ストロベリームーン
@enn5858
第1話 憧れの人
その人は名前の通り、月のようにひっそりとした独特な存在感の人だった。
遊佐月彦。
線が細く、物静かで大声ではしゃいだりしているところなど見たこともなかったけれど、決して地味とか存在感がないわけではなかった。
むしろ、彼が佇んでいるそこだけがぼんやりと周囲から浮き上がって見えるような、そんな人の目を惹きつける雰囲気をしていた。
すらりと伸びた上背と長い手足に、背の高さに成長が追い付いていない制服の中で泳ぐ肩のライン、額にかかる前髪がさらさらと風に遊ばれると透明な瞳が見えた。
高校生の頃、中庭に居た月彦とよく目が合った。
寒空の下で、日当たりの良い中庭は高校生たちで溢れかえっている。その中でも特にぽかぽかと温かそうな場所のベンチは特等席だったので、必然的に三年生の目立つグループの先輩たちに譲られていた。
グループの先輩たちは皆一様に派手で目立つから、その中でほとんど喋らずにひっそりとそこに居る月彦は逆に目を引いた。
校舎は三年生の教室が一階で一年生は三階だったから、その当時一年生だった岡野京弥は、いつも教室の窓から中庭を見るとはなしに見下ろしながら昼食のパンをかじっていた。
すると、ふいに、月彦が顔を上げて京弥の窓を見上げる。一瞬、目が合う。
おそらく、京弥の視線を感じたからだろうと思い、慌ててすぐに目を反らした。
見ていたことに、特にこれと言って意味はなかった。ただ、あの遊佐先輩が目立っていたから。だから、目を引いたのだ。
一度だけ、月彦と話をしたことがある。
夏休みに入る少し前。試験期間中で部活はなかったものの、朝から降り続いていた土砂降りの雨に帰る気を失くし、珍しく図書室などで試験勉強をしようと思い立った。
しかし、独りでの勉強はわからない問題だらけですぐに集中力を欠いた。気分転換にと歩き回っていた棚の陰に、月彦は居た。
そこだけぼんやりと浮かび上がっているように、薄暗い棚と棚の間でひっそりと本の背をなぞっていた。
物凄く驚いてしまい、歩を止めてじっと物陰を凝視するように見つめてしまった。
そのとき、なにか言葉を交わしたような気がするけれど、もう覚えていない。
「先輩たちがもうすぐ卒業してしまうって女子が騒いでたな」
はっと、物思いから引き戻される。
「今の二年や一年にはあんなタイプの人たち居ないもんな」「目立ってたよな」「別にヤンキーってわけでもないのにな」
京弥の机の周囲でそれぞれ弁当やパンを広げている友人たちが口々に言う。
先輩たちの人気は凄まじかった。確かに、顔も良い先輩たちが多かったし、制服も少し着崩していたり、アレンジしておしゃれに着こなしていた。ヤンキーではなかったから、ケンカや迷惑行為をするわけでもないので女子も近寄りやすかったのだろう。
休み時間にバスケをしていれば人だかりができ、体育祭でリレーを走れば翌日には大量の写真がクラスのチャット画面を埋め尽くした。
京弥は友人たちの話には混じらず、またクセのように窓枠に肘をついて窓の外を眺めた。
グループの端っこに居た月彦と目が合う。
京弥も月彦も笑いかけるでもなく、挨拶をするでもなく、本当にただ目が合うだけだった。
京弥と月彦に接点はない。部活も委員会も違う。ただの、同じ学校に通う一年生と三年生。月彦が卒業すれば、もう会うこともないだろう。それほどまでになんの関りもない人、のはずだった。
卒業式の一週間前、一年生最後の登校日。京弥は部活のあと卒業式の準備を手伝わされてようやく帰るところだった。部活も早々に終わっているので生徒はほとんど残っていない。下駄箱で靴を履き替えた直後、ふと見ると、下駄箱に寄りかかって所在なげにぼうっと佇んでいる月彦を見つけた。
三年生は卒業式まではもうほとんど登校していないはずだ。大学受験の合否の報告でもしに来たのかもしれない。
これで彼を見るのは本当に最後だと思いながら、横を通り抜けようとした。
「岡野くん」
マフラーに顔の半分を埋まらせたままの、月彦のくぐもった声が聞こえた。京弥はまさか月彦に呼び止められているとは思いもよらず、きょろきょろと知り合いの顔を探した。
「こっち」
月彦が背中を預けていた下駄箱から体を起こす。
「え、」
「少し、時間いいかな」
「俺、ですか?」
「うん」
俯き加減でマフラーを指で引き上げる月彦は、きれいな顔を隠そうとしているようにも見えた。
月彦について人目につかない場所に移動する。
なぜ自分はここで月彦と二人で居るのか、夢でも見ているようなふわふわとした気分で黙々と先を歩く月彦の細い背中をぼんやりと見ていた。
今までなんの接点もなかったので、話の内容どころか会話の糸口さえ掴めない。
校舎の陰で、月彦が足を止める。こちらに正面から向くわけでもなく、やはり校舎の壁に背をもたれて、制服のズボンのポケットに手を突っ込んでいる。
思えば、いつも月彦の横顔ばかりを見ていた気がする。正面から見る時は月彦がこちらを向いたときだけ。
マフラーに埋もれていても、その横顔が端正で、おでこから鼻筋までの線が恐ろしく完璧だと思った。
「あ、そうだ。ご卒業、おめでとうございます」
ようやく見つけた会話の糸口に、月彦はなぜか一瞬泣きそうに眉をきつく寄せた。
「岡野くん。俺、岡野くんのことが、」
ようやく、月彦がこちらを向く。その顔はもういつものように透明で静かな大人びた表情で、京弥は目が離せなかった。
「岡野くんのことが、好きだった」
吹き抜ける風はまだ肌寒く、桜も咲いていない。桜が咲いていれば、この人をもっときれいに見せただろうに。そんなことをぼんやりと考えた。
「あの、俺、先輩のことなにも知らないし……」
「……別になにか応えて欲しかったわけじゃないから。言えただけで満足。ごめんな、時間とらせて」
京弥の言葉を遮って月彦はそう言うと、逃げるようにマフラーで顔を覆いながら校門へと去っていった。京弥はその背中を見送ることしかできなかった。
***
懐かしい夢を見た。
スマホのアラームを止めると、岡野京弥はそのままうつ伏せて枕に顔を押し付けた。
十年も経つのに、未だにあの人の夢を見るとは。なぜ、あのときもっと気の利いたことが言えなかったのだろう。せめて連絡先の交換ぐらいすれば良かった。
あの頃の京弥はまだ子供で、ほとんど話をしたこともない男の先輩からの告白に驚き過ぎて、戸惑って、頭が真っ白になっていたのだ。
しかし、年月が経てば経つほど、あの人を忘れるどころかもう一度会いたいと思うようになってきた。
あの独特な雰囲気、静かな佇まい、月のような微笑み。思い出を美化しているということを差し引いても、おそらく、きっと、京弥はあの人のことが好きだったのだ。
あれから十年も経てば、それなりに経験も積んだし、何人かと付き合ったこともある。なかには男だって居た。しかし、いつまでも思い出すのは、夢にまで見るのは、あの人の横顔だけだ。
そんなノスタルジーやセンチメンタルに浸っていても時間は待ってはくれず、早く出勤の準備をしなければ遅刻してしまう。
ベッドから降り、洗面所で顔を洗う。
鏡に映るのは、あの頃より少しは精悍になった頬のラインと、濃い眉に印象が強い吊り気味の濃い黒の瞳。ヘアバンドを取ると、少しクセ毛の黒髪をワックスで固まらない程度に整える。
先輩の髪はさらさらだった。背もあの頃より随分伸びたけれど、先輩はどのくらいだっただろう。先輩を越すことができただろうか。
(久々に夢見たから先輩のことばっかり考えてしまうな)
さすがに、傷付いているというほどではない。泣いたこともない。そこまでも至らず京弥の初恋は、淡い思い出となってしまった。
ただ、ふとした瞬間にあの人の横顔が過ぎると、少しだけ寂しくなってしまう。
もしもなんてないけれど、もしも、あのとき、月彦と付き合っていたら、どんな人生を送っていただろうと思うことがある。
友人から辿って月彦の連絡先を知っている人が居ないかと聞いてみたりもしたけれど、空振りに終わった。
時々来る同窓会や学校の創立記念の報せなんかにも興味を持ってみたけれど、どこまで本気で探してみるのか、探してどうしようというのか、そもそも本当に今現在会いたいと思っているのか、そんなことを考えると、もういいかという気になってしまっていた。
その日、他社での打合せからの帰り、ビルから出ると土砂降りの雨が降っていた。取引先のビルのエントランスで、一歩外を滝のように覆う雨を鬱々と眺める。
梅雨時に雨が降るのは当然と言えば当然なのだが、生憎、傘を自分の会社に忘れてきてしまった。
いつまでも他所様の会社で雨宿りをするわけにもいかないし、そろそろ受付の女性の視線も痛い。そういえば、コンビニは駅前で見たきりここまでの道のりで見た覚えがない。
なにか策はないかと考えていると、ビルのはす向かいに喫茶店のガラス扉を見つけた。雨が止むか、駅まで走れるほど小雨になってくれればそれでいい。会社に一言連絡をして、少し休憩を兼ねた雨宿りをさせてもらおう。
そう思い、一息に走って道路を横断した。
息をつきながら小さな軒先のテントの下で、上着を脱いで水滴を払う。
ドアハンドルに手をかけると、その重たさに驚いた。よく見るとガラス扉も、どことなく上品そうな趣をしている。もしかすると、少しお高めの店だったかもしれない。
こんな繁華街でもない場所に?
恐縮しながら身を滑り込ませると、そこには椅子もテーブルもコーヒーの匂いもなく、ただ奥へと広がる空間と、右に伸びる通路があるだけだった。壁には等間隔に大小の絵が飾られている。
呆気にとられていると、右手の通路奥から人の気配がした。
「いらっしゃいませ」
「えっ、」
優雅な声かけと共に、レースの白いブラウスにロングスカートといった絶対に飲食店の定員ではなさそうな若い女性が現れた。
「あ、あの、すいません……、雨宿りしようと思ったんですけど……。
喫茶店だと勘違いしたみたいです」
「ああ、そうだったんですね。うちはギャラリーなんですよ。
よろしければ雨宿りの間、ご覧になっていってください」
そう言って、女性はリーフレットを手渡してくれた。
普段なら絵の鑑賞など高尚なことはさっぱりわからないとさっさと退散するところだけれど、手元のリーフレットに並ぶ絵は、子供向けのような水彩タッチの動植物が多く、疎い京弥にも眺めていられた。
ちらりと外の豪雨と、ギャラリーの中の静かなオルゴール調の音楽と柔らかな色彩の絵を見比べて、どうせ雨宿りをするならどこでも一緒かと思い直した。
「あの入場料とか」
「無料ですよ。作品を購入される場合にのみ料金が発生するんです」
そうなのか。なにせギャラリーなどという場所は初めてで、勝手もなにもわからない。恐る恐る足を奥へと進め、手前の絵から眺めてみる。
そう広くはない空間なので、あっと言う間に一通り鑑賞し終わってしまった。
花がたくさん咲いている庭や、月と星空、カラフルなソーダの瓶に、クリスマスの飾りとクッキー。
題材はどれも小さな子供が喜びそうなものばかりだけれど、タッチは繊細で構図というのか切り取る場面のようなものには不思議な雰囲気がある。
大人でもつい目を奪われるような、寂しさがある。
京弥が足を止めたのは、巣の中に居る二羽の雛鳥の絵だ。一羽は大きくて、もう一羽は小さい。
「よろしかったら、こちらのテーブルにどうぞ。特別にコーヒーも淹れますよ」
女性がからかい混じりに言うので、京弥は恥ずかしくなった。
奥には小さなソファが一つあり、サイドテーブルも置かれている。鑑賞に疲れた客やゆっくりと絵を眺めたい客が自由に座れるように配慮されているのだろう。
女性の親切は、京弥を特別どうこうという話ではなく、単純に暇なのだと思う。見たところ京弥以外に客はいない。
「平日の昼間ですから。雨も降ってますし。土日だと結構いらっしゃるんですよ」
コーヒーを運んでくれた女性には、京弥の飲み込んだ言葉が伝わってしまったようだった。
「俺は好きですよ、この絵」
「そうでしょう。
私も先生の絵本のファンなんですよね。海外からの評価も高いんですよ。何か国語にも翻訳もされてますし、絵だけでもこうして原画が取り上げられるくらいですし」
「あ、絵本なんですね」
なるほど、どうりで京弥にもわかりやすいと思うわけだ。興味を持ち、改めて作家の説明文を読んでみようとリーフレットの文字を追った。
『作家 雨野月彦』。
目が、そこで止まる。
月彦。
瞬間、あの独特の雰囲気を持った人と、絵が重なって妙な納得感を覚えた。単なる偶然かもしれない。月彦なんて、いかにもペンネームっぽい。そう思いながらも、なにかの予感に心臓がさわさわと音を立てる。
スマホを取り出して、『雨野月彦』と検索する。
しかし、出てくるのは絵本と絵の画像、リーフレットと大差ない簡単な経歴だけだ。
「あの、この作家さん。写真とかないんですか」
「ないんですよねぇ、メディアに顔は出さない主義らしくて。
あ、でも、このギャラリーに在廊される日がありますよ」
「えっ!? いつですか!?」
女性がカウンターに置いてある小さなカレンダーを見る。
「一番近い日だと、今週の土曜日ですね」
そのあとは、降り止まない雨の中を浮足立つ心を抑えるように駅まで駆け抜けた。
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