(2)
相手は、野生の狼である。このように気に入られている――とスズは解釈している――状態は、正直に言ってよろしくないだろう。しかしどうしても心身が疲労を覚えるとスズの足は城下町の外という手近な位置にある森へと向かってしまうのである。
相手は野生の狼であるからして、当然会えるときもあれば会えないときもある。森へ足を踏み入れたからと言って、必ず会える存在ではない。
けれどもこの若い狼はスズを気に入っていることの証のように、見つけるともふもふの毛並みの体をすりつけてきたり、かぷかぷと甘噛みをしてくるのだった。
このもふもふの若い狼と密着していると、スズの脳みそは癒しでとろけていくようだった。
こうして犬になって、この野生の狼とたわむれ、じゃれあっているときだけは、スズは仕事の疲労感や、悩みを忘れることができた。……ヒトとしてのプライドとか、そういうものがささいなことのように思えるのだ。この狼との逢瀬――とも呼べるような濃密な時間は、スズにとってよい息抜きとなっていた。
しかし、やはり葛藤はある。この若い狼はスズにかまけている暇はないはずだ。雌狼を見つけ、つがいとなって群れを形成するのが自然の流れというものではないだろうか……。
近ごろのスズは、そんなことをよく考えるようになっていて――だから、近づいてくるそのにおいに、すぐには気づかなかった。
先に察知したのは狼のほうだった。やおら日暮れどきの空を見上げたかと思うと、犬になったスズのうなじの皮を噛むように持ち、木立ちの陰へと引きずって行ったのだ。狼よりも小柄な犬であるスズは、突然のこともあってされるがままだった。
やがて耳の長い、黒い犬が二頭姿を現し吠えたてる。しかし、この二頭の犬は毛艶がよく、首輪をつけていた。野良犬ではない。――猟犬だ。
スズの体が緊張で強張った。猟犬がいるということは、飼い主たる狩人も当然そばにいるだろう。しかし今は狩猟のシーズンではない。目前だからこそ、スズは今仕事で忙殺されているのだ。つまり――これから対峙するかもしれないのは密猟者ということになる。
突然降って湧いた厄介な事態に、スズは戸惑い、犬の体を震わせた。
――ここで人間に戻る?
そんな考えがスズの脳裏をよぎったものの、スズは十把一絡げにされるような平凡な小娘である。今ここで人間に戻ったとして、事態が好転するかどうかと問われれば、実に悩ましい。密猟者であれば、十中八九武装しているだろう。そんな相手に、スズのような小娘ができることはほとんどないように思えた。
スズは宮廷お抱えの部署に採用されたからして、腕のいい魔法陣職人ではあったが、だからといって魔法使いとして優れているかと言えば、それとこれとはまた別の話なのだった。
不意に、狼がスズの顔を舐めた。まるで安心させるかのように、何度かぺろぺろと舐めてくる。
密猟者の目的は定かではないものの、狼の毛皮は売り物になる。野良犬だけならば、もしかしたら興味を示さないかもしれないが、この歳若く毛並みの良い狼を前にしたら――。
スズは、人間に戻ろうと思った。それで密猟者とその猟犬を相手になにができるかはわからなかったが、この狼を逃がす時間くらいは稼げるだろうと思った。これまで散々、若い狼の貴重な時間を浪費させてきたのだ。これくらい体を張らなければ釣り合いは取れないだろう。……スズは瞬時にそこまで考えて、決意を固めた。
しかしスズが人間に戻ることはなかった。
――え?
スズは、おどろいて隣にいた狼を見上げた。
正確には、隣にいた、先ほどまで確実に狼の姿をしていたものを見上げた。
狼は、若い人間の男性に変わっていた。
狼であったときに受けた印象そのままに、精悍な顔つきの青年へと変身していた。背は確実にスズよりも頭ひとつぶん以上は高いように見えた。
猟犬がおどろいたのか、青年へと吠えたてる。しかし青年はひるむ素振りすら見せないどころか、冷めた目つきで藪の向こうを見つめていた。……どうやら、視線の先に密猟者がいるらしい。
「……少し、可哀想だが……」
青年はかすかな声でそうつぶやくと、突如として木立の間にまばゆい稲妻がいくらか走った。
――魔法だ!
その雷電におどろいたのか、二頭の猟犬は飛び上がったあと、藪の向こうへと走り去ってしまう。同時に、藪に隠れていただろう密猟者の、明らかに人間だとわかる足音も遠ざかって行く。スズは、それを認めてほっと心の中で安堵のため息を吐いた。
「……大丈夫? もう怖い人間はいないよ」
ぺたりと地面におしりをつけているスズへ、青年は膝を折って視線を合わせてくれる。その目からは先ほどの冷たさはなく、むしろ温かな感情を彼が抱いていることをうかがわせるような、柔らかい目元をしていた。その声音も、同じように優しい。
青年はスズの喉元に左の手指を滑らせてくすぐり、右手でスズの頭をやわやわと撫でる。それは、スズからすると初めての感覚だった。野良犬を触ろうとする人間はまずいない。いくら犬の姿のときのスズが身綺麗でも、だ。だから、こうして青年に撫でられるのは不思議な感覚を呼ぶと同時に、とろとろと脳の芯がとろけていくような快感が伴った。
「落ち着いたみたいだね」
スズが震えて、おびえていたのは、そばで狼になっていた青年には丸わかりだっただろう。だから、こうしてスズを撫でて落ち着かせてくれたのだろう。スズはそのことに奇妙な喜びと、くすぐったさを覚えた。
「……騙していてごめんね。私は半獣半人なんだ……」
スズは、途端に青年の目を見れなくなった。半獣半人であるのは、スズも同じだった。そして狼から人間へ変じたということは青年も半獣半人であると、わざわざ言われなくてもわかりきっていたことだったが――。
「――あっ」
青年のおどろいた声が、犬になっているスズの背に当たったようだった。
スズは、気がつけばその場から逃げ出していた。なぜか?
恥ずかしかったからだ。
これまで相手のことを普通の狼だと思っていたから、スズは人間じみた振る舞いを一切せずに、狼と……否、狼に変身していた青年とじゃれあっていた。毛並みを舐め合ったり、体をすりつけ合ったり、甘噛みをしたりしていたのだ。
だが、狼の正体は半獣半人だった。スズと同じ、人間だったのだ。
スズは顔から火が出るんじゃないかというほど猛烈に恥ずかしくなって、その場から遁走したのだった。
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