【ビューザ】【第1章:認知の万華鏡】

 ビューザとダンは、まるで万華鏡のような空間に足を踏み入れた。周囲には無数の色彩豊かなパターンが広がり、絶え間なく変化し続けていた。それは美しくも混沌としており、ビューザの目を釘付けにした。


「ここが認知の万華鏡だ」


 ダンが静かに説明を始めた。


「見えるかい? 認知の最小単位が、どのように我々の現実を構築しているかを」


 ビューザは目を凝らした。すると、思考のパターンたちが踊るように動き、複雑な心理的構造を描き出す様子が見えてきた。それは、まるで生命体のようだった。


「これは……信じられないわ」


 ビューザは息を呑んだ。科学者としての彼女は、この光景の科学的説明を求めたくなった。


「ダン、これは一体どういう仕組みなの?」


 ダンは優しく微笑んだ。


「これは私たちの脳が世界を理解する方法を表しているんだ。認知心理学でいう'スキーマ'や'認知バイアス'が、ここでは視覚化されているんだよ」


 ビューザは眉をひそめた。彼女は認知心理学の基礎知識は持っていたが、このような形で視覚化されるとは思ってもみなかった。


「でも、これらのパターンがどのように私たちの現実認識を形作るの?」


 ダンは一つのパターンを指さした。それは徐々に形を変え、別のパターンと融合していった。


「見てごらん。これが新しい経験によってスキーマが更新される過程だよ。私たちの認知は固定されたものではなく、常に変化し続けているんだ」


 ビューザは魅了された。彼女の科学者としての好奇心が、全開になった。


「まるで……私たちが瞬間瞬間、新しい現実を作り出しているようね」


「その通り」


 ダンは嬉しそうに頷いた。


「ウィリアム・ジェームズの言葉を借りれば、『人間は思考の習慣によって作られた束に過ぎない』んだ」


 ビューザは深く考え込んだ。この経験は、彼女の心理学の理解を根本から覆すものだった。しかし同時に、科学者としての懐疑心も捨てきれなかった。


「でも、ダン。これが本当だとしたら、客観的な現実なんて存在しないってこと? それじゃあ、科学の基盤が崩れてしまうわ」


 ダンは真剣な表情で答えた。


「そうとは限らないよ。むしろ、これは科学の新たな可能性を示唆しているんだ。客観性と主観性の境界線を再定義する必要があるかもしれない」


 その言葉に、ビューザは立ち止まって考え込んだ。彼女の中で、既存の科学的パラダイムと、目の前で展開される新たな現実の間で、激しい葛藤が起こっていた。


「ねぇ、ダン」


 ビューザは少し躊躇いながら口を開いた。


「これって……私の頭の中で起こっていることなの? それとも、本当に別の次元に来ているの?」


 ダンは微笑んだ。その表情には、何か神秘的なものが感じられた。


「その二つに、本質的な違いはあるのかな?」


 その返答に、ビューザは一瞬言葉を失った。彼女は自分の質問の意味を、改めて考え直さざるを得なくなった。


「そうね……。私たちの'現実'が認知によって構築されているなら、内的体験と外的現実の境界線は曖昧になるわ」


 ダンは満足げに頷いた。


「その通り。ここでの体験は、君の内なる世界と外なる世界の境界線を探る旅でもあるんだ」


 ビューザは深く息を吸った。彼女の心の中で、科学者としての論理的思考と、この不思議な体験から得られる直感的理解が、徐々に融合し始めていた。


「分かったわ、ダン。もっと教えて。この認知の万華鏡が、私たちの現実をどう形作っているのか」


 ダンは嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、もう少し深く潜ってみよう。認知バイアスの形成過程を見てみようか」


 二人は認知の万華鏡の中心部へと向かっていった。その過程で、ビューザは自分の中の変化に気づいていた。最初はダンを警戒していた彼女だが、今では彼を導き手として信頼し始めていた。


 しかし、そんな自分の変化に気づいたビューザは、再び警戒心を強めた。彼女はダンに影響されすぎているのではないか、と不安になったのだ。


「ダン」


 ビューザは真剣な表情で尋ねた。


「あなたは本当に私を正しい方向に導いているの? それとも、私を操っているだけ?」


 ダンは立ち止まり、ビューザの目をじっと見つめた。


「良い質問だ、ビューザ。その疑問こそ、君が正しい道を歩んでいる証拠さ。常に批判的思考を忘れないで。それが、この旅を真に価値あるものにするんだ」


 その言葉に、ビューザは少し安心した。しかし、完全に信頼することはまだできなかった。彼女の心は、好奇心と警戒心の間で揺れ動いていた。


「でも、これはまだ始まりに過ぎない」


 ダンは続けた。


「次は、無意識の迷宮へ案内しよう」


 ビューザは深く息を吸った。彼女は、これから先にどんな発見が待っているのか、想像もつかなかった。しかし、その未知への恐れよりも、新たな知識への渇望の方が強かった。


「分かったわ、案内して」


 彼女は決意を込めて答えた。そして、ダンと共に認知の万華鏡を後にし、次なる冒険へと歩みを進めた。

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