第29話 幕間・静穏なる森の中で

断章1 静穏なる森の中で

 とある森の中。朝日が木漏れ日となって降り注ぎ、朝露が珠のように煌めいている。倒れた木は柔らかな緑色の苔を纏い、宙へ向けて伸びる新芽が急に吹いてきた風に揺れる。風の妖精がすぐ側を飛んだからだ。その後を追って別の妖精も通り過ぎる。すると、新芽から小さな妖精が立ち上がり、風の妖精が飛んでいった方を向いて頬を膨らませた。額に螺旋状の角を持つ鹿の幻獣がその後ろから現れ、慰めるように顔を寄せる。対する新芽の妖精は、相手が分かった途端に青い顔で頬を引きつらせた。食べられることを恐れているようだが、鹿は目の前を通った同類の幻獣に意識が向き、そのまま妖精から離れていく。妖精は胸を撫で下ろし、新しくやって来た花の妖精とどこかへ消えていった。

 このように、この森は妖精や幻獣が住まう、静穏にして清涼なる精霊の森である。人間は居らず、また立ち入ることもない。森の精霊が邪なるものを嫌うため、森に立ち入ろうとする人間は決して辿り着けないのだ。反対に、道に迷うなどして旅人が偶然森に着いたことはある。ただし、一度森へ入ったからといって再び辿り着けるとも限らない。どのような理由であれ、人間の持つ「精霊の森へ行きたい」とする思いは邪心と見なされる。そのためか、人間の間では、森の中のことは一時の夢とすることが勧められている。

 とは言え、何事にも例外はあるもので――

 精霊の森のほぼ中央、一際日当たりの良い広場にが鎮座している。

 大きさは人間の大人でも抱えるのに苦労する程度。ユーティツィアの尺度で言えば、凡そ五分の三メートルといったところ。表面は凹凸のある牛革色、全体の見た目で言えば上下に長い楕円形、と呼ぶのが近い。ただし地面に接する部分が幅広く、反対に空へ向けて伸びる方はやや尖っている。つまり典型的な卵型だ。

 倒れないよう、そして割れないように蔦と下草が守っているこれは、とある魔女が持ち込んだもの。この巨大な卵を入れた箱を背負い、顔面蒼白で息も絶え絶えの状態になりながら、この森にやって来た。

 魔女は、まるで森の場所、そして森の内部を初めから知っていたかのように迷いなくこの広場に入り、箱を下ろした。箱の蓋と側面を取り払うと、まず卵の周りを一周するように蔦の模様を描く。そこに魔力を流すと、本物の蔦が生え、鳥の巣のように卵を支えた。次に、卵の表面にオリーブの実と葉を、その隣に火の点いた蝋燭を描いた。


「全てを愛し、全てに愛される者よ。我が愛は既に、ただ一人の為に在るもの。故にこそ、おまえには祈りを贈ろう。おまえが強く在るように。聡く在るように。そして何より――」


 二つの絵の中心に向け、そっと口付ける。

 オリーブの実と葉が灰色がかった緑に、蝋燭の火が本物そっくりの青、黄、白の三色に変わった。


「――その生を正しく終えるように」


 多少、顔色の戻った魔女は満足そうに口角を持ち上げ、立ち上がった。


「さらばだ。再び相見えることは永遠にないだろう。我が祈りはおまえにとって毒にもなろうが、許せ。おまえにはこうする他無いと判断したのだ」


 諦めて精々楽しめ、と笑って卵を平手で叩く。卵は僅かに揺れるが、思いの外強く巻き付いた蔦のおかげで倒れることはなかった。当然、ひび一つ入っていない。魔女はそのまま森を去り、それ以来卵はここに置かれたままだ。

 幾百の夜を越え、幾千の朝を迎え、卵が入っていた箱の底板は既に朽ち果てた。それでも卵はまだ生きている。入れ替わりで卵に寄り添う幻獣はそれを知っている。時折、卵が動き、中から音が聞こえることがあるからだ。それも最近、動きが大きく、殻に小さなひびが入り始めている。

 幻獣も妖精も、いつ卵が孵るのか気にしている。そして、今日がその日であると知っている。元来、面白いことが好きな性質のものが多いこともあって、広場のどこを向いても何れかの顔が見える。皆で卵を囲み、見守っている。

 そして、遂にその時が来た。

 こツ、と卵の中から音が聞こえてくる。その硬い殻は、雛にとっては外敵から己を護る盾であり、世界で生き抜く為の最初の試練でもある。自分の力で殻を割って外へ出て行けなければ、そのまま息ができずに死ぬ。生存競争は既に始まっているのだ。

 こつこツと殻を突く音は頻度を増し、殻に入っているひびが、徐々に大きく深くなる。同時に卵が揺れ始めた。右に左に、前に後ろに、そして斜めに。雛が、生きようと必死に藻掻いている証だ。

 細く柔らかい体毛で卵に寄り添っていた幻獣が立ち上がり、下草を食む。卵を守っていた蔦も噛み切り、卵から離れた。解放された卵が一際大きく揺れ、均衡が崩れた。卵は横倒しになり、衝撃で更に大きなひびが入る。殻の欠片が溢れ落ち、穴が空いた。卵の大きさに相応しい、成鳥の鷲よりも大きな嘴が覗いている。

 これだけの力があれば――そう感じたかは不明だが、重く鋭い嘴を持つ幻獣が歩み寄り、殻に入ったひびへ向けて嘴を振り下ろした。

 見る間にひびが広がり、卵が二つに割れた。

 生まれたのは、やはり巨大な雛だった。見守っていた妖精は生命の誕生を慶び、幻獣は雛の様子を見に近寄る。

 雛は脚を折り曲げ、体を丸めた状態で、既に卵とほぼ同じ大きさをしている。立ち上がれば一メートルにもなるだろう。短い毛に覆われた体はしとどに濡れ、榛色ヘーゼルブラウン栗皮色チェスナットブラウンのまだら模様を描いている。厚く緩やかな曲線を描く嘴と、人間の指よりも遥かに太い趾は、雛が将来、絶対的な捕食者となることを物語っている。

 しかし、幻獣は雛を歓迎した。だが安易に甘やかすこともしない。既に目を開いている雛に擦り寄り、体に付いた草や殻の欠片を取ってやる。その一方で、立ち上がろうとする雛に手を貸さず、ただじっと見つめるに留めている。その眼差しは、己の子に向けるものとよく似ていた。

 ふらつきながらも、雛は自分の力だけで立ち上がることに成功した。妖精が起こした風のおかげで、濡れていた体はすっかり乾き、ふわふわの毛並みが揺れる。雛はくすぐったそうに目を閉じ、喉を鳴らした。

 変化があったのはその時だ。

 じッ……と音を立てて、雛の輪郭が震える。体ではなくだ。二重にぼやけた輪郭の一方が雛の形を離れていく。

 外敵を欺く毛は、絹糸の如き光沢を見せる髪へ。

 獲物を突く嘴は、平たく厚みのある柔らかい唇へ。

 下草を掴む趾は、五本指が全て同じ方向を向く足へ。

 大空を飛ぶ羽は、凡そ長さの揃った五本指を持つ掌へ。

 空を見上げながら地を歩き、太陽に憧れ近付こうと、後ろ脚で立ち上がるようになった種族。自由になった前脚を翼とした者とは分かれ、道具を使う腕とした種族。鳥と同じく、二本の脚を持つ種族であるものの、全く違う生き方を選んだ種族。

 即ち、人間である。

 人間の姿が雛のそれよりも大きく、そして色濃いものになる。同時に雛の姿が薄く、やがて消えた。後に残ったのは幼い少女の姿だった。腰に届く金の髪は陽光を浴びて煌めき、やや青ざめた雪白スノーホワイトの肌は一切の瑕疵が無い。身に纏っているのは装飾の無い純白のドレス。胸下で絞り、肩から紐で吊ったシュミーズドレスだ。閉じた目がゆっくりと開かれると、蒼玉サファイアを思わせる深い蒼の瞳が現れた。

 少女の視線が右へ、そして左へ動く。その目からは何の感情も読み取れない。一度目を伏せると、迷うような素振りを見せながら口を開いた。


「……こ……ぉ、は……っ」


 何かを言おうとして声が掠れ、口元を押さえて咳き込んだ。何度か繰り返した後、両手で頭を抱えて蹲った。原因は少女を襲った激しい頭痛。


 ――お願いします、――様。どうか……

 ――兄上……何故、何故なのですか……!?

 ――ここはお任せを。――様は先へ――

 ――そうだな、ルフとでも名乗ろうか……

 ――お初にお目に掛かります。我が名は――

 

 知らないはずの声が、光景が、記憶が、脳裏を駆け巡る。痛みに歯を食いしばり、よろよろと立ち上がる。荒くなった息を整えて虚空を見つめ、記憶の中にあった名を呟く。


「…………レム、ナス……探さ、なきゃ……アキレア……」


 その言葉を最後に、少女の意識は途切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る