風船が飛んだ日

月峰 赤

第1話 風船が飛んだ日

 隆司が幼い兄妹を連れて病院に行くのはこれで3度目だった。

 最初は隆二の妻、咲子の体調不良で入院した日。感染症拡大の件から病室に入ることが出来ず、その日は帰宅した。

 2回目はその見舞に来たとき。家族でさえも会うことが出来なかった。


 この日も3人は病院の前に来ていた。ロビーまでは入れても病室まで行けないのは変わらなかった。

 隆二の大きな左手に捕まっていた兄、信は父親の顔を見た。照りつける太陽が目に入って、思わず目を閉じた。

「父ちゃん。今日も母ちゃんに会えないんだろ?どうして今日もここに来るのさ」

 腕を引っ張ると隆二は繋がれていた手を握り締め、ニヤリと笑った。

「考えてみたんだが、病室に入らなけりゃいいんだ。方法なんていくらでもあったのさ」

 その言葉の真意が分からず、信はきょとんとした。信と手を繋いでいた妹の美玖も麦わら帽子の下から父親の顔を見つめていた。

 そんな二人に、隆二は右手に持っていた紙袋を見せた。

 それは何?と興味深そうに騒ぎ立てる子供たちを制すると、「こっちだ」と病院の壁沿いに歩いて行き、やがて病院の裏へ着いた。日陰になっている所も多く、一面芝生になっている。

 丁度良い所に隆二はどっかと座った。それに倣って、兄妹も円を作るように座った。

 信も美玖も紙袋の中を見ようと身を乗り出す。隆二は紙袋を手に取り、ひっくり返して中身を放り出した。

 黒のマジックペンが緑の芝生の上に落ちた。少し遅れて、色とりどり萎んだ風船が散らばる。信が一つ取り、美玖もそれらを楽しげに見つめ「風船だぁ」と朗らかな声を出した。

 隆二はマジックペンを手に取り、空文字を書いた。

「風船を膨らませてな、このペンでおかぁちゃんにメッセージを書くんだ。それをたくさん飛ばせば驚いて出て来るぞ」

「おぉー!すげーぞ父ちゃん!」

 はしゃぐ信に、だろう?と誇らしげに胸を逸らしたが、そんな二人をよそに、美玖は日陰で暗い病院の壁を仰ぎ見ていた。

「それより、ここからお母さんを呼んだらダメなの?」

 その言葉に信は呆気にとられた顔をしたが、隆二は首を横に振った。

「それは昨日、仕事帰りにやったんだ。そうしたら意地の悪そうな顔した看護師に、静かにしろと文句を言われたよ」

「そっかぁ」と落ち込む美玖の肩を、信は軽く叩いて励ました。

「だから父ちゃんが風船を買ってきてくれたんだろ?いっぱい膨らませて、母ちゃんに見せてやろうぜ」

 兄の言葉に、美玖は「うん」と元気を取り戻した。

 それを見て、隆二は青い風船を手に取り、吹き口に息を吹き込んだ。兄弟が見つめている中、大きな風船が出来上がった。

 それを見て、美玖の顔にパッと笑顔が咲いた。隆二は口元を縛ると、ペンで大きく『腹減った』と書き「ほれ」と美玖の手に収まるように投げた。

 手に取った美玖は楽しそうに手の平で跳ね上げて遊んでいると、信が「俺も!」と赤い風船を素早く手に取った。ぎこちない手際で吹き口を咥えると、思いっきり息を吹き込んだ。少しずつ大きくなっていく風船を、隆二と美玖が応援しながら見守っている。やっと膨らみ切ると、口を離した信は顔を真っ赤にしてハァハァと息を乱していた。

「おう、大したもんだ」

 信から風船を受け取った隆二が吹き口をくるりと縛り上げる。その間に、美玖が水筒に入った麦茶をコップに注ぎ、信に手渡した。「つべてー」と満足そうな声が聞こえる。

 立派な赤い風船を軽く掌で踊らせると、ペンと一緒にお茶を飲み終えた信に手渡した。

 風船とにらめっこしながら何を書こうかと迷っている信の横で、美玖が目当ての風船を探していた。

 隆二も目を落とすと、自分の近くにあるピンク色の風船を美玖の側に置いた。美玖はそれを取ろうと手を伸ばしたが、少し悩んで、白い風船を手に取った。

「ん?美玖はピンク色が好きだろ?」

 美玖のスカートも靴もピンクを基調としたものだった。色を選べるなら必ずと言っていいほどピンクを選んでいる。

「うん。でもお母さん、白い色が好きだから」

 そう言って俯いてしまう美玖の姿を見て、隆二の胸に熱いものがこみあげて来た。心の中に浮かぶ咲子に、早く子供たちに会わせてやりたいと願った。

 そんなことを考えていると、うんうん唸っていた信がやっとペンを走らせた。あっという間に書き終わった風船には、のたくった字で『母ちゃん元気出せ』と大きく書かれていた。

 それを持ったまま信は立ち上がり、風船を宙に放り投げて思い切り下から突き上げた。それは少し上がったかと思えば、すぐにふらふらと彷徨い、足元へと落ちてしまった。

 それを恨めしそうに見つめた信が、父親へと向き直る。

「父ちゃん!全然飛ばねぇじゃねぇか!」

 風船を拾い、父親の眼前に突きつける。父親はそれを受け取ると、「風が無いからかな?」と呟いた。

「風?そんなの大して無いじゃないか」

 文句を言う信に対して、隆二は頭の中にある知識を総動員させ、ポンと手を打った。

「そうだ!聞いたことがある。暖かい空気の方が、冷たい空気の上に行くんだ。だから、風船の中の空気を温めればいいんじゃないか?」

「温めるって、どうやって?」

 怪しそうに見つめる視線から逃げるように、隆二は辺りを見渡す。芝生の角の所が建物の陰から外れていて、眩しいほどの日光が降り注いでいる。

 そこに隆二は風船を置いた。そうして子供たちの所へ戻ると、元いた場所に座った。

「こうしていれば、すぐにあったまるだろ」

「すぐっていつ?」

 トゲのある信の言葉に、眉尻を掻いた。

「えぇーーと……」

 頭で計算するが、てんで検討が付かない。そんな時、萎んだ風船を持ったままの美玖が言った。

「口から出す息が、最初から温かければいいんじゃない?」

 その言葉に信は意図が掴めなかったが、隆二はパチンと指を鳴らして答えた。

「そうか!その手があったか!賢いぞ美玖!よしお前ら、ここで待ってろよ!」

 二人の返事を待たず、病院の入り口に向かう。自動ドアが開くと、冷蔵庫を開けた様な冷気が飛び込んできた。手足が出る格好では少し寒すぎるのではないかと思ったが、それならばきっと用意もあるだろうと思い、ロビー内を歩き回った。

 離れた所に、自動販売機があった。商品列見て、目当てのモノを購入する。出てきたペットボトルは、効きすぎた冷房には丁度良い位に熱かった。


 隆二が戻るのに気が付いた二人は、その手に持っているペットボトルに視線が移った。

「あ!父ちゃん、お茶ならあるんだぜ」

 そう言って手を伸ばす信から、慌てて遠ざける。

「おっと、これはあつーいお茶だ。火傷しちまうぜ」

 そこまで熱くはないのだが、隆二の忠告に信は素直に手を引っ込めた。

 そうして元の居場所に戻ると、隆二はペットボトルの蓋を開けた。近づけると顔に不快なほどの熱気がぶつかり、思わず顔をしかめてしまう。首筋に汗が伝う。

 覚悟を決め、一気にお茶を飲み始めた。喉に熱い液体が通ると、体がむせ始める。心配そうに見つめる二人を尻目に今度は口の中一杯に含む。口内が煮えたぎるような熱さに満たされると、そこでようやく飲み込んだ。

 ペットボトルを脇に置くと、美玖に手を差し出した。美玖から萎んだままの白い風船を貰うと、間髪入れずに膨らませた。すぐに大きくなった風船の口を縛ると、それを美玖に手渡した。

「ほ、ほれ、あっためてこい……」

 喋ると、口の中がヒリヒリとする。美玖の水筒に手を伸ばし、コップに注いで飲み干す。その様子を心配な顔で見つめる二人だったが、やがて信が美玖の手を掴んだ。

「よし、美玖。太陽の出てる所に行こうぜ。ほら、早く」

 しかし美玖は風船を腕の中で抱きかかえたままその場を動かなかった。

「どうした?ほれ」

 隆二が声を掛けても動こうとしない美玖を、信が引っ張ろうとする。

「おいどうしたんだよ。早く行こうぜ」

 それでも動かない美玖は、風船の上に頬を付けた。

「この方が、あったかいよ」

「何言ってるんだよ、そんな訳ないだろ」

 信がしゃがみ込み、風船を取ろうとした時

「だって、お母さんに抱きしめられてる時が、一番あったかいもん」

 小さな口から出た言葉に、信も、隆二も動きが止まった。誰も言葉を発せられなかった。

 信は母に抱きしめられたことを思い出していた。上級生と言い合いになってケンカした時だった。負けて怪我をして泣いていた時に、そっと抱きしめてくれた。頭を撫でてくれた。ケンカを良いとも悪いとも言わなかった。けれどそれ以来ケンカをすることは無かった。

 信は風船に掛けた手を外した。信も風船を抱きしめたかった。けれどどうしていいか分からずその場で黙っていた。すると隆二が二人を風船ごと抱きしめた。二人は暑いと思ったけれど、そのままじっとしていた。


 少しして、風が吹いた。三人とも汗だくで、隆二がそっと離れると、それぞれがふぅと息を吐いた。

 芝生に転がっていたペンを美玖に渡す。

「そろそろ良いだろう。皆で一言ずつ書こう。見えるように、大きくな」

 美玖は手に取ったペンで、白い風船に言葉を書いていく。それが終わると、隣りにいる信に手渡した。信が書き終えたその時、どこかでパァンと大きな破裂音が聞こえた。

 驚いて音のした方を見ると、赤い切れ端が宙に浮かんでいるのが見えた。

「やべ、信の風船だ!」

 やがて、遠くで人の騒めく音が聞こえた。おそらく風船の破裂音を聞き付けたに違いなかった。

 それに引きつけられ、開いていた窓から人々が顔を出し始める。その中の1人が三人の姿を見つけて大きな声を出した。

「貴方たち!そこで何をやってるんですか!」

「やべぇ!おい逃げるぞお前達!」

 紙袋にペンやら風船やらを突っ込むと、きゃあきゃあと騒ぐ兄妹を連れて病院の裏口目掛けて走っていった。



「どうかしたんですか?」

 看護師が振り向くと、患者が上半身を起こしてこちらを見ていた。

「あぁ、高野さん。いえね、病院の裏で、風船で遊んでいる人達がいたんですよ。怒鳴ったら、子供と一緒に逃げていったんです。大人が一緒にですよ、だらしない」

 ふんと鼻を鳴らす看護師が意地悪く笑う。

「さ、高野さんはゆっくりお休みになって下さいね。まだ良くないんですから」

 そう言って看護師が部屋を出ようとした時、窓から強い風が入ってきた。部屋のカーテンが大きく揺れ、看護師が慌てて抑えようと駆け付ける。

 その様子をベッドの上から見ていると、不意に窓の下から白いモノが浮かび上がってきた。それが風船だとすぐに分かった。ふわふわと漂う風船には、黒い文字が書かれてある。それが何か理解出来た。やがて窓を通り過ぎると、そのままどこかへと行ってしまった。

 カーテンを束ね終えた看護師が部屋を出ようとベッドを横切ったとき、患者のことが急に気になった。

「あら、どうしたんですか高野さん。少し顔色が良くなったみたいですよ」

「えぇ。そうだと思います」

 予想しなかった返事に肩透かしを食らった看護師は何も言わず、静かに部屋を出ていった。

 残された咲子はベッドから降りて、窓の側に立った。風はとっくに過ぎて、じわじわとした熱気だけが頬を包み込んだ。

「退院したら、漢字の書き方を教えてあげなくちゃね」

 自然に笑顔が零れていた。一度体を伸ばしてベッドに戻る時、壁に掛けてあるカレンダーが見えた。7月の日付の上で、朝顔の写真が咲いている。

 子供達の夏休みが始まる。

 それまでには退院しようと心に決め、咲子は軋むベッドに体を預けた。



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