モモノケ薄太郎
@aoi_mua
第1話
赤、青、緑。
人間が感知できる光の波長領域は三種類だ。それは生物が持つ錐体細胞に起因する。錐体細胞は網膜の中心部に位置する視細胞の一つで、この錐体の形態によって反応できる光の波長が異なることで色の区別が生まれる。人体は三形態の錐体を所有し、三種類の光を感知する。人が見る世界はこの三色の組み合わせでしかない。
対して鳥類は四種の錐体細胞を持つ。人間が決して見ることのできない紫外線や磁界を視認し、特殊な中心窩により複数の焦点を持つことが可能である。つまり、近くを見ながら遠くを見ることができる、鳥は人より視力が良い。
桃太郎の鼻の下に白い筋が薄く伸びている。
そして数日後、この男の旅は終わる。
窓から差し込む月と畳に置かれた行燈の僅かな光の中で私にはそれがはっきりと見える。白い筋はおそらく片栗粉だろう。また隠れて団子を食ったのだ。桃太郎は相変わらず自身のモモ毛の薄さについてサルとイヌに話を聞かせている。
遡ること数日前、
「決戦前夜だ。最後くらい豪勢にいこうじゃないか」
武者修行という名の東北観光を終え、奥州から日光、東海道へと下って大津宿に着いたところで桃太郎が声を上げた。いつも通りの能天気な声色だったが逆光でその表情は見えなかった。一瞬の沈黙をまたぎ、
「そりゃあいい考えっすね!」
サルが犬歯と歯茎をむき出しにして応じ、イヌは尻尾を振って主人を見上げた。こうして私たちは大津から紀州の勝浦宿へ向かうこととなった。『ホテル浦島』。洞窟温泉で知られた全国有数の旅籠屋である。
「いやぁほんっといつ見ても綺麗な足っすね!」
毛の薄さ語りがモモから脛へ差し掛かったところで、サルは巧みに合いの手を入れ、桃太郎に酌をする。その隣でイヌは前両足を揃えた非の打ちどころのない完璧なお座りで黒目を輝かせている。
昔一度、桃太郎から仲間について聞いたことがある。
「とびきり間抜けそうな奴を仲間に入れた」
安酒片手にぷひゃぷひゃと笑いながら答えていたが、どうやら本当のことだったらしい。すっかり気持ちよくなった桃太郎の阿呆面に磨きがかかる。
「人が桃から生まれてくれば~腿も尻もまるで桃の皮のよう~」
明日の始発で帰ろう。改めて心に決めた。
夜中を回り、1人と2匹は、三様の寝息を立てている。
今日でこの阿保共ともおさらばだ。温泉に浸かってすっきり去るとしよう。貴重品を番台に預け、脱衣所に向かう。深夜ということもあって人っ子一人見当たらない。
とても綺麗とは言い難い脱衣所から洞窟へと続く硝子戸を開くと、巨大な空間が目の前に広がった。洞窟の内部は三角柱上に穿たれ、奥から出口に向けてなだらかな下り坂となっている。そこに大きさが異なるいくつもの浴槽が段違いで並び、三角の開口部には真っ黒な水平線が引かれ、月明かりが微かに差し込んでいる。刹那、遠い昔、父と見た越後の棚田の記憶が頭をよぎる。
たしか夜明け前だったろうか。数百を超える階段状に拓かれた稲田の水面が一斉に銀色に輝き、その上を漂う雲海が静かに視界を満たしていく。
「人が天上に向けて作った鏡だ」と父が言った。
「しかし人に付いた眼ではこの美しい景色を捉えきることができない」
それは人間に対する皮肉や軽侮の意味合いというよりは、むしろ慈愛に近いものだと感じた。薄明りの中で、人間が決して見ることのできない紫外線の光が乱反射し、風景の煌めきを一層強めていた。
「おーい!」寝ていたはずのサルの掠れたような甲高い声が洞内に響き渡った。
「お前が風呂だなんて珍しいじゃないか。砂ばっかりで水浴びの一つもしなかったくせに」
騒がしいサルの後に続いてカチカチと音を立てながらイヌが小刻みにこちらに近づいてくる。見事な四足歩行である。
「せっかくの温泉ですから」
私は明日帰る。腹の中でそう呟きながら適当な言葉を探す。
使い古された木製の踏み台に三者並んで腰かけて身体を洗う。サルがイヌの背中を流し、イヌは両耳をぺたりと垂らす。そういえばイヌが口を利いているところを見たことがない。というか、こいつはイヌなのだろうか。体型を見るとアライグマのように小さく見えるし、顔だけ見れば人の翁のようにも見える。まぁ何だっていい。
空と海に繋がる巨大な三角の口を前にサルとイヌに挟まれ湯に浸かる。隣のイヌはいつの間にか稚児用の浴槽椅子を風呂底に置いて腰を落ち着けている。
「もうすぐだな」
サルの柔らかそうな眉間の皮膚に皴が寄る。
「そうですね」
私は明日帰る。
「近頃、旦那の手の震えが止まらないようでなぁ。ばあさんが持たせた黍団子もとっくに底をついて。さぞかし心細いことだろうよ」
あれ、さっきまで口元を汚していなかっただろうか。まぁ何にせよ私には関係のないことである。
最後に一つ聞いておきたいことがあった。
「なぜみなさんは桃太郎の旦那について来たんですか?」
団子の一つや二つで体毛薄いだけが取り柄の男に命は預けられないだろう。
「さぁねぇ、なんていうか、ほっとけないっていうか。お前もいるし」
手ぬぐいを額に巻いたサルは当然のように返し、手ぬぐいを頭に乗っけたイヌと一緒になってこちらに顔を向けた。イヌの眼は黒豆のようにそっと光っている。
洞窟に静寂がこもる。三角に切り抜かれた真っ黒な空と海が眼前に広がり、湯気がそれを少しでもぼやかそうと視界の邪魔をする。
私は明日も帰れない。
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