第7話 輝夜
レッドアイがちょうどなくなりかけた頃、月彦が身動ぎした。
「先輩? 起きました?」
「……ん、やべ、俺寝てた……?」
「がっつり寝てたよぉ?
あんたのお守りなんてごめんだから、彼氏くん呼んだ」
モリが顎で示す先を辿るように、月彦が寝ぼけた顔でこちらを振り向いた。
「先輩、少し醒めたんなら帰りましょうか」
「…………は、……え?」
まだ酒が抜けきっていないからだろうか、たっぷり三十秒は静止して状況を把握しようと努めたようだ。
突然、がたん、と音がするほど勢いよく立ち上がり、カウンターから離れようとして備え付けのスツールに足をもつれさせて大きくよろめいた。その身体をとっさに京弥が受け止めて支える。
「あっぶな、なにしてんのクーちゃん」
「大丈夫すか、先輩?」
京弥に腹部を抱きかかえられるような格好になったまま、月彦は無言でじたばたと京弥の腕を振りほどこうとする。
「ちょ、危ないんで暴れないでください」
「まだ酔ってんの、クーちゃん」
「うるっせぇ、誰だよこいつに連絡したの……!」
月彦が二人の方を見て、声を押さえて毒づく。店の中だという状況把握はできているらしいが、京弥のことはわかっていないのだろうか。
「先輩、俺ですよ、わかります?」
「わかってるよ、岡野だろ!?
なんでお前がここにいんの!?」
どうやら、京弥だとわかっての抵抗だったらしい。あまりに京弥の腕を振りほどいて店を出ようと暴れるので、月彦の両手首を掴んだ。Tシャツからのびる白い腕が薄暗い照明で余計に白く見えて艶めかしい。
「離せって、っのばか力!」
「こら、いくら酔って恥ずかしいからって迎えに来てもらっといてその態度はだめだろ。
後悔するのは自分だよ?」
セイジの言葉にゆっくりと月彦の腕から力が抜けていく。
「はあ……、最悪」
「なにが最悪なんっすか?」
京弥も拘束の力を緩めるが、逃げられないように月彦の手首は掴んだままにしておいた。
「……とりあえず、帰るわ。金払うから離して」
「もう払いました」
「……じゃ荷物取って来るから」
「あんた手ぶらで来てたじゃん」
「…………」
早々に京弥と距離をとる言い訳のネタが底をついてしまったのか、月彦は押し黙ったまま俯いてぷるぷると肩を震わせている。
「タクシー拾うんで、お二人にお礼言って出ましょ」
駄々をこねる子供を宥めるように顔を覗き込む。月彦は京弥から顔を背けるように振り向いて二人を見ると、二人ともにやにやと笑いながら手を振っている。
「……! 覚えてろよ、おまえら……!」
京弥には見せない砕けたやり取りに、少しの疎外感や寂しさを感じるが、二人にとっては月彦はそういった対象にはならないと聞いたばかりだ。なんでもかんでも妬くのは良くない。頭ではわかっている。
「呼んでくれてありがとう、でしょお?」
「お礼なんていいんだよ、俺たちは俺たちの見たいもののためにしたことなんだから」
二人も月彦に対しては、やはり京弥相手とは違い、言葉の表面上とは違う意図を含ませているような言い方をしている。三人だけで通じているものがあるのだと思うと、頭ではわかっていても顔には出ていたらしい。
「ほらほら、彼氏くんがやきもち焼いちゃってるよぉ?」
月彦がはっとしたように、ようやく京弥の顔をまともに見る。
「……帰る。
……ありがとな、またお礼する」
京弥と月彦は二人に手を振られ、店を出た。
「タクシー拾いますよ、ちょっと待ってて」
大通りに向かって行こうとする京弥の背中でシャツの裾が引っ張られた。
「あー、俺はもう大丈夫だから。
岡野はもう帰っていいよ。まだ終電間に合うだろ?
悪かったな、こんな時間に呼び出して」
酔いが手伝ってか、月彦の目元は繁華街のネオンに照らされて赤く、上目がちな瞳も本人はしっかりと焦点を合わせようと睨んでいるつもりなのだろうが、とろんと潤んだままだ。覚束ない足元も、京弥のシャツを遠慮がちにつまむ仕草も全く大丈夫だとは思えない。
京弥は月彦の酔いが醒めるまでいつまででも付き合うつもりでいた。いいと言われて帰るくらいならこんな時間まで待っていないし、そもそも迎えになんて来ない。
それに、京弥と別れてまたどこかで酔い潰れてしまったり、知らない誰かと会う約束でもしたらと思うと、モリの言っていた言葉が頭の中をぐるぐると回る。
『今頃とっくに誰かにトイレかホテルに連れ込まれちゃってるよ、この子変態ホイホイだし』
絶対に月彦を家まで送り届けると固く心に決めている。
「酔い醒ましなら付き合いますよ。少し歩きます?」
幸い、今夜は雨が降っていないし涼しい。繁華街はビルが多く風はビル群にぶつかり吹き抜けないが、少し歩いて駅前を離れれば、風にも当たれるだろう。
最初は戸惑う表情を見せていた月彦だが、ため息を一つ吐いて呟いた。
「……不可抗力だよな……」
「え? なにか言いました?」
振り向くと、瞳を三日月のように細めて妖し気に微笑んでいた。
「じゃあ、酔いが醒めるまでどこかで休憩でもするか?」
するりと月彦の腕が京弥の首に絡む。ふわりと酒の匂いに混じって汗と月彦の匂いがする。その酒の甘ったるい香りの息が唇に近付いて、とっさのことにぼんやりと開けていた口内に湿った舌が素早く潜り込んできた。
「んん……!」
あの夜以来の月彦の舌は熱くて甘い。京弥の口の中で好き勝手に動く舌を受け止めて、自分の舌で絡めとりくすぐってやる。
いくら繁華街からは奥まった目立たない路地裏だとはいえ、店の前だ。キスをしながらも通行人や店を出入りする人間の気配を気にしていると、月彦が京弥の身体を押すようにしてビルの影に入り壁に背中を押し付けた。首に腕は絡ませたままご丁寧に足の間に片足を差し込んで、上半身を密着させ、より深く舌を絡ませてくる。
月彦の身体を受け止めながらも、手はどこにやるべきかを考える。
ためらった後に反った腰の辺りを掴むと、月彦がよりその部分を密着させてきて困った。月彦からのキスを拒むなんてことはできないが、酔っぱらいの行動をそのまま受け入れてはいけない。ほとんど素面の自分がしっかりしなければ。
しかし、京弥の胸の内を知ってか知らずか、月彦はぐりぐりと自分の股間を京弥の片足に擦りつけている。
「んん……っぷは、先輩、あの、これ以上はだめっすよ!」
ようやく口を離して月彦の身体を離そうと宥める。
「なんで?
ほら、岡野の大好きな月彦先輩の身体だぞ。触れたいと思わないのか?」
京弥の手をとり、Tシャツの中へ誘導しながら鼻にかかった声で甘えるように囁かれる。思わず生唾を飲み込んで喉を鳴らしたが、それによって少しの理性を取り戻す。
「酔っぱらいに手は出しませんから!」
「……は? この間はお互い酔ってただろうが」
月彦を離そうとする京弥の動きが止まり、腰を掴む手に力が入る。
「……先輩、この間のこと覚えてるんですか」
はっと息を呑む月彦の表情が答えを物語っていた。
「覚えてるんですね?
なんで覚えてないふりなんかしたんですか」
しかし、月彦はまた三日月のように目を細めて笑う。首からするりと腕を下ろしてきて鎖骨や肩や胸の辺りを熱い手のひらが撫でていく。
「なに言ってるかわかんないけど。
そんなことよりさ、ホテル、行くだろ?」
手のひらはするすると京弥の身体の上を滑り下半身を撫でていく。
「ごまかさないで下さい!
それに、俺酔っぱらいとはしませんって」
「……はっ、つまんね。萎えた」
自分の身体を離すとやはり覚束ない足取りでふらふらと大通りへ向かって行くので、京弥は慌てて後を追いかけた。
繁華街を抜けて喧騒から離れるように、月彦の家の方面へと二人で足を向ける。幹線道路沿いに夜道を歩き、途切れることのない車のヘッドライトを後ろから受けては追い越されていく。思った通りこの時期には珍しく、からりと涼しい風が二人の間を通り抜ける。
月彦はまだ酒が抜け切らないのか、わずかに揺れながら、どこかその揺れを楽しんでいるように京弥の数歩前を歩いていた。
シンプルなTシャツにダメージデニムにスニーカー、耳には銀のピアスが光っている。
そう大きくない川の橋まで来ると、月彦のTシャツが風を孕んで白い脇腹が見えた。
「なあ、そろそろいいだろ、ホテル行こうぜ」
数メートル先で歩きながら振り向いてそんなことを言う。まだ足元がもつれそうなのに後ろの京弥を見ながら後ろ向きで歩いている。すぐに転んでしまいそうでハラハラしながら、身体はいつでも走って支えられるように前のめりになっている。
「全然まだ酔ってますって」
駄々をこねる子供のような口振りでホテルへ行こう、セックスしようと言い続けているので、本気かどうかもわからない。
月彦は、橋の石造りの欄干から川面を眺めていたかと思うと、ふいに、欄干に飛び乗った。
「ちょっと! なにやってんすか、あんた!?」
川幅もそう大きくはないし、橋から水面への高さもそれほどない。毎年、真夏の祭りの時期や真冬の年越しなど酔った若者が飛び込むことも珍しくはない。しかし、その飛び込みで今までに数人は死傷者を出しているのも事実だ。
その欄干の上に、今や綱渡りの要領で両手を広げて向こうへ渡ろうとしている者が居る。しかも、足元の覚束ない酔っぱらいだ。
京弥は慌てて走り寄った。
「なにしてんすか! 危ないって!
早く降りて!」
欄干の上の月彦の足を目の前にして手を差し伸べる。
通りがかった車が警告を発するようにクラクションを鳴らして走り去った。
車のライトや青白い街灯、橋の向こう側の信号に照らされて、スポットライトを浴びているように月彦の存在だけが浮かび上がる。
きれいだと思う。こんなときなのに、月彦の色素の薄い髪や肌が夜の中で風に煽られている光景は、この世のものとは思えないほど妖しげで美しい。月彦は人間ではなく、輝夜姫だとか天女だとか言われても今なら信じてしまいそうだ。
この人はいつか遠くへ行ってしまうのではないか。ここではないどこかへ還ってしまうのではないか。
神様に特別愛されてしまって、とても早くお側に召し上げられてしまうんじゃないか。
ふと、そんな不安に駆られる。
「……先輩、降りてください。
ほら、俺が受け止めるので」
万が一にも、驚かせたり足を滑らせたりしてはいけない。まるで野良猫に近寄るように、静かに距離を縮めた。
「な? こんなこともできるし、酔ってないだろ?」
両手を広げて証明するように欄干を歩いて見せてくれるが、酔っていない人間はそもそもこんな所には登らない。
「わかりましたって。
わかったから、ほら、手を貸して」
うやうやしく手をとる。
「おいで」
手をとったまま、空いた方の手で月彦の足と尻の辺りを抱きかかえると、月彦が体重を預けてきた。そのまま抱きかかえて肩に担ぐ。「は? ちょ、おい! 降ろせよ、なあ、岡野。
悪かったって、ごめんて、なあ、降ろして!」
バタバタと暴れるスニーカーの足をしっかりと拘束し歩き続ける。
「担がれるか、お姫様抱っこか、おんぶか、どれがいいか選んでください」
「歩けるって! 悪かった、俺が悪かったから! もうふざけないから!」
京弥は月彦の訴えを無視して歩き続ける。橋を渡り切ってしまったところで、ようやく立ち止まって三択のうちどれを選ぶのかを聞いた。途中から頭に血が上ったのか、逆さまに揺られて気分でも悪くなったのか、月彦は暴れず黙って観念したように大人しくなった。
「……おんぶでお願いします」
月彦をおんぶし直して、夜道を歩く。
月彦が京弥の肩に顔を埋めているので髪がうなじに当たってくすぐったい。しっかりと首に腕を回して、首筋に頭を擦りつけてくる。本当に猫みたいだ。
「……俺、岡野の汗の匂いすき」
耳の後ろに鼻を寄せて匂いを嗅ぎながら、半分夢の中のようにぼんやりとした声で月彦が言う。シャワーは浴びてきているが、月彦の迎えの行き帰りで今も汗が髪を伝っている。「すみません、汗臭いっすよね」
「好きだって言ってるだろ。いい匂いがする」
そう言ったかと思うと、京弥の耳の後ろを伝う汗をぺろりと舐め上げた。
「うっわ! なにするんですか!?」
「セックスする気になったか?」
正直なところ、店を出たときのキスでは勃ったし、今も背中に密着している高めの体温やうなじにかかる吐息や、耳元でささやかれる声に、妙な気持ちになってくる。
「なりませんって。もう、大人しくしててくださいよ」
京弥の言葉を素直に聞いたのか、それとも眠ってしまったのか、背中の月彦が静かになった。気が付けば郊外まで来てしまっていたのでタクシーはそうそう見当たらない。アプリで呼んでもいいのだが、タクシーを待つのなら何分かかるかわからないのにじっとしていなくてはならないし、諸々考えたらこのまま歩いて帰った方が早い気がしていつまでも歩いている。
月彦は、先日、あの夜のことを覚えていない様子だった。しかし今夜の月彦はあの夜のことを覚えている。
「……先輩、俺になにかできること、ないですか。話したいことや、悩みとか、なんでも聞きます。
あんたが困ってるなら、助けになりたいんですよ」
背中の重みに話しかけてみるが、返事はなかった。
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