【ビューザ】【第5章:記憶の迷路】
ビューザとダンが次に足を踏み入れたのは、まるで巨大な図書館のような空間だった。無限に続く書棚、浮遊する映像、そして空中を漂う断片的な音声。全てが絡み合い、複雑な迷路を形成していた。
「さて、ここはどこだと思う?」
ダンが、いつもと異なる軽やかな調子で尋ねた。
ビューザは周囲を観察しながら答えた。
「うーん、記憶に関する場所…かしら?」
「正解!」
ダンは手を叩いて喜んだ。
「さすがは天才心理学者。ここは記憶の迷路さ。エピソード記憶、意味記憶、手続き記憶が複雑に絡み合って、人間の経験を形作っているんだ」
ビューザは目を輝かせた。
「すごいわ! でも、ちょっと待って。この迷路、出口はあるの?」
ダンはニヤリと笑った。
「もちろんさ。でも、君の記憶力次第かもね。ここで迷子になったら、君の論文の締め切りまでに戻れないかもしれないよ」
「もう、冗談はやめてよ!」
ビューザは軽く肘でダンを突いた。しかし、その仕草には親しみが込められていた。
二人が歩を進めると、突然、ビューザの幼少期の記憶が空中に映し出された。
「あら、これ私の…」
「ほう、可愛い子猫のパジャマね」
ダンが茶目っ気たっぷりに言った。
「もう! 見ないでよ!」
ビューザは顔を真っ赤にした。しかし、すぐに科学者モードに切り替わった。
「でも、これって興味深いわ。どうして特定の記憶が保持され、他の記憶は失われるのかしら?」
ダンは真面目な表情に戻った。
「いい質問だ。記憶の固定化プロセスは、現代神経科学の大きなテーマの一つだからね」
「そうよね。海馬の役割とか、長期増強(LTP)のメカニズムとか…」
ビューザが熱心に語り始めると、ダンは優しく彼女の言葉を遮った。
「おっと、ちょっと待って。ここでは、もう少し直感的に体験してみよう。ほら、あそこを見て」
ダンが指さす先には、光る糸のようなものが複雑に絡み合っていた。
「あれは…シナプス結合?」
「その通り。記憶が形成される瞬間を表しているんだ。でも、面白いのはこの先さ」
ダンは歩き出し、ビューザも後に続いた。しばらく歩くと、彼らは巨大なスクリーンのような場所に到着した。
「ここでは、記憶の再構成が行われているんだ」
ダンが説明を始めた。
「我々は、思い出すたびに記憶を再構成している。つまり、完全に正確な記憶なんてものは存在しないんだ」
ビューザは驚いた表情を浮かべた。
「じゃあ、私たちの記憶は信頼できないってこと?」
「まあ、人間の記憶なんて、Windows のアップデートくらい信頼できないってことだね」
ダンが冗談を言うと、ビューザは思わず吹き出した。
「もう、ダンったら! でも、それって深刻な問題よね。特に目撃証言とか、トラウマ記憶の扱いとか…」
ダンは頷いた。
「その通り。でも、これは同時に人間の適応能力の証でもあるんだ。過去の経験を現在の文脈に合わせて再解釈できるからこそ、我々は成長できるんだよ」
ビューザは深く考え込んだ。
「そう考えると、記憶って本当に不思議ね。過去を正確に保存するんじゃなくて、未来のために再構成しているのかも」
「素晴らしい洞察だ、ビューザ」
ダンは嬉しそうに言った。
「そうそう、思い出したんだけど」
ビューザが突然言った。
「最初に会ったとき、ダンはもっと怖い人かと思ったわ。でも、今思うとすごくフレンドリーだったのよね」
ダンは意味深な笑みを浮かべた。
「ほう、それは興味深いね。今話したばかりの記憶の再構成が、リアルタイムで起きている例かもしれないよ」
ビューザは顔を赤らめた。
「もしかして、ダンへの印象が良くなったから、最初の記憶まで書き換えちゃったのかしら…」
「さあ、どうだろうね」
ダンは茶目っ気たっぷりに答えた。
「でも、それこそが人間の面白いところだと思わないかい? 常に変化し、成長し続ける存在。その過程で、過去の解釈さえも変わっていく」
ビューザは深くため息をついた。
「本当ね。人間って、本当に複雑で奥が深いわ」
「そうだね。でも、それを理解しようとする君たち心理学者こそ、最も複雑で奥深い存在かもしれないよ」
ダンのその言葉に、二人は笑い合った。
記憶の迷路を進みながら、ビューザは自分自身の変化を感じていた。科学的な観察眼は保ちつつも、より柔軟に、より人間的に物事を見られるようになっていた。そして、ダンとの関係も、単なる案内人と探索者の関係を超えて、何か特別なものに発展しつつあることを、彼女は密かに認識し始めていた。
「さあ、次はどこへ行こうか」
ダンが優しく声をかけた。
ビューザは期待に胸を膨らませながら頷いた。彼女の心は、次なる発見への期待と、ダンとの関係の深まりへの期待で一杯だった。
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