ブライアン・ラプソディ
トモ・ヒー
ランデブー・ポイント
中東国、首都カスル・ラージ。月の砂、ルナ・リコリスの敷きつめられた道路を、ブライアンは上空から見下ろしていた。ランズのメイに導かれるように飛んでいると、足元の光景がみるみる変わっていく。既に陽は堕ち、ルナ・リコリスの白さが目についた。
戦闘衛星《O.P.E.R.A》から放たれる超火力レーザーを背に受け、メイが飛ぶ。一度の照射につき、四十キロメートルは軽く飛べる。目標地点が百キロメートル先であったとしても、それはさほど遠い距離ではない。
「うん? どうした?」
左耳に着けたヘッドセットごしに、メイが問いかけてきた。ブライアンが左に顔を向けると、メイと眼があった。エメラルドのような緑の瞳がブライアンを見つめる。
「どうした、って」
「バイタルの数値が上がってる。昂ってるの?」
「そうかな。いや、そうでもないよ」
ブライアンは苦笑したように答えた。左手に感じるメイの熱。それがこの昂りを生んでいるとは答えなかった。
「任務の前だ。逸る気持ちはあるだろうが、落ち着こう」
メイが再び正面を向いた。メイの横顔。これまでにも幾度となく眺めていた横顔。ただ、最近はその横顔を見ていると、どこか落ち着かない気分になる。
「見えた、目標地点。手はず通りに。私は上から援護する」
「了解」
任務だ。切り替えろ。ブライアンは自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。
三、二、一。ブライアンはメイの手を離し、降下していく。降下訓練は何度もしている。任務においてもそれは同じだ。着地の瞬間、四肢を開き、衝撃を分散する。衝撃を受けたルナ・リコリスが舞った。顔をあげる。眼の前。中東国のエージェントと思しき兵。三人。一定の距離を置き、いずれも曲刀を持っていた。
ブライアンは眼を閉じた。瞼の裏。浮かんでくる斑点にイメージを重ねる。長槍。右手にかすかな熱を感じる。右手を握ると、左手にもまた熱を感じた。左手を握り、眼を開く。両の手の中、白き光を放つ槍がそこにはあった。
エージェントのひとり、先頭にいたひとりが自身のふところから袋を取り出し、投げつけてきた。おそらく香料が入れられている。中東国のエージェントは、相手の嗅覚を狙い、意のままに操ろうとする。そんなことは先刻承知だ。ブライアンは一歩踏み出して袋をかわすと、槍を突き出した。一人目の首筋をかすめる。それで十分だった。一人目は血を噴き出す首筋を抑え、そのままくずおれた。
残りの二人。共にさらに距離を取った。だが、ブライアンの手にした長槍の前では、その判断は正解ではない。ブライアンが槍を振るうと、ひとりの腹を薙いだ。うつ伏せに倒れると、腹から流れ出た血がルナ・リコリスを紅く染めた。
最後のひとり。背を向け、駆けだした。ブライアンは槍をルナ・リコリスの大地に突き刺し、再び眼を閉じ、斑点の中にイメージを浮かべる。右手に熱と共に浮かんだ
「クリア。先に向かう」
ブライアンは槍を片すと、左腕に巻いた端末を操作し、対象の位置を確認する。眼前の三階建ての家屋。《BATTLE AI》の想定によると、敵兵は十五人、ターゲットとの遭遇は十分後。五分でいいだろうと思った。
ブライアンは足音を落とし、忍びながらも迅速に歩を進める。既に探知されているかもしれないが、その素振りはない。待ち伏せの気配もない。それでも警戒するに越したことはない。
「前、二人」
メイの声が耳に届いた刹那。建物の塀、両奥から飛び出す二つの影。共に自動小銃を脇に抱えていた。腰だめに構える。ブライアンはとっさに右に跳ぶと、転がりながら路地に飛び込んだ。十字砲火。二つの銃声に追いつかれる前に、角の柱に身を伏せた。やがて静寂の時が訪れると、小銃に弾薬を装填する音がした。
「今どきいるんだね。実弾の自動小銃を使うやつら」
ヘッドセットからメイの声が聞こえた。ルナ・リコリスのような実弾を用いない銃器が普及したとはいえ、メンテナンス等の観点から実弾を使用する部隊もわずかながらにいると聞く。ブライアンはゆっくりと呼吸を整える。十秒もあれば十分だ。
「何だ今の。気配が無かった。外にいるのは二人だけか、メイ?」
「サーモグラフィーで見えるとこはね。あの二人、さっきまで引っかからなかったのに。これまで死んでたのに急に生き返ったみたいな感じ。おっと、建物の中が慌ただしくなってる。後で考えよう。武装次第、奴らはこちらに来る」
「シールドを」
「もうやった」
メイが言い終わる前に、ブライアンの周囲を黄金色の膜が覆った。ランズの特殊能力。救助者に対する保護結界。本来は逃走時に使用するものだが、攻勢時の補助としても使える。自動小銃の弾なら百発は軽く耐えられる。
「助かる」
ブライアンは眼を閉じ、イメージを浮かべる。このまま自動小銃の二人を倒し、屋内に突撃する。先ほどのような槍では狭い場所に不向きだ。ならば、射程は短くとも、手数は多く。両手の熱が高まる。
眼を開いた。白く輝く二つの得物。雌雄一体の双剣。ブライアンは両手を広げ、路地を飛び出した。先ほどの二人。向かって左側のひとりが、やや突出していた。ブライアンを認識して銃を構えるが、こちらが一歩速い。左手で逆袈裟に斬り上げると、うつ伏せに斃れた。
もうひとり。銃撃。身体をひねったが、五発は食らった。シールドが全てを防ぐ。一足飛びで距離を詰め、両手を交差して十字に斬り裂いた。
「オーケー、クリア」
ブライアンがひとつ息をついた。
「俺がさっき《BATTLE AI》を見てから、何分経った?」
「二分、三十秒」
「五分は無理だったか。よし、あと五分で制圧する」
「余裕でしょ」
「ああ、突入する」
あっけないものだった。ブライアンが突入してから三分、五人目を斬り伏せたところで、抵抗らしい抵抗が消えた。四分をカウントする時には、既にターゲットに剣を突きつけていた。
無線の先、メイの任務報告が終わったようだった。
「上はなんて、メイ?」
「『救え』って」
メイの声は落ち着いている。幾度となく口にしている言葉だ。
「そうか、わかった」
ブライアンは剣を下ろした。ターゲットが覚悟を決めているのなら、剣を突きつけていなくても問題ない。ターゲットは表情を変えず、微動だにしなかった。
「何か、言い残すことは?」
ターゲットが意外そうな顔を浮かべ、しばし考えたあと、ブライアンの眼を見すえた。
「ラージの戦士として、死なせてもらえないだろうか。それだけでいい」
ターゲットは壁にかけられた曲刀に眼をやった。ブライアンはしばしターゲットの眼を見ると、振り返り曲刀を掴み、ターゲットの目前の机に置いた。ターゲットは曲刀に眼を下ろしたが、やがてブライアンに向き直った。
「私がこれを手に反撃するなど、微塵も考えていないか。人を見る眼があるのだな、君は。私は半月刀をまともに持ったこともない。無駄な抵抗などせぬ」
ターゲットが曲刀を手に取り立ち上がると、ブライアンの前に歩み寄った。
「情けをかけてくれたこと、感謝する。君のこの先の人生が、幸有るものであらんことを」
ターゲットが無抵抗を示すように、両手を広げた。
「名乗らないのか?」
ラージの戦士が決闘の前に、名乗りをあげると聞いたことがあった。
「名もなき、ひとりのラージの戦士でいいのだ。私は《文民》であったが、戦場への憧れを抱いていた」
ブライアンは頷くと、双剣を構える。
「ラージは偉大なり」
ターゲットが静かに言った。ブライアンが振るった剣が首を飛ばした。ブライアンは腕の端末で飛ばした首を撮影すると、首を失ったターゲットの死体に一礼した。
「終わった。撤収する」
「そちらに降りる」
メイと短い交信を交わし、ゆっくりと歩を進める。部屋を出たところてひとつ息を入れると、不意に最近思い悩んでいたことに対する決心がついた。
何を思い悩んでいたのだ、という自問が押し寄せる。今となってはわからない、という自答。首尾よく任務をクリアできたからか、ターゲットとの会話に何かを見出したのか。やはりわからない。
建物を出ると、手にしていた双剣を放った。双剣は地に堕ちる前にルナ・リコリスに変容する。ルナ・リコリスの集合体は音も立てず、風に流されていった。
門の前で待っていたメイが、こちらを見つめていた。
「メイ?」
「楽しそうだ」
「えっ」
ブライアンがいぶかしむと、メイが自身の髪を手でいじった。ジャポネ人の血を引く証である黒く艶のある髪。深緑色のスカーフでまとめられた後ろ髪によく似合っていた。
「建物を出てくる君が、珍しく陽気に見えたんだ。いや、別にいつもが陰気だと言ってるわけではないが」
メイの答えにブライアンは苦笑した。そうか、陽気か。
「任務が完璧な終焉を迎えた。それだけだろう」
「そう」
しばらくブライアンを見つめた後、メイが言った。
「メイ」
振り向いて飛行の準備をし始めたメイに声をかけた。
「俺は」
続けようとしたブライアンをメイが制した。
「君のその表情を見ると、私は君と向き合って、尊重して話をしなければならないと思う。ただ、ここはまだ戦地だ。《基地》に戻ってから聞こう。しばらく、時間をくれないか?」
メイの表情は動じているようには見えなかった。元々表情は豊かな方ではなかった。だが、ブライアンはそこに惹かれていた。
ブライアンはしばし逡巡したのち、ただ頷いた。
「行こう」
準備を整えたメイが右手を差し出した。
「ああ」
ブライアンがメイの手を取ると、メイがゆるやかに浮上していく。徐々に速度が上がり、上空に達すると今度は横方向に一気に飛ぶ。飛行はメイに任せるままなので、ブライアンは何もすることがなかった。
行きと同じく、ルナ・リコリスの地面をただ眺めていた。飛行中でも会話くらいはできるが、メイは何も喋らない。ブライアンもまた喋りかけなかった。
先ほどのことを思い返した。はぐらかされたとは思っていなかった。どのような答えが返されるとしても、メイは真摯に向き合ってくれる。それは期待していたことであり、そうだろうという気もしていた。
ふと顔を上げた。星がよく見えた。地上よりも灯りが少ない分、星が見やすいのかもしれない。ブライアンの感性として星空が美しいと思ったことはないが、そのように感じるものがいることも理解できた。
中東国との国境を越え、最初の街に差し掛かった頃、不意にメイの右手がふるえた。
「メイ?」
左を見やると、ヘッドディスプレイを見ているメイが眼を見開いていた。
「おい、メイ」
「こんなことが」
「おい、どうした」
「ボム、だ」
メイがふるえる声で呟いた。
「中東国の戦闘衛星から、ボムが降りそそいできた。計測上限を超え、個数カウント不能。私たちを狙ったのだとしたら、数が多すぎる。報復でこの街を
戦闘衛星からのボムによる攻撃は珍しいものだ。コストの観点から多用されるものではない。中東国はそれを承知で攻撃を仕掛けてきたのか。
「仮に計測上限の個数として、地上への被害は」
「この街、百万都市の全域が消失する。それが想定される最小の被害」
「時間は」
「およそ、百八十秒後」
「《O.P.E.R.A》のレーザーで防げないだろうか」
メイが首を振る。
「レーザーで誘爆を狙うにしても、数が多すぎる。それに最近のボムは、耐レーザーの装甲を持っていると聞く」
君のこの先の人生が、幸有るものであらんことを。先程ターゲットが口にした言葉が、ブライアンの脳裏に響いた。その言葉を振り払った。
ブライアンは上空を見あげ、息をついた。このまま飛び続けたとしても、三分でボムから逃れることは不可能だ。ブライアンのガンズの力を使うとしても、対抗する術はない。
「ダメか」
「いや、ランズには使命がある。そして、それは私自身の思いでもある」
メイの声に振り向くと、メイが不意にブライアンの手を放した。
なにを。落下すると感じた瞬間、ブライアンは奇妙な浮遊感とともに黄金色の膜に包まれた。
シールドが球体のように、ブライアンの全身を覆っている。シールドといえどボムの威力に耐えられるかは確実ではない。それに、メイは自身をシールドで護ることはできない。
「チャージ完了まで三十秒。これに乗せて君を飛ばす。圏外に逃すことができるかわからないけど、これしかない」
シールドの膜の中にメイの声が響いた。半透明の膜の向こうに、メイの顔が見える。いつも通りの、感情の薄い表情。
「ブライアン、君の話をきちんと聞くことができず、すまない。ただ、それがなんだったのか、私にはわかる気がする。そしてそれは、私にとってうれしいはずのものだったんじゃないかな。だから、ほんとうにごめん」
がむしゃらに手を伸ばした。手は黄金色の膜にも届かず、空をかく。
「時間がない。君は、生きてくれ」
ブライアンは声の限り、メイの名を叫んだ。だがその声はメイに届かないようだ。
黄金色の膜のその向こう。メイの顔。薄い微笑。涙を流しているのが見えた。
メイが腕をあげた。黄金色のシールドが縦方向に浮かぶと、スピードをあげ遠ざかる。メイの姿がみるみる小さくなり、やがて消えた。
上空。闇夜に無数のボムの光が見える。降りそそぐボムは数え切れる数ではなかった。都市を葬るほどの威力を持っているのだろう。ブライアンはまばたきをせず、そのすべてを見つめる。
着弾。青白い光の洪水がこちらに押し寄せてくる。シールドが鈍い音をたてる。ブライアンを護る薄い黄金色の膜。少しずつ、確実に崩れていく。ブライアンはただ祈るしかできない。メイがその生命を賭したシールド。このシールドと共に散る。それもいいのかもしれないと瞬時迷ったが、それはできないと切り捨てた。俺は、まだ死ねない。俺は、生きる。
眼を襲う禍々しい鮮烈なヒカリ。共に押し寄せる轟音。ブライアンはただ耐え、叫び続けた。それはシールドの中。誰にも聞こえないものかもしれない。それでも、ただ叫んだ。それはメイに対するものではなく、誰に届くものではないかもしれない。それでも、ただ叫んだ。
押し寄せるヒカリの洪水に、やがてブライアンの意識が遠くなっていく。中東国の総力をあげたボムの攻撃。耐えきれるものではなかったのか。視界が暗くなっていく。ブライアンの身体が闇に抱かれていく。
意識を取り戻して眼を開くと、眼の前にはただ砂が舞いあがっていた。月の砂、ルナ・リコリス。ブライアンが己の武器として使っていた無数の砂。それが今はとても禍々しいものに見えた。
俺は、生きているのか。ブライアンは腕の端末を操作し、座標を確認すると駆けだした。並の人間ならとても歩ける距離ではないが、ガンズであるブライアンの能力なら駆けられるはずだ。
眼の前には砂しか見えない。足元も砂地だ。それでも、走るしかない。その先にはメイがいた。メイがいる。中東の風。顔を砂が襲う。それでも、ただ駆ける。喉の奥にかすかな痛みを感じた。汗がとめどなく流れる。気にしなかった。
どれほど駆けただろうか。砂だけの光景は変わらないが、徐々に砂の角度が上がってきた。坂というほど急ではない。丘か。砂で作られた丘。この丘を登れば、メイがいるのか。
丘の頂上に達した。足元。舞う砂の向こうに、巨大なアリジゴクの巣のような光景が広がっていた。ボムは街を焼き払い、失われた大地は砂のみを残しているのだろうか。上空からは、爆風によって舞いあげられたであろう砂が依然として降りそそいでいる。
腕の端末がアラート音を鳴らした。メイがいたはずの座標を示している。メイの姿は見えない。
ブライアンがゆっくりと歩いていると、砂地に光るものを見つけた。あるはずのないもの。あってほしくなかったもの。近づき、手を伸ばしてすくい上げる。弱い黄金色の光に包まれた、深緑色のスカーフ。この爆心地にありながら、傷らしい傷もない。
脳裏に浮かぶメイの顔。共に飛びながら横目にしていたメイの横顔。そのスカーフは、いつもそこにあった。
スカーフを握りしめた。焦がれたメイとの記憶。ひとつひとつが思い浮かぶ。初めての実戦、平然としていたメイ。重症を負ったブライアン、塞がりそうな左の瞼の向こうに見える、泣きそうなメイの横顔。星空の下、二人の夢が通じたのではないかと思った夜。黄金色の膜のその向こう、薄い微笑。
こみ上げる思いを、喉の奥から出そうとした。乾ききった喉からは、その思いを発せられない。変に小気味の良いかすれた音。瞳の奥から流れるだけの水分も、今のブライアンには残されていなかった。
ブライアンは空を見あげた。
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