第6話 ラファエウから

 子供の頃から、次期侯爵としての自覚を持てと、何度も言われた。


 幼い頃に父が倒れ、否応なくそれが現実になると幼心で理解していた。

 倒れながらも厳しい指導をする父について、必死に勉強に励んだ。母も厳しさは同じ。辛いなどと思う暇もなかった。


 彼女だけが、エラフィーネだけが、自分も気付かなかった感情を教えてくれた。


「痛いなら、痛いって言っていいんだよ」


 言っていいのか。口にしてはいけないと言われていたのに。

 けれど、エラフィーネは小さな手で優しく頭をなでてくれる。


「いいこ、いいこ。たくさん我慢したね。でも、我慢できなくなったら、できないって言っていいんだよ」


 暖かく優しい、小さな手。この手を離したくないと思った。

 だからか、彼女の側にいると頭が真っ白になって、何もできなくなった。話したいことも話せず、口籠るしかない。言いたいことがあるのに、それが口から出てこない。


「記憶を失いまして、旦那様と離婚するかすまいか相談を…」


 だから、これは私への罰なのだろう。





「お前、もうこんなものを読んでいるのか?」

「読み終わりましたから。お貸ししますか?」

「いらん。見るだけで吐き気がする」


 アカデミーに入って学び続ける傍らに、よく殿下がいた。人の本をぺらりとめくっては、ぽいっと机に放り投げる。殿下はあまり集中力がなく、勉強をしていると時折人にちょっかいを出してきた。


 私の表情が変わらないことに腹立つらしく、たまに、エラフィーネと一緒にいる顔に戻したらどうだ。と文句を言ってくる。


 好きでその顔になっているのではない。エラフィーネの前だと緊張して動けなくなるのだ。

 そんなことを口にしたりはしないが、文句を言う殿下をとりあえず無視しておく。


 学ぶことは多く、アカデミーに入ってからは机の前にいる時間が更に増えた。次期侯爵として剣や馬、ダンスやマナー、社交界についてなど、多くも知らなければならなかった。

 その中で自分が一番苦手なのが、人とのコミュニケーションを取ることだった。


「殿下は、人の言葉を引き出すのがうまいように思います」

「お前が下手なだけだろう」


 ずばりと言われて反論すらできない。殿下は第一継承権を持つ方でありながら、その肩書きの重さを見せたりしない。柔軟な考え方や対応。言葉巧みで、殿下の周囲はいつも賑やかだ。

 だから殿下の側にいれば苦手な学びのヒントになるかと思ったが、そう簡単に盗めるほど私は器用ではなかった。


「妹の茶会に来い。お前、興味ないからって適当に相手するなよ」

 いつでもお見通しだという発言に、黙るしかない。女性たちのさえずりを聞くのは得意ではなく。聞いているふりをして聞いていないことがあるとは、殿下の前では言えない。


 それはとっくに気付かれているのだろうが。


「お前な、彼女たちは将来の社交界の要になるかもしれないだろう。誰に嫁ぐかも分からない。誰でもどんな情報を得られるか分からない。だから、判断するなら話してから判断するんだな。王宮ではみんなが真実を話すとは限らない」


 殿下は普段ふざけているが、時々鋭いことを言う。

 どこにどんな情報が転がっているのか分からない。誰がどんな関係なのかを知るのは大切なことだ。女性の世界でしか分からないことがある。


 それが正しいのかそうでないのか。噂のレベルなのかどうなのか。そんなことを吟味することを覚えた。


 殿下に連れられて茶会に行くことは多い。王妃との茶会に混ぜてもらった時は驚いたが、母上と仲が良いためそこまで緊張することはない。


 ただ、ごくたまに会う第二夫人の前では、少しだけ気後れしそうになる。

 第二夫人は、人をよく値踏みするような目で見てくるのだ。彼女の視線は気持ちの良いものではなかった。


 王女との話は幼い頃にあったのは聞いている。けれど私には全く興味のないことだし、母上も王女との話は聞かぬふりをした。母上は王妃派で、第二夫人とは反対勢力だったからだ。





 アカデミーも卒業し、エラフィーネに再び出会ったのは、彼女のデビュタントの時だった。


「相変わらずの塩対応。笑顔くらい配ったらどうだ?」

「殿下は配りすぎです」

「お前がもう少し女性に優しくできる日が来ることを祈る」

「余計なお世話です」


 殿下への軽口はいつも通り。それを許してくれる立場に甘えつつあるが、殿下の存在はありがたかった。対人に不安がある私を気に掛けているのは分かっていたからだ。

 だが、仕方ないだろう。彼女たちが側にいても、何を思うこともない。彼女たちはただの情報源。それを言ったのは殿下だ。


「実践してくれて嬉しいよ」

 殿下は肩をすくめて軽く嫌味を言ってくる。


 ただ、情報源だと思うのは、彼女以外の女性だ。彼女は含まれていない。


「失礼。通ります」

 遠目に見えた、黒髪の女性。一目見て分かった。


「エラフィーネ!」

 鼓動が耳に届くほどうるさくて、彼女が何を言っているか聞こえるだろうか。


「あの、約束を……」

「何の話ですか?」


 一瞬、エラフィーネの声が、よく聞こえなかった。





「その本、本当に読んでいるのか」

「読んでおりますが?」

「ずっと同じページだぞ」


 よく人の読んでいる本を見ているものだ。殿下は意地の悪い顔をして、にやりと笑う。


「にらむな」

「にらんでません」


 人がショックで落ち込んでいるのに、殿下は人をからかってばかりだ。隣に座ると、行儀悪く椅子を傾けてそっくり返る。


「先日のパーティは華やかだったな。他の奴らにも話を聞いた方がいいぞ?」

「何のことですか?」

「誰に求婚するかって話だ。伯爵の娘は人気があるな」

「え……?」


 その後、自分がどんな行動をとったか、今では思い出したくない。

 誰の許可も得ず伯爵に会いに行き、ただ乗り込んで伯爵に直接許しを乞う真似をした。

 本当はもっと順を追って、正式なルートで、侯爵の息子として恥ずべきことのないように。


 なのに、頭が真っ白になってしまった。


 両親には後から報告し、母上から勧めるように許可をいただいた。

 自分のことばかりで、他に何にも頭が回らなかったのだ。

 だから、その時父上の状態が良くないなど、考えもしなかった。





「ここまで、よく長生きしてくれました。これからはあなたが侯爵となるのですよ」


 母上は教えの通り泣くことなく、淡々としたまま私にそう言った。


 父上は病に倒れてから体調を戻しては登城し、また体調を崩しては屋敷で仕事をしと、そんな風にずっと騙し騙し侯爵を続けてきた。それでも弱っているのは私でも気付くほどで、いつか死んでしまうのだろうと思っていても、この年まで生きてくれていたから、まだ大丈夫だと思っていた。


 暴走の末の結婚の申し出は保留にしてもらっていた。


 エラフィーネに正式にプロポーズしたくとも、喪に服すためそれもできなかった。それに侯爵を完全に引き継ぐことになったからには、今まで以上の忙しさがある。

 侯爵という立場に慣れるまで時間が掛かるだろう。この件はしばらく保留にしてもらうしかないのか。


 母上はだからこそ伯爵家と縁を結ぶべきだと言った。それはそうかもしれないが、エラフィーネに苦労をさせたくない。

 そう悩んでいたが結局打診をした。機会を失ったら他の男に取られてしまう。ただそれだけの思いで申し出をしたところ、エラフィーネはすぐに侯爵家に来てくれたのだ。





「美しい方ですね。おめでとうございます。旦那様」

「ありがとう」


 エラフィーネはこちらを向いて、穏やかに笑う。不幸の後の幸福は、言葉では言い表せないほどのものだった。

 正視できないほどの美しさ。見てしまったら魂が抜けそうになる。

 緊張していつの間にか手を握りしめていることにも気付かない。


(こんなに、緊張するものなのか?)


 あまりに緊張して視界が狭まる気さえする。大きく息を吸って吐いて、部屋を出ようとすると、執事のアルバートが部屋をノックしてきた。


「旦那様、申し訳ありません。王宮から至急の連絡が」


 辺境で小競り合いが起きた。この騒動で侵略が行われる可能性がある。それを止めるために急いで出発しろとの命令だ。

 父上が病でこういった手合いの命令が侯爵家に来ることはなかったが、よりによってこんな日に始めなくてもいいだろうに。

 そうは思っても、命令は命令だ。私が行かなければならない。


 先ほど人生の中で一二を争うほどの緊張を持っていたのに、スッと頭の中が冷えて冷静になった。

 それに安堵したことを、私は後に後悔することになる。





 どこまでタイミングが合わないのか。自分の運のなさに呆れるほどだ。

 常に忙しい自分と、同じく忙しいエラフィーネ。二人の時間が重なることが少なすぎる。


「エラフィーネ! …コホン」


 声を掛けるのに裏返って、すぐに咳払いでそれを誤魔化す。声を掛けるだけで緊張してどうするというのか。エラフィーネは呼ばれて返事をしながら、私が話すのを目の前で待った。


「その、体調は、大丈夫か? 屋敷の仕事には慣れて…」

「エラフィーネさん!」

「はい! 今、参ります。すみません、失礼します。旦那様!」


 旦那様。最近エラフィーネは私をそう呼ぶ。侯爵家でそれが決まりのようになっているからだ。それに一抹の寂しさを覚えてしまう。それを言ったら馬鹿にされるだろうか。


 そんな心配が頭に浮かび、ため息しか出ない。

 エラフィーネの前では、私は幼い頃から何も成長していないのだ。


 エラフィーネがどうすれば喜ぶのか、いつも見ていた。花の好きなエラフィーネ。庭園の花を増やすように命令したが、庭園で一緒に散歩することもできない。

 子供の頃に彼女の後を追い掛けていたことが懐かしい。


「全く、情けないな…」





「第二夫人の動きが気になっていてな」

 殿下は休憩と称した散歩に私を連れ出して、誰もいないのを確認してからそう切り出した。


「すぐに調べます」

「そうしてくれ」


 第二夫人の動きがおかしい。ここ最近、彼女の宮に訪ねる者が増えた。ご機嫌伺いとしては何もないのに多すぎる。第二王子を生んでから積極的に交流を深めているのが、危険をはらんでいるのではないかと、殿下は心配をしているのだ。


 元々権力を欲していた令嬢だと聞いていた。女同士の戦いは熾烈で、彼女の若い頃には彼女絡みで令嬢が怪我をしたり領地へ閉じ籠もることがあったそうだ。

 ただ第二夫人の周囲で起きたことというだけで、第二夫人が行った証拠は出ていない。彼女が指示したのではないかという噂があったが、すぐに別の理由が見つかり彼女は冤罪だと言われた。


 けれど、きな臭い噂は常に残るものだ。

 それでも王の第二夫人の座に上れたのは、ひとえに彼女の美貌があったからだという。


(私にはさっぱり分からないが)


 殿下にそれを言ったら、お前は誰か以外みんなそうだろう、と鼻で笑われたが。

 世間一般では第二夫人のような女性を好む男が多いそうだ。

 そして、その娘であるシャルロット王女は、殿下と同じく、気兼ねなく多くの人に声を掛ける女性だった。


「ラファエウ様! お散歩なんて珍しいわ。こんなところで会えて嬉しい」

「王女殿下にご挨拶申し上げます」


 殿下と別れた途端出会うのだから、どこかで監視されているのだろう。第二夫人は王女と私を結婚させるつもりだったようだが、今でも王女と引き合わせるとは思わなかった。


 シャルロット王女は殿下と同じ空色の瞳を向けてきたが、雰囲気は第二夫人によく似ていた。値踏みする風はないが、何度も瞬きをしてこちらを見つめる目付きが猛禽類のように思えてつい身構える。


「お時間あるようなら、私とお茶でもいかが?」

「申し訳ありません。殿下より命じられていることがありますので」


 嘘ではないのだから、膨れっ面をされても困る。頭を下げてその場を去ると、次に別の面倒が降り掛かってきた。

 王の側近がここで何をしているのか。薄い白髪を後ろに流した、少々小太りの男が近付いてくる。


「これは、これは、ハーマヒュール侯爵。本日は陽気に散歩ですかな?」

「少しばかり、外の空気を吸っていただけです。ゴドルフィン侯爵こそ、こちらで何を?」

「ただの散歩ですよ。私も忙しいのですが、疲れが溜まってしまいましてねえ」


 何の疲れだと言うのか。最近は王の側近と言うより、第二夫人の側近に成り下がっているように思える。発言は常に彼女に有利になるようなことばかりで、殿下の足や私の足を引っ張るのが最近の仕事だろう。

 いっそ言ってやりたいが、この男と話している時間すら勿体ない。さっさと退散しようとすると、ゴドルフィン侯爵は池の鯉のように息苦しそうに笑い出す。


「王女様と随分仲が良いようですな。侯爵とはいえ、まだお若いですからな。あまりでしゃばらず。お茶でもされていた方がよろしいでしょう」

「今、勤務中ですから」


 相手にするのも億劫だ。近くで待っていた部下にあの男が何をしていたか調べるように指示する。

 何を企んでいるのか。どうせ碌なことではない。




 食事はできると言っておきながら、そんな時間に戻ることもその連絡もすることもできず屋敷に戻る。エラフィーネはそんな時間でも当然のように玄関で出迎えてくれる。


 眠っていていいのに。そう声を掛けたいが、侯爵の主人として必要はないと母上が口にするのが思い浮かんだ。


「ラファエウ、帰りが遅いところ悪いけれども、少し時間をちょうだい」

「は、分かりました」

 母上はそう言って父上の書斎へ入った。手渡されたのは金庫の鍵だ。


「この中の書類を読む余裕はありますか?」

「必要であれば」

「必要よ。早めに読んでおいて。分からないことがあれば私に聞きなさい」

「分かりました。—————あの、エラフィーネにはあまり無理をさせないようにしてください。元気がないように思います」

「侯爵の夫人ですよ。侯爵家を支えるのはあなただけではありません。お屋敷のことは彼女に任せて、自分のお勤めを果たしなさい」


 反論は許さないとピシャリと言われて、私は黙ることしかできなかった。

 この家を切り盛りしてきたのは母上だ。苦労されていたことも知っている。父上が倒れて不安を一番感じていたのは母上だろう。だから、侯爵の仕事を全て理解しているわけではない自分が楯突いても、簡単にあしらわれてしまう。


 エラフィーネは、そんな私と結婚したことを後悔しているのはないだろうか。それを聞くのすら怖い。


「くそっ。今は早く仕事を覚えて」

 とにかく自分の地位を確立しなければならなかった。城の者たちにも母上にも、誰にも文句を言われない立場に。


 それなのに、


「母上まで、私を置いていくのですか……」


 雨の中、母上の棺に土が被せられ、もう顔を見ることすら許されぬのだと言われているようだった。


『泣いてはいけませんよ』


「分かっています。分かっています、母上」


 でも、

(エラ。彼女の言葉が聞きたい)


 そう思ったら彼女の部屋に足が動いていた。一人にして欲しいと言っておきながら、エラフィーネの声が聞きたくて仕方がなかった。


「奥様、お疲れでしょう。ずっと大奥様の看病もされて。お屋敷のことも、たくさん…」

「大したことではないわ。旦那様の心情を考えたら……。お義母様に口止めされていても、旦那様にお伝えするべきだった。あまり長くないことは、分かっていたのよ……」

「奥様……。ですが、大奥様が秘密にされていたのですから……」

「旦那様に申し訳ないわね。お屋敷のことは、これから私が頑張らないと!!」

「奥様!! 私たちも手伝いますからね!! ちゃんと使ってください!!」

「うわーん、ありがとーっ!」

「奥様―っ!」


 エラのためにも、早く————————。


 私は働くしかなかった。多くの不正を見つけ、多くの貴族の取り締まる。冷えた空気の中、他の者の怯えた視線を気にすることもない。


「ここまでやるとは……」

「冷徹の侯爵だな」


 口々に言われる言葉など気にもならなかった。


 仕事をすればパーティの招待状がゴミのように届く。

 パーティの参加は義務みたいなもので、彼女に負担を強いたくない。適当な相手を連れ、行きと帰りを同じにするだけ。王女の牽制になればそれだけでいい。


 それなのに、王女はしつこく声を掛けてくる。


「今度は私のエスコートもしてくださいませ」

「私ごときが、とんでもないことです」


 あしらってもあしらっても、しつこく絡む雑草のようだった。





 ただずっと気になっているのは、数日屋敷に戻れないことが一層増えたことだ。いい加減家に帰らなければ。


 なんとか仕事を終わらせて久しぶりに帰った屋敷では、出迎えをするエラフィーネがじっとこちらを見上げてきた。咎める目ではなくとも、何を話せばいいのか分からない。


 考えている間に時間が過ぎていく。もう、どう声を掛けていいかも分からない。


「本日は外で皆で食事をしたんですよ」


 母上が亡くなる前からずっと顔色の悪かったエラフィーネが明るく言う。余裕ができたのだろうか。母上が亡くなり看護もなくなったため、彼女にもゆっくりする時間ができたのかもしれない。

 エラフィーネにとって大きな負担だっただろう。私は何も知らず、彼女に頼りきりだった。


 時間があるのならば、パーティに出席できるだろうか。明るい顔をしているのならば、無理なく参加してくれるだろうか。


 そう思って、アルバートにパーティに参加するかどうかを確認してもらった。


 そうして、パーティ当日。


(綺麗すぎて、直視できない!)


 パーティの参加が久しぶりなせいで、エラフィーネが美しく装うのも久しぶりに見た。そのせいで、緊張が一気に高まったとは口にはできない。


 いつもどうやってエスコートをしていたか、頭の中がぐるぐる回り、馬車へ乗るエラフィーネに手を差し出すのを忘れるなんて、どうかしている。


 話も何をしていいのか分からず、会話をどう始めるのかも分からなくなり、ただ頭の中をぐるぐる自分が走っているだけで、会場に着いてしまった。


(情けない。もう、直視すらできない)


 殿下は此れ幸いとからかってくる。事情を知らない同僚たちも珍しげにこちらを見ていた。

 周囲に挨拶をするため会場内を歩きながら、エラフィーネを妙な目で見つめる者たちを背にしていると、王女が一際歪んだ顔をしてこちらを睨んでいるのに気付いた。


(王女もいるのか…)


 隣で王女に声を掛ける者がいる。その男は頭を下げると第二夫人の方へ近付きながら挨拶もせず通りすぎ、きょろりと周囲を見回して、そっと会場を出た。


「エラフィーネ。重要な方に会うから、少し待っていてくれ」

「分かりました」


 エラフィーネの返事を聞いて、足早に先程の男の後を追う。どこへ行ったか、見回しても先程の男の姿はどこにもない。


「侯爵。夫人と一緒は珍しいですね。こちらに何かありましたか?」

 女性を連れた部下がこちらにやってくる。私はすぐに部下に耳打ちした。


「第二夫人の協力者らしき男がこちらに来た。相手はおそらくロスウェル卿だ。見なかったか?」

「いえ、私は部屋から出てきたので」

「殿下に他の者も動員するように伝えてくれ。私はこのまま男を探す」

「承知しました!」


 ロスウェル卿は武器の販売を事業としている男だ。第二夫人との繋がりはないはずだが、知らぬ間に付き合いができたのかもしれない。


 どこへ行ったのか。パーティ参加者が廊下を通るため、ロスウェル卿の姿は見えなくなっていた。空いている部屋で何かしらの会合が行われているのかもしれない。


 今日のパーティは第二夫人に関わりのある人ではない。秘密裏に集まっているのか、それを探る手立てもなかった。


「侯爵!」

「見失った。ここで何かするとは思えないが、集まりがあるのかもしれないな」

「そうですね。念の為、人を配置しますか?」

「数人残して後は戻れ。大きく動いて警戒されても困る」


 他の部下も戻ってくると怪しい者はいなかったと首を振った。何人かをもう一度調べに向かわせて、戻ることにする。殿下にはそれを報告するしかないだろう。


「…せっかく夫人とご一緒でしたのに」

 突如言われて、つい咳払いをした。殿下に近い部下たちは王女の件を知っていた。忙しいエラフィーネをパーティに同伴させたことに、興味津々と言う顔を向けてくる。


「とにかく殿下にご報告を」

「早く戻らないと。あれだけ綺麗な方ですから、色んな男が寄ってきちゃいますからね」

「余計なことは言わないでいい」


 やけに生暖かい視線が居心地悪い。部下たちをさっさと戻らせ、自分も戻ろうと踵を返そうとした時だった。ゴドルフィン侯爵と取り巻きの貴族たちがゆっくりとこちらに向かってきたのだ。

 その中にロスウェル卿はいなかったが、疑うには十分な集団だった。


「これは侯爵。何かありましたかな?」

「…怪しげな者を見掛けたため、追ってきましたが、どうやら間違いだったようです」

「それはそれは。パーティだと言うのに、お仕事熱心なことだ。それにしても、今夜はご夫人と一緒のようですな。久しぶりに見ましたので顔を忘れそうになってしまう。それとも別の方だっただろうか」


 ゴドルフィン侯爵の言葉に取り巻きの貴族たちがにやにやと笑い出す。話をするだけ無駄な会話をするつもりのようだ。

 下らない者を相手にしても時間が無駄だ。


「妻にも余裕ができましたので」


 そんな返事したくないが、エラフィーネを貶める言葉に反応するわけにはいかない。ゴドルフィン侯爵は王女を推している。私がエラフィーネと離婚した方がこの男にとっては都合が良いのだ。


 ゴドルフィン侯爵は意味のない会話を続けた。時間稼ぎのように思えるのは気のせいではない。部下たちが念のため調べ直しに行ったのは正解だったか。

 しかし、予定外の人が来た。王女だ。


 内心舌打ちした。これを待っていたのか。

 第二夫人が計ったのだろうか。どちらにしても話が長くなりそうだった。


「王女殿下にご挨拶申し上げます」

「今日は、随分と珍しい方がご一緒なのね」

「…家のことが落ち着いてきましたので、連れて参りました」

「仲が悪いのかと思っていたわ。皆そう噂しているもの」


 王女は言葉を包み隠す気もないと、遠慮なしに言ってくる。エラフィーネに喧嘩を売りたいようだが、それは私自身にも売ることになるのだが、分かっていない。


「ねえ、ダンスの相手をしてくださらない」

「申し訳ありませんが、まだ妻とも踊っておりませんので。それに、殿下への報告がございますので、ここで失礼させていただきます」


 はっきりと断っても王女は顔を顰めて眉を上げるだけで、納得する様子がない。話を続けろと言わんばかりに、ゴドルフィン侯爵たちは王女をこの場に残し、去っていった。


 この状態の王女を良く一人で置いていく気になるものだ。駄々を捏ねさせて、私が頷くとでも思っているのだろうか。それとも二人きりにして醜聞を広げたいのだろうか。


「ラファエウ! 報告はまだか!」


 部下が殿下を呼んでくれたのか、助け舟を出してくれる。

 ありがたくその場を去ると、エラフィーネは知らない男とダンスをしていた。その場所は私にとっておいてほしかったのに。


 けれど、彼女を一人放置したのは私だった。それをエラフィーネにあたり反論され、どうしようもないほど情けなくなったのだ。





 今度こそ挽回しようと買い物に行く話を耳にし、それに同行することにした。


 ドレスや宝石は幼い頃から興味がないのは知っているが、せめてそれくらいはプレゼントをしたいのに、やはり興味ないと髪飾りを購入していた。

 ならば別の店で挽回しようと思ったら、今度は邪魔が入る。


「侯爵様~!」

 なぜ、よりによってこんな時に、パーティの同行を頼んだ令嬢が偶然現れるのか。


「令嬢、手を離していただけますか? 街中で男性に気安く触るものではありません。令嬢の悪評となります」

 逃げられぬようがっしりと掴まれた腕を、私は振り払う。


 エラフィーネはどこへ行ったのか。馬車には乗らず探そうとすると、再び声を掛けてきた者がいた。


「ハーマヒュール侯爵。主人がお待ちです」

 声を掛けてきた男は私に封筒を渡してきた。それには見た事のある紋章で印が押されている。


「どうぞ、お乗りください」

 紋章付きの馬車ではないが、それなりに高価な馬車が停まっていた。それに乗るように促されて、その扉を蹴り付けたくなった。


 エラフィーネの姿はもう見えない。彼女は先程のことをどう思っただろうか。

 私では断ることのできない呼び出しに、黙って頷くしかなかった。


 相手は王弟だ。


「よく来たね。まあ座りなさい」


 王宮にある、植物園のような広いサロンに案内されると、男がテーブルでお茶をしていた。一人の男が食べきれないほどのケーキを前にして、のんびりとこちらを向く。


 王弟、バラデュール公爵。王太子殿下とは毛色の違う方で、ふくよかな体をした穏やかな雰囲気を持つ方だ。

 その方がなぜ私を呼んだのか。見当もつかない。

 席に座れば茶を勧められ、ゆっくりとした空気が流れる。


「あのような場所で呼び止められるとは思いませんでした」

「屋敷に向かわせる途中だったのだよ。運が良かったようだね」


 城から屋敷まで通る道でもなかろうに。バラデュール公爵は垂れた目尻を伸ばしたまま、鼻の下の髭に隠れた口元をにこやかに上げる。


「私を、お呼びになった理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「いや、なにねえ。何かと忙しくしている侯爵に労いをねえ」


 ほ、ほ、ほ。とフクロウが鳴くように笑ってくるが、労うのに偶然街に馬車を出したと言うのだろうか。

 おかしな状況に頭が追いつかない。バラデュール公爵は最近の私の仕事に関心があると言い、終えた仕事に褒め言葉を贈ってくる。しかし会話はそれに終始し、特に重要な話は出てこない。


 目的のない会話に気持ち悪さを感じた時、これを待っていたかとうんざりした気持ちを顔に出しそうになった。


「やあ、やあ。いらっしゃったね。珍しいお客さんが来たから、彼女たちもお呼びしたのだよ」


 呼ばれたと言うのは、第二夫人とシャルロット王女。まるで見合いのように同席し、王女は私の隣に座った。

 なんと言う面倒なことだろうか。


 王女のしつこさには舌を巻くが、第二夫人がバラデュール公爵に願ったことも意外だった。


(王弟を抱き込んだのか? それとも何も知らず手を貸したのか?)


 バラデュール公爵が第二夫人を推す理由が分からない。どちらにしても、さっさとこの場を去りたいものだ。


 結局、王女の相手をしながら食事を共にすることになり、その日の帰りは夕食の後になってしまった。


「遅くなってしまったな…」

 全くため息しか出ない。何をしようにも邪魔が入り、入らなくともエラフィーネの相手がまともにできない。情けなさすぎてうんざりする。


「お食事はいかがされますか?」

 アルバートに問われて食事を終えたことを告げると、座った目で睨まれる。


「エラフィーネは?」

 メイドのメアリに問うと、

「もう、お休みです!」

 きっぱり言われ、屋敷の者たち皆が怒っているのを感じた。


 怒って当然だ。勝手に付いていって、女性に捕まり、帰ってきたのが夕食後なのだから。

 何を言うでも、全て言い訳にしかならない。


 そうやって、結局私は自分自身が悪いと言いつつ黙ったままにして、エラフィーネと話そうともしなかった。そんなことばかりしていたから、罰が下るのだ。


 何もしないから。後回しにしてばかりだから。そんな私に呆れて全てを忘れたかったのではないだろうか。


 エラフィーネが記憶を失ったのは、全て自分のせいではないか。


 エラフィーネからの告白を聞いて、どうやって彼女に詫びればいいのか、けれど離婚だけは嫌だと子供のように駄々を捏ねるしかなかった。


 それなのに、


「だから、やり直しませんか?」


 記憶を失ってまで、どうしてそこまで、私を許してくれるのだろうか。





「言い訳ばかりをしたことは、がっかりさせたと思う」

「そうですね」


 エラフィーネはきっぱりと頷いてくる。容赦ないが当然なので何も言えない。


「実は、日記には恨みつらみを…」


 エラフィーネの言葉に心臓が激しく鼓動を打つ。


「書いてませんでしたけど」


 そう言って、うふふ、と笑ってくるあたり、人が悪い。いや、私が悪いのでその程度の意地悪など大したことではない。心臓には、かなり、結構、響くところはあるが。


 エラフィーネの記憶は戻らない。それを気にしているのだが、彼女はあっけらかんとしていて、でも忘れちゃいましたしね。と穏やかに笑う。


 その余裕がどこから出てくるのか。彼女はいつも大らかというか、神経が図太いというか…。それを言うと怒るのではなく、ラファとの思い出がないのは寂しいですけど。と人の心をくすぐることを言ってくる。


 記憶がなくとも、彼女は私を転がすのが得意だ。


「茶会など一人での参加は難しいとは思うが、少しずつ増やしていければいいのだが」

「そう言えば聞いた話ですが、オスカーの奥様にパーティとお茶会の面倒さを愚痴ってたみたいです。結婚前の話だそうですが。茶会などで噂話を聞くのが億劫だと。親しい友人なら良いそうですが」


 エラフィーネはそう言うが、参加したくても参加させていなかったわけなのだから、それとはまた違うだろう。私が参加していたパーティにも、エラフィーネが興味を持つパーティがあったかもしれない。


「幼い頃は、椅子にじっとしていたのを見たことはないが」

「あら、まあ。そうでしょうねえ。じっとしていられる自信が。今もあまり…。そうそう、それで、どうやら喧嘩を売ったらしいですわ」

「だ、誰に?」


 エラフィーネの突然の報告にぎょっとする。誰に喧嘩を売ったのかと思えば、まさかのあの人である。


「王女様に」

「は!? いつ!?」


「いつだったのかしら。結婚前でしょうけれど。そのせいで令嬢たちのお茶会やパーティに呼ばれなくなったそうです。それに対し、切り捨てられる相手が分かって良かったわ。と言っていたらしいので」


 結局のところ、行くこともなかったでしょうね~。とふわふわ笑いながら言ってくれる。


 エラフィーネは案外気が強い。王女相手でも対抗できるとは思うが、だがそれでも相手は王族である。

 しかし、王女がエラフィーネに対してひどく言うにしても、既にやり合っていたとは思わなかった。


「私にとって気にならないお話なのでしょう」


 エラフィーネは爽やかに笑ってくれる。確かに彼女ならば気にもならないのだろうな。と納得もできてしまうのが不思議だ。


「私と行くパーティは、楽しんでもらいたいものだが」

「あら。そうですわね。では、今日はよろしくお願いいたします」


 停まった馬車からエラフィーネの手を取り、パーティ会場へと入る。


 エラフィーネの記憶は未だ戻らない。だからこそ、過去を話し感じたことを共有し、そしてこれからの彼女のために多くを与えていきたい。今までの無くなった記憶よりもずっと良い思い出を。


 その決意を伝えれば、


「二人の思い出を増やしていくのはとっても良いですね」


 そう臆面もなく言いながら、少しだけ意地悪な顔をするので、私は彼女に一生転がされ続けるのだと、嬉しくも覚悟を決めたのだ。

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