう?」

「うん。なんていうか人が良すぎるというか、優しすぎるというか……そういうので損したコトないの?」

「よく分からないかな。自分のやりたいように振る舞ってるだけだし」

「そっか」


 ふーむ……と何やら下唇に指を当てて考え始める紅久衣にリヒトは微笑みながら、声を掛ける。


「とりあえずベッド入って。電気消すから」

「はーい」


 弾むような、嬉しそうな返事をしてくる紅久衣の声を聞きながら、リヒトは部屋の電気を消した。


 そうして布団に入って……。


 よっぽど疲れていたのか、すぐに寝落ちて一日の幕を下ろした紅久衣とは対照的に――


(あ、あれ……全然寝付けないぞ……?)


 ――リヒトの眠れぬ夜が幕を上げたのだった。

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