11−3 紫焔

「もう帰られるとか」


 出発のために牛車に乗ろうとすると、和子は華鈴から声を掛けられた。挨拶をするにも部屋に行くわけにはいかなかったので、使いをやったのだが、華鈴は呼び掛けに応えてすぐに来てくれたらしい。


「灰家のモノたちが帰ったでしょう。だから、私はいる必要がなくなったの」

「そうなんですか。あまり、お話できなくて……」


 華鈴はシュンと肩を下ろす。また話そうなどと言っていたが、華鈴はそれだけで機会がなかったことを気にしていたらしい。純粋すぎる心に、なんとも同情しそうになる。


「まあまあ、落ち着いてあなたが呼んでくれれば、私もこちらに来られるわ。そうでないと、一生ここには来れなそうだし」

「一生、ですか?」

 華鈴はきょとんととぼけた顔をする。わかっていないようなので、笑顔を見せて、肩を軽くたたいてやる。


「頑張ってちょうだい。またこの家に招待されるなら、あなたからがいいから!」

「はあ。またお会いできるなら、ぜひ」

 やはりよくわかっていない。とにかく会えるならばと大きく頷く。


 可愛いわねえ。そんな声が口から漏れそうになるが、後ろに座った目をした男が見えて、口をしっかり閉じた。


「気を付けて帰ると良いよ」

「ありがとうございます。睦火様。では、私はこれで」

「お気を付けて!」


 ちゃっかり華鈴の隣を陣取る睦火は、口元だけの笑みで和子を送った。





「はーあ。これで晴れて帰れるわ。まったく、怖いったらありゃしない」


 華鈴が山に入り行方不明になり、その後華鈴が睦火に助けられて部屋に戻ったと聞いて安心した。

 それと同時、もう紅音は終わったと感じた。華鈴が行方不明になった際、やっと邪魔者がいなくなったと、侍女たちと喜んでいたからだ。


 手を出すなと言ったつもりだったのだが、紅音には通じていなかった。睦火の恐ろしさを理解できないとは、愚かなものだ。


 結果が、あれである。


「もしあの子が山から戻って来なかったら、殺されてたわよ」

 しかも、こちらに同じ轍を踏む愚かモノがいたのだから、肝を冷やした。


 睦火は華鈴が戻ってからすぐに、和子を呼んだ。初めて和子を呼んだため、周囲は色めき立ったが、そんな理由で和子を呼んだのではない。


 微笑みながら話を始めた睦火。最初の話題は、風呂についてだった。


『君は、露天風呂が好きなのかな。ここには、有名な湯があるのだけれど』


 なぜそんな話をするのかと思う前に、華鈴が風呂で蛇に噛まれたことを思い出した。


(おかしいでしょ。私に関わりがないことを、睦火が話すはずないんだから)


 笑みを向けられながら質問されているのに、背筋が凍る気がした。


「蛇に睨まれた蛙って、ああいうのを言うんだわ」


 部屋の空気が冷えてくる。カタカタと身体が震えるなんて、初めてのことだ。

 睦火は口元を上げたままにしながらも、冷眼を向けてきた。質問の答えに、なんとか首を振ることで返した。


『あの温泉に入りたがるモノは多いだろう。誰も興味を示さなかったのかい?』

『興味を示したモノなど』


 いるにはいるが、侍女の一人が温泉に入れれば良いなどと言っていただけだ。和子には興味がなく、また興味を持って面倒になっては困るという気持ちだった。


 あの温泉は燐家のモノや宗主など身分の高いモノが入れる場所。睦火から直接誘いを受けず、燐家に訪れたような和子には、誘いがない限り温泉になど入れるはずがない。宗主から温泉に入ったらどうかと問われるならまだしも、それすらないのに、温泉に入ろうなどと思わない。

 だから、侍女たちの話は適当に聞いていたのだが。


 睦火の見つめてくる瞳にぞっとした。それを口にするのならば、あの場所で起きた事件について話しているのに違いないからだ。


 そして、睦火はその犯人に気付いている。


 和子の預かり知らぬこと。だが、和子の周囲の誰かが手を出したとしたら、監督不行届として扱われるだろう。和子の責任になっておかしくない。


『わ、私は熱いお湯は苦手ですが、侍女のうち誰かが温泉を好んでいるかもしれません。肌も艶やかになるという噂ですから』

『そう。ではその侍女たちのうち誰かの肌が荒れては、嫌だろうね』

『それは、もう』


 和子は静かに頷いた。睦火は怒りを見せるでもなく、ただ口元に笑みを湛えながら話をするだけ。

 それが尚更恐ろしい。


 睦火はそっと袂からかんざしを差し出した。


『明日は花見の予定だ。この髪飾りを贈るよ』

 そこで贈り物など、恐れしかない。いかにもなにかがついているかんざしだろう。

 手に取らず震えていると、睦火は付け足した。


『君には、似合わない色かな』

『どうでしょうか』

『いらないのならば、侍女にでもやるといいよ』


 そうして、睦火は席を立ったのである。




「は~あ、こっわ。あんな高価な玉のついた物を、スゼリの餌にするなんて」


 今思い出しても寒気がする。急いで自分の部屋に戻り、当日の侍女たちの動向を調べさせた。

 そこで浮かんだのが楓で、彼女が得意とする術が爬虫類よろしく壁をよじ登る力だったことで決定打になった。


 睦火は楓が行ったことなど、とっくの昔に知っていたのだろう。

 紅音にしてもそうだ。小さな嫌がらせをさせていたのにしばらく放置して、紅音を付け上がらせた。

 男たちは罰せられたが、紅音が関わったことなど知らぬふりをしていた。わざと泳がせるために。


 それで華鈴が拉致されてしまったわけだが、そこは丸く納める方法でもあったのだろう。花見の宴でいちゃついていたのだから、うまく行ったはずだ。


 うまくいかなければ、矛先がこちらに向きかねない。


「まったく、あの男は執念深いわよ。あの子はどうする気かしらねえ」

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