(3)
……あの日以来、スズの足は森へは向かなくなった。密猟者らしき人間に出くわして怖かったこともあったが、最大の理由はわざわざ述べずともわかるだろう。ずっとただの狼だと思っていた相手が、半獣半人――人間だったことだ。
幸いにも犬になっていたスズの正体が、同じ半獣半人だということはバレていない。スズは仕事が忙しさを極めていたこともあり、犬に変身して森へ行くことをやめていた。
そして繁忙期の終わりが見え――そろそろ狩りのシーズンが始まろうかというころ。スズの身に良いことと悪いこと、ふたつの出来事が降りかかった。
スズたちの上司である部長が、異動したのだ。季節外れの異例の人事の理由は、とうとう彼の悪事がバレたことが原因らしい。スズは、てっきり上司がまったく仕事をしないことについては、彼と縁故のある人間があえて見過ごしているのだろうと思っていた。同僚たちもみなそうだと思っていた。しかし、実際はどうも違ったらしい。
スズたちの上司は同僚のひとり――こちらもまったく仕事をしていなかった――とねんごろの関係になっている様子だったが、それがとうとう奥さんにバレて、芋づる式にすべての悪事もバレて、それでもかろうじてクビは繋がったが僻地へ異動になった――というのがもっともらしく噂された。上司が部長の席を渡されたのは、奥さんと結婚したから……つまり、閨閥の関係で部長になれたのだが、その奥さん――とひいてはその一族――をないがしろにしたので飛ばされたらしい。
たしかな真相はわからない。しかし仕事をしない上司が僻地へ異動となったのだけは、まぎれもない事実としてスズたちの前に降って湧いたわけである。
そして、上司がいなくなれば代わりの上司がやってくる。
「ルー・クラウトンです」
新しい部長の顔を見た瞬間、スズは雷に打たれたかのような衝撃を受け、次いで頭から血の気が引いていく音を聞いたような気がした。柔らかな声、穏やかな声音。スズより頭ひとつぶん以上は高い背……そして精悍な顔つき。
スズが繰り返し会って、体を擦りつけ合い、毛並みを舐めて、じゃれあっていた狼の――その正体。半獣半人の、正真正銘、人間の青年。その身間違えようはずもない彼が、新しい上司を迎えるために並び立つ同僚たちの向こうに、立っていた。
「若いね」なんてひそひそと小声でやり取りする同僚たちの一番後ろ――スズは一番の若手だからだ――で、スズはめまいを覚えずにはいられなかった。しかしここで倒れて、視線を集めたくなかった。より正確には、あの狼の正体――ルーにだけは己の存在を気づかれたくなかった。
――できる限り避けて過ごせないかな……。わたし、一番の下っ端だし……。
ルーが如才なくスピーチを終えて、同僚たちと共に拍手をしているあいだも、スズはずっとどうすれば彼とは接触せずに、やり過ごせるかについて頭がいっぱいだった。なので、ルーがしたスピーチの内容は、まったく頭に入らなかった。
しかし、すぐにスズは気づいた。そんなことは無理だと。
そう、ほかでもないルーから香るかすかなにおいが、あの狼のものと同じだということに気づいてしまった。動物に変身できない、半獣半人ではない普通の人間には恐らく感知できないだろうていどの、かすかなにおい。それをルーから嗅ぎ取ってしまったスズは、気づいた。
スズが嗅ぎ取れたということは――きっと、恐らく……いや、絶対にルーもスズからあの白い犬と同じにおいを嗅ぎ取れるに違いなかった。
スズはくらくらと、視界が少し白くなったような気になる。いっそ仕事を辞めてしまおうかという突飛な考えまでよぎったものの、魔方陣職人は幼い頃からの夢。それを「犬になってじゃれあっていた相手が人間だったことに気づいた上、上司になっちゃって恥ずかしいから」などという、スズからするとふざけた理由でダメにしたくはなかった。
ならば、知らんふりを決め込むしかない。スズは腹を括った。ルーがなにを言ってきても、知らぬ存ぜぬで押し通す。においについて指摘されれば、褒められたことではないが白い野良犬と接触して……と苦しい言い訳を突き通す所存だった。
スズたちの新たな上司となったルーの評判は上々だった。なんと言っても仕事をちゃんとしてくれる。これまで当たり前ではなかったことが、当たり前となったことでスズたちはいかに自分たちが異常な状態に置かれていたのかを知った。
もちろんルーは別の部署からやってきたばかりだから、最初から完璧に仕事ができたわけではない。しかし向上心が見て取れるだけで、職場の空気は明らかによくなった。
加えて、以前の上司とねんごろになっていた働かない同僚は、ルーに色目を使ったものの、まったく相手にされなかったことと、なにを言われたのか逆ギレして退職した。噂では、前の上司の奥さんだったひと――元上司とは離婚したらしい――から不倫の慰謝料を請求されていたはずだが……どうするんだろうと同僚たちのあいだではもっぱらの噂だった。
いずれにせよ、ほとんど一度に部署のお荷物が消えたので、スズの同僚たちは「祝杯でも挙げたい気分だ」と大喜びである。スズは、それにはもちろん同意だったが、そんなことよりも新たな上司となったルーが、いつスズの正体について指摘してくるかヒヤヒヤしっぱなしで、心休まる時間がなかった。
そしてスズは――気をつけていたにもかかわらず、ひとつの失態を犯す。
「あ……」
ルーは瞬時に己の失敗を悟った顔になって、ルーよりずっと低い位置にあるスズの頭頂部に向かっていた手のひらを下ろした。一方のスズは、明らかに「撫でられ待ち」をしてしまった己の態度に――失態に気づき、顔から火が出そうな気持ちになった。
きっかけはなんてことはない。筆記した魔方陣を管理している書庫で、新米部長であるルーが立ち往生していることに気づいたスズが、しぶしぶ助け舟を出したこと。
ルーは柔らかに微笑んで、「助かったよ」と礼を言った。そして――スズの頭を撫でようとした。……しかしそれは先述した通りに、ルーの手のひらがスズの頭を撫でることはなかった。
しかしスズは軽く顎を引いて、まるで頭頂部をルーに差し出すかのような姿勢を取ってしまった。さながら、ルーがスズの頭を撫でやすいように配慮したような形である。スズは一拍置いてからそれに気づき、猛烈に恥ずかしくなって頬が熱くなるのを感じた。
スズは一瞬のあいだに、脳裏に思い描いてしまったのだ。人間に戻ったルーが、犬に変身しているスズを優しく撫でてくれたときの、心地よさを。そしてそれをまた享受したいと、スズは頭のどこかで思ってしまったのだった。
ルーが気まずそうな顔をして言う。
「えっと……不躾な真似をしようとして、すまない」
「――い、いえ! お気になさらず! 部長の役に立てたのならよかったです! ――それでは! わたしはこれで!」
「あ……」
森での一件のときのように、スズはその場から遁走した。その背中にルーの声が当たるような気持ちになったのも、あのときと同じだった。
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