1−3 華鈴

「華鈴さーん! 話は終わりましたので、本日は帰りますね!」


 絵を見ていると、弁護士の声が玄関から聞こえて、その絵を壁にかけて玄関へ走った。伯父と父親は帰ったのか、弁護士しかいない。


「二人とも帰られましたよ。また来ても、玄関は開けなくて結構ですからね。無視して大丈夫です。相続の件は気にすることはありませんから。源蔵さんにしっかり言い渡されています。今日はよく休んでください」

「ありがとうございます」

「何かあったら、すぐに連絡をくださいね。……」


 弁護士は何か言いかけて、やめた。

 大丈夫ですか? そんなことを言おうとしていたに違いない。弁護士はそれ以上言わず、頭を下げて出て行った。


 父親は結局、華鈴と何を話すこともなく帰ったようだ。実の娘に会うのが何年振りであろうと、会話をする相手ではないらしい。

 伯父と父親は、曽祖父が亡くなったことについては何も言わず、ただ相続の話をするためだけに訪れた。曽祖父の葬式ですら、曽祖父を思う言葉の一つも出なかった。それだけで、彼らが既に他人であることがわかった。


「ひいじい……」


 床にぽとりと雫が落ちる。今更涙がこぼれてきた。


 曽祖父は、華鈴の唯一の身内と言っても過言ではない。華鈴が幼い頃、曽祖父は華鈴を養子に迎えた。両親が華鈴を恐れたからだ。


 両親に何をしたのか、華鈴は覚えていない。覚えているのは、両親が華鈴を避けようとする姿。母親の袖を握れば振り払われ、嫌悪感を浮かべられた。父親は怯えるようにして、言葉を選び、華鈴に話をする。華鈴が少しでも話を続けようとすれば、すぐに会話を終わらせて、逃げるようにその場を去った。


 子供心に、ずっとおかしいと思っていた。


 父親が運転する車に乗って出かけた時、二人で出かけられることを喜ぶよりも不安が勝った。

 辿り着いた場所。曽祖父の家に着けば、曽祖父と何かを話して、華鈴を置いて車に乗って行ってしまった。

 置いていかれたと分かったのは、すぐだった。


 その時は、涙も出なかった。両親は華鈴のことを好まず、触れることすら嫌がっているのを理解していたからだ。

 それから曽祖父は華鈴を養子にし、実の両親の代わりに男手一つで育ててくれた。


 華鈴の親は曽祖父であって、彼らではない。

 華鈴にとって、家族は曽祖父だけだった。


 その曽祖父が、死んでしまったのだ。





 鼻を啜って、華鈴は立ち上がった。泣きすぎて瞼が重い。


 どれほど泣いていたか。外は薄暗く、日が沈みかけていた。お腹がぐうっと鳴り、夕食の時間を知らせてくれる。

 焼き場でおにぎりをもらったが、それを一口食べただけだったのを思い出す。お腹がすいて当然だ。


(雨戸を閉めて、ご飯を食べないと)


 行うことはいつもと同じ。風呂を沸かして、食事の用意をして、片付けをして、後は寝るだけ。違うのは、食事は一人分で良いということ。


 拳をギュッと握って、華鈴は立ち上がる。位牌を持ち歩いているのに気付き、仏間に移動しようとした。家の中は真っ暗だ。灯りをつけようとスイッチを探すが、暗くてスイッチがどこにあるのかよく分からない。


 なぜこんなに暗いのだろう。今何時なのか。なんだか異様に暗い。


 時計を見ようにも暗くてよく見えない。外の方が明るいか、窓から外に視線を向ければ、うっすらと明るさを感じた。しかし、闇は広がり、雨でも降るのか、急激に外も暗くなってくる。

 その暗がりの中、庭の先の生垣の向こうに人影が見えて、華鈴は小さく悲鳴をあげた。


 昼間見た、中折れ帽子を被っている、黒い何か。それが生垣を跨いで越えてくる。


 華鈴は咄嗟にそれを背にして逃げ出した。どこかに足をぶつけ、肩を打ってよろけそうになったが、廊下を出て逃げようとする。

 しかし、廊下は驚くほど暗く、何も見えない。ただ足を動かし、それから逃げるために走ったが、どこに何があるのかも分からない。


 この家は、廊下は短く、ほとんどの部屋が間繋ぎになっている。襖を開ければ隣の部屋で、ずっと走れば壁にぶつかった。なのに、いくら走っても壁にぶつからない。


(どうなっているの!?)


 それに、本来ならば、あの系統のモノは、この家の敷地には入れないはずだった。


(なんで。どうして敷地に入れるの!?)


 昼間、黒い影はこの家に入ってこられなかった。なのに、生垣を越えて、庭を跨いでやってくる。闇の中で、それよりもずっと黒い何かが、華鈴を追ってきた。


「ひいじい! 助けて!!」


 その叫びに応えるように、遠くで光るものが見えた。あの絵だ。


 青年の後ろにある山の稜線の朝日が、こちらまで照らすかのように明るい。

 見返り美人のような青年の髪がその光で淡く浮かび、髪がなびいているように見えた。

 いや、その青年がさらに振り向き、髪をなびかせて、手を伸ばしてきた。


「華鈴、おいで!」


 青年が華鈴の名を呼ぶ。


 無心でその手を取れば、身体が軽くなったかのように、足元が床から離れ、浮かび上がった気がした。


 紫色の瞳を持つ青年の顔が近付いて、ゆっくりと微笑む。鼻筋の通った、美しい青年の笑みに安堵するのも束の間、髪の毛がぐっと引っ張られた。


「いたっ!」


 華鈴の髪の毛を、黒い影が引っ張っている。宙に浮かぶ華鈴の身体を、引き摺り落とすように、黒い影は大きな口からギザギザの歯を見せて、にんまりと笑った。

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