3−3 燐家
「ちょっと噛んでしまっただけです! 手当てもしていただいたので!」
「そう? でも、痛そうだね。すぐに治るといいけれど」
睦火は特に気にならなかったか、笑顔になると唇から手を離した。
それだけで力が抜ける。あの一瞬で無意識に緊張したようだ。睦火に人間ならぬ気配を感じ取った気がしたからだろう。
けれど、恐ろしさを感じつつも、急に近付いて唇に触れられれば、頬も熱くなる。睦火は途端温かな視線を向けて微笑むと、華鈴の手をとって歩き始めた。
穏やかに笑む顔がちぐはぐに見えて、やはり得体が知れない。深く関わる前に離れるべきだと、華鈴の勘が告げてくる。それでも、その手を払いのけることはしなかった。
(手を繋ぐのは、いつぶりだろう。ひいじいと手を繋いだのだって、ずっと昔だわ)
睦火は華鈴の歩みに合わせるように、ゆっくりと歩いた。着物に慣れていないわけではないが、歩幅は狭いので丁度いい。
(気にして歩いてくれてるのかな)
「燐家の庭園はそれなりに広いから、好きな時に来るといいよ。ただ、迷子には気を付けてね。林は広いし、木々も多いから、一度で回ろうとすると道を忘れてしまうだろう」
燐家は相当な敷地を持っているらしく、歩いていてその広さを実感した。水辺のある場所、竹林。森のようにうっそうとした場所や、一面芝生の小山。桃や花のなる果樹園のような場所もある。
簡単に説明されたが、すべて回れば何時間もかかるだろう。
広い池のあるところまでやってくると、勾配のある築山に女性が数人歩いていた。こちらに気付き、女の子が一人静々と近付いてくる。
「睦火様。偶然ですわ。お庭の散歩をしていらっしゃいますの?」
鈴の音のような愛らしい声で話し掛けてきたのは、昨日会った女の子だ。灰家と呼ばれていた方で、昨日同様、睦火の隣にいた華鈴を、大きな目を眇めて鋭く睨んでくる。
名前は灰紅音。灰家の長女で、彼女の伯父が睦火の一番上の兄と懇意にしていた。しかし、睦火の兄が亡くなったため、家の繋がりが無くなるのを危惧し、睦火の相手として出てきたのではないかと、丸吉は説明をしてくれた。
同じ宗主の元でも、家同士の繋がりはその家の左右を決する。弱い家では他の強い家に呑み込まれてしまう。そうならないためにも、由緒正しき燐家に繋がりを求めてきているのだ。
紅音は結婚相手に選ばれるために来たのだから、いきなり現れた華鈴は邪魔でしかないだろう。嫌悪されて当然だった。
「散歩でしたら、わたくしもご一緒させてくださいませ!」
「申し訳ないけれど、昨夜も伝えた通り、僕は華鈴以外、娶る気はないんだ。宗主の命令で君たちの滞在を許したけれど、僕にそのつもりはないよ。期限は決められていないけれど、できるならば早めに家に戻ることをお勧めする。おいで、華鈴」
紅音に取り付く島がない。はっきりと拒絶を見せて、睦火は華鈴を促した。その背でぎろりと華鈴を睨みつけてくる。それは明らかな敵意で、嫌悪を通り越し、憎悪すら感じた。
人間と違うその鋭い睨みは、鋭利な刃物のように華鈴を傷付けてしまいそうだ。
急に脂汗が浮いてくる。
まるで、華鈴を追ってきた黒いモノに追いかけられているような気持ちになる。
(あれ以上の寒気がするわ)
「家同士の繋がりは、とても大切だと聞きました。人間の私より、こちらに住んでいる家の方と繋がりを持った方が良いのでは? いくらひいじいが不思議な能力を持っていても、私はひいじいと同じではないのに」
視線に耐えきれず、華鈴は提案した。いくら結婚が面倒でも、華鈴をだしにすれば危険な目に遭うのは華鈴だ。
しかし、睦火はくるりと身体を正面に向けると、華鈴に向き直った。
「華鈴、前にも言ったけれど、僕は君に会ったことがあるんだ。その時に約束したんだよ。君が、僕に、ずっと一緒にいようと言ったんだ」
「わ、私がですか!?」
「だから僕は待っていた。源蔵には断られたけれど」
会ったことも覚えていないのに、そんなことを言われて混乱してしまう。しかも、覚えていないほどなのだから、幼い頃の話ではないだろうか。
冗談で言っているようには思えないが、冗談にしか聞こえない。そもそも、睦火は何歳なのだろう。
ちらりと見遣った睦火は、華鈴に比べて頭ひとつ分くらい身長が高い。痩せて見えるが、袖から出る手のひらは大きく。華鈴の手を簡単に包んでしまう。
年は二十代前半に見えるが、人間とは違う睦火の年が顔で判断できるとは思えなかった。
見上げてしまうと見てはいけないものまで見える気がして、すぐに足元に視線を戻す。睦火は人間ではない。それだけはわかる。
「下を向いていては景色が見れないよ。少しは顔を上げてほしいな。僕を見てほしいけれど、庭園くらいならば見れるだろう」
「ひゃっ!」
言いながら、睦火はいきなり華鈴を足元から抱き上げた。睦火の身長より高くなり、地面が離れて怖さを感じる。バランスを崩しそうになったが、掴む場所がない。
掴めるのが睦火の頭だけになって、のけぞりそうになった。
「華鈴、君は軽いね」
「お、おろしてください!」
「動くと危ないよ。君を落としてしまう」
「あ、あの! 私、重いですから!」
「重くなんてないよ。肩を持つといい。ほら、遠くまでよく見えるだろう」
いつの間にか小山に登っていたのか。敷地を囲う壁より高い場所から見えたのは、曽祖父の描いた世界。山際の、朝日が届く草むらが見える場所だ。あの開けた野原で睦火が立っていた。
「源蔵はあの場所が気に入っていてね。敷地の外の山は危険だから、あまり出ないのだけれど、絵を描きたいと言うから、連れて行ってやったんだ。景色を描くのだと思ったら、勝手に僕も描いていたけれどね」
「朝日に照らされて、とても美しい絵でした」
その美しさにある怪しさと迫力を感じた理由が、今ならわかる。おどろおどろしい化物ではなくとも、人間ではないモノを描けば、絵だろうとその恐ろしさが表現される。
曽祖父が描いた睦火は人間ではないのだから、納得の気配だったのだ。
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