第5話 エラフィーネから

「エラフィーネお嬢様。こちらがラファエウ坊ちゃんですよ」


 紹介された金髪の男の子は、髪の毛が生まれたてのひよこみたいにふわふわしていた。瞳は宝石のような色をしていて、じっと見つめると後ずさりをされた。


「大人しい方だそうですから、あまり無理はさせちゃいけませんよ」

「はあい」


 メイドにそう耳打ちされて、返事をする。ラファエウはどこを見ているか、ぼんやりとした瞳には何も映っていないように見えた。


 お人形みたいなラファエウ。お母様はこんなことを言っていた。


『お父様がご病気でね。おうちを継ぐのに、早く大人にならなければならないんですって』


 ラファエウは聞いていた通りとても大人しく、感情の発露が全くと言ってもいいほどなかった。子供心に心配になるほどで、何度か遊びに来ても何を言うでもなく、ただ後ろを付いてくるだけの反応の薄い子だった。


「森行こ。森」

「あねうええ、森、行っちゃダメって」

「内緒。内緒なの。行こ。ラファエウおいで」


 森と言っても庭園の一角にある木々の多い場所だ。オスカーとラファエウを連れて森でかけっこをすると、道を知らないラファエウが離れてしまった。

 心配するほど広くはないのだが、オスカーは置いていかれると大きく喚く。少し暗いところもあるので、幼い子供には恐ろしいのだろう。


 すぐにラファエウを探すと、木陰でぽつねんと立ち尽くしていた。

 何かを叫ぶわけでもなく、泣くわけでもない。首を左右に振って誰かを探しているように見えるがのんびりで、怖がっている様子はなかった。


 そう思っていた。


 ぎゅっと握られていた拳。足は力を入れているか少しだけ震えている。奥歯を噛み締めるかのように口をきつく閉じていた。


「ラファエウ!」

 呼んだ時、ぱっと瞳に明るさが灯ったように思えた。けれどすぐにそれは消え、静かに虚ろな瞳に戻ってしまった。


「怖くなかった? 泣かなかった?」

 問うと、ラファエウはこくんと頷く。


「泣かなかった。泣かなかった。いいこ、いいこ」

 オスカーにするように頭を撫でてやると、ぴくりと肩を動かした。


「でもね、泣きたかったら泣いてもいいんだよ。怖かったら、怖いって言っていいんだよ。でも、よく我慢したね。だから、いいこ、いいこ」


 そう言って撫でると、ラファエウの瞳に光が灯ったように視線が合った。

 輝くようなエメラルドグリーン。宝石のようで、目が離せなかった。


 ラファエウが遊びにくるたびに外に連れて行った。外で遊んだことがないのか、蛙に驚き湖に落ち、虫におののき木から落ち、犬に触れられず吠えられ尻餅をついた。


 表情が変わらない上に反応が薄いので分かりにくいが、驚いているのは分かる。

 その姿が何だか可愛くて、ついいつも頭を撫でていたら、少しずつ表情が和らいでくるのが分かった。


 それからラファエウとは遊ぶだけでなく、お茶をしたり勉強をしたり、ダンスの練習をしたりした。そうやって会う回数を増やしていく間に、ラファエウは私にだけ頬を染めて笑い掛けるようになった。





「来月からアカデミーに行かないといけないんだ」

「知ってる。ずっと忙しくなるんでしょう。寂しくなるなあ」


 遊び相手がいなくなる。そんな感想を持っていたが。ラファエウは違った。

 真っ赤な顔をしながら大きな花束を持って、片膝を折る。


「エラ。エラフィーネ。戻ってきたら、その。僕と、永遠を誓ってくれないか!?」

「いいよ」

「ほ、ほんと!?」

「これくれるの?」

「うん」

「ありがとう」


 見たことのない花を見て、嬉しくて部屋に飾った。何本かの花を使い押し花を作った。押し花はよく作り、ラファエウにもあげたことがある。ラファエウがよく花をくれるからだ。


「次会う時、このお花で作ったしおりあげよ」

 そう思いながら、ふと考える。


「永遠を誓うって何だろう………」





 さすがにデビュタントの頃にはその意味が分かっていた。厚めの本に挟まれた押し花はいくつもあるが、あの時にもらった花の押し花と言われた言葉を記して、しおりにして保存した。


「ほら、いらっしゃったわ。殿下と一緒にいる方。アカデミーでは優秀だったそうよ。王も一目置かれているとか」

「でも、王女様とも仲が良いのでしょう? 殿下とも仲が良いようだし、王女様とお約束をしているのではないの?」


 令嬢たちが誰の話をしているのか。耳をそばだてては時折その場から離れる。

 ラファエウがアカデミーに入ってから会うことはなく、手紙のやり取りを行ってはいたが、それも指で数える程度だった。


 厳しく躾けられたラファエウは次期侯爵として忙しい毎日を送っていただろう。アカデミーで学ぶ間、自分の屋敷にもほとんど戻らなかったと聞いている。


 久しぶりに会う幼馴染みがどのように成長しているのか。彼は私に気付くだろうか。私は彼に気付くだろうか。そして、あの約束を本当に覚えているのだろうか。

 楽しみ半分、不安半分。


「エラフィーネ、あそこにいるのが、ラファエウ様だよ。殿下と一緒にいらっしゃる」


 エスコートを頼んでいた従兄妹のセザールが、ラファエウを先に見つけた。いや、女性たちに囲まれている彼を既に視界に入れていた。


 そうであろうと思いながら、綺麗な格好をした令嬢に囲まれているのを見て、そこにいる誰もがラファエウにお似合いに見える気がして、半分の不安が一気に増幅した。


「あれ、こっちに気付いたのかな?」

「ちょっと、テラス行ってきます」

「エラフィーネ?」


 私がラファエウの隣にいて彼女たちの華やかさに劣らずいられるのか。彼に相応しい姿をして何の違和感もないのか。急に不安になった。


「エラフィーネ!」


 突然テラスに入り込んできた金髪の男性が、軽く息をせいて私の名を呼んだ。

 顔は昔と変わらないような気がするのに、全然違う。手足も長くなり身長も高くなった。


 大人の顔になったラファエウは、私の名前を呼んだきり、突然顔を赤く染めてきた。

 その顔が、あの時の顔に一致した。永遠を誓ってほしいと言った、幼い頃のラファエウと。


「……大きくなったね」

「あ、そ、いや。エラフィーネ、こそ」


 テラスに入り込んだ勢いはしおれて、ラファエウは焦ったように視線を逸らす。昔に比べて照れ屋になったのを見て、私はとても心が落ち着いてきた。


「あ、あの、子供の頃の、約束を……」

 本当にその話をしてくれるのか。私の心はずっと前から決まっている。


 今回エスコートをセザールに頼んだのは、ラファエウが王女との婚約があるのではと言う噂を聞いていたからだ。

 しかし噂は噂でしかなく、ラファエウの母親である侯爵夫人は、王女と現時点で諍いになるのを避けたいと考え、ラファエウが女性を連れることを避けさせた。父親である侯爵の容体が良くなく侯爵家の力が減っている中王女を刺激し、ラファエウが王女からの要請を断れなくなるのを避けるためだと、侯爵夫人から説明があった。


 別のパーティでラファエウに近付いた令嬢が、妙な噂で陥れられたからだ。


 デビューのエスコートをすれば必ず目を付けられる。そんな話眉唾物で、ラファエウが子供の頃の約束などただの戯言だったと考えているのではないかと、疑う心もあった。


 けれど、目の前にいるラファエウは、昔と同じ、真っ赤に照れた顔を見せている。

 しかし、


「ここに入ったの!?」

「ラファエウ様。どなたかといらっしゃるの!?」


 扉の向こうから令嬢たちの声が届く。令嬢たちが集まって扉を開くか開かないか相談しているようだ。そうして、誰かがそっと扉を開こうとした。


「何の話か分からないので、失礼しますね」

「え。エラフィーネ!?」


 令嬢たちがなだれ込んでくる前に、私はその場から立ち去ったのである。





「ああ、なんて馬鹿なことをしてしまったのかしら」


 屋敷に戻って、そんなことを後悔しても遅い。ラファエウがせっかく約束の話をしてくれたのに、なぜあんなことを言って去ってしまったのか。


「ついイラッと。イラッと……」

 そう思ってため息を吐く。結局私は嫉妬したのだ。たくさんの女性たちに追い掛けられているラファエウに意地悪をして、彼の問いをごまかしてしまった。


「手紙を、出したらまずいかしら。そうだ、いただいたお花と同じ押し花で、覚えていることを、アピール……。今から、やって、何を今更と思われない??」


 一人でそんなことを呟きながら悶々としていたが、結局ラファエウにその手紙は出さなかった。会って直接話した方が良いと思ったからだ。


 しかし、ある日、話は一変した。


「お葬式……?」

「亡くなられたのよ。お父様が」


 ラファエウのお父様が亡くなられた。それは突然でも何でもなく、侯爵夫人は覚悟をしていたと言っていた。ラファエウもそうだっただろう。幼い頃からずっと侯爵になるべく厳しく躾けられ、多くを学んできたのだから。


 だからと言って、悲しくないわけではないはずだ。


 雨の降る中、ラファエウは泣くこともなく、ただ侯爵が土に埋まっていくのを見つめていた。


(寂しい人。私が一緒なら、泣いてあげるのに。泣くことのできないあなたの代わりに、私が泣いてあげるのに……)




「約束の…、返事をし損ねてしまったわ。自業自得ね」


 愚かな真似をしたと反省している間に、ラファエウは侯爵として着々と仕事を進めていた。お父様にも教授を願い、連日通ってくることもあった。実の父親が亡くなって間もないのに、ラファエウは悲しむ間もなく働いている。


 そうして、その頃、ラファエウより結婚の打診が正式にあった。


「一度保留にしていたんだが、どうしてもと連絡があった。どうする?」


 お父様に問われて、二つ返事をした。


「私は、ラファエウの力になりたいわ」


(結婚式は派手にはしない、喪が明けたばかりだもの。花嫁衣装を着てこの人の隣にいられるのであれば幸せだわ)


 そうして、私はラファエウの妻となったのだ。





 侯爵家に入り、すぐに私の教育が始まった。

 厳しいと言われているお義母様だが、厳しいよりも、体力がある。


「お、奥様、大丈夫ですか?」

「お義母様、体力あられるのね……。私の能力値の低さも露呈してしまったわ……」


 くううっとハンカチを噛み締めたい気持ちいっぱいでいると、メイドのメアリが横で一生懸命応援してくれる。


「奥様、頑張ってください。後でお菓子持ってきますからね」

「うう、みんな優しい……。頑張るわ! ラファエウも遠くで頑張っているものね!」


 ラファエウは急な要請により辺境へと出掛けてしまった。戻りはいつか分からず、帰ってくる前にお屋敷の仕事を完璧にしたいところである。

 なんて、そんな風に甘く考えていたことを笑ってほしい。


(助けどころかお荷物になりかねない。頑張らなければならないわ!)


 お義母様の指導は確かに厳しかった。屋敷内のルール、帳簿の付け方、領内の事情、行っている事業などなど。だが、それら多くがお義母様の仕事で、一人でこれをこなしていたことに驚きを隠せなかった。


(侯爵の仕事もお義母様が行っていたのだわ。まだお城の仕事に慣れていないラファエウに配慮しているのね……)


 お義母様は分からないことがあれば聞けばすぐに詳しく教えてくれたり、理解が及ばなければ例を出して細かく教えてくれる。厳しいと言うのは確かだが、そこには優しさも混じっていた。


 それでも子供の頃のラファエウには負担だっただろう。優しさがあると分かるのはきっともっと落ち着いて年をとってからだ。


(損な役回りだわ……。そしてとても不器用ね)


「お義母様、申し訳ありません。少しヒント……。どうされました!?」

 聞きたいことがあって部屋に行くと、お義母様がソファーでうずくまっていた。


「いえ、何でもないわ。少し、差し込みが……」

「腹痛ですか? 今、お医者様を呼んで参ります」

「大丈夫よ。おさまったから……」


 お義母様は蒼白な顔をしていたが、大したことはないと医者を呼ばせなかった。質問を受け付けると言って、学ぶ範囲をその日に増やされた。

 悲鳴を上げながら部屋に戻ったが、この時私はお義母様を無理にでも医者に診せるべきだったのだろう。悠長に話を聞いて、自分のことばかりにならず、お義母様を気にしておくべきだったのだろう。


 次の日にはそのことを忘れてしまっていた。久しぶりにラファエウがお屋敷に戻ると聞いたからだ。


「お帰りなさいませ。旦那様」

 やっと戻ってきたラファエウにそう呼び掛けると、ラファエウは一瞬顔を強張らせた。


 何かまずいことでも言っただろうか。そう思ったが、おそらく呼び方に気付いたのだろう。ちらりとこちらを見て、何か言いたそうにして、けれどしょんぼりと部屋に戻っていく。


 旦那様と言う呼び方は、侯爵家の決まりみたいなものだそうだ。私もラファエウは名で呼びたかったのだが、お義母様に待ったをかけられてしまった。後で二人の時は名で呼ぶと言っておいた方が良いかもしれない。


 ラファエウはあまり本心を口にしない。できないと言った方が良いだろう。子供の頃より厳しく躾けられた影響で、感情を表に出せないだけでなく、発する言葉も自然に選ぶようになっているからだ。


 私の前だけは気にせず本音を言って良いのだが。けれど、それを彼にはっきり言わないと、ラファエウは分からないだろう。

 とは言え、ラファエウが私の前でだけ極度の照れ屋になることも知っていた。


(あの顔を見れるのは私だけの特権だものね)





「申し訳ありません、旦那様。月のものが……」

 一度タイミングを逃すと、驚くくらい同じことが起きる。


 ラファエウの仕事は忙しさを増し、城に泊まることが増えてきた。屋敷に戻っても遅くまで仕事をしていることがある。


「本日もお戻りになられないのね……」


 がっかりしても仕方がない。お義母様に頼まれた仕事を終わらせて、花が満開の庭園を眺め、庭いじりを羨ましげに眺める。

 それを振り切り、次なる学びを教授いただくのにお義母様の部屋へ行く。


「お義母様、いただいたお仕事終わりました」

「ご苦労様。さあ、そちらに座って」


 お義母様は新しいお仕事を教えてくれる。お義母様もラファエウと同じ感情を表に出さない方だ。だから、体調が悪かろうが、それを表に出すことがない。


 けれど、顔色が悪すぎる。


(医者には診てもらうようになったけれど、心労もあるでしょうし、侯爵が亡くなってから私がやってきて、休む間もないのはお義母様も同じ)


 このことをラファエウに伝えるべきか、私はずっと迷っていた。しかし、私もラファエウと話す機会が減っていた。


「あ、エラフィーネ」

「はい、旦那様!」


 つい声に喜びが出てしまった。声を掛けられただけで飛び上がりそうになるほど嬉しいのだから、私も初恋の相手と話しているような気分のままなのだ。


 だって、ラファエウもなぜか話すのに緊張しているのか、意味もなく頭をかき、頬を染める。


「あの、時間があれば、お茶…」

「エラフィーネさん!」

「はいっ! ただいま参ります!! ごめんなさい、旦那様!」


 ラファエウのもじもじ感に喜んでいる場合ではなかった。名を呼ぶだけで赤面するあの初々しさよ。幼い頃のままなのか。なでなでしてあげたい。などと、のんびり思っている場合ではなかった。私には時間がない。


(帳簿を全部確認して、お屋敷の年間日程と費用を頭に入れて。侯爵家に近い人たちや悪意ある者たちを記憶する。顔や性格。その派閥。それから、今日届いた手紙……)


「王女か……」


 ラファエウと結婚する前、王女から茶会に呼ばれたことがあったが、あまり気分の良いものではなかった。私のことは嫌っていると分かっていたが、あからさまに敵意を向けられるのはさすがに億劫である。


 届いた手紙は王女から。茶会への誘いだ。お義母様に相談した方がいいだろう。




「——————母上、エラフィーネとのパーティを——————」

「———また今度にしてちょうだい。重要なものはないのでしょう」


 部屋に行けばラファエウとお義母様が言い争っているようだった。ラファエウが私とパーティの参加をしたがっているのだろう。侯爵夫人としてパーティは必須みたいなものだ。だが、お義母様があまり良い顔をしなかったため、参加を見送ることが増えていた。


 屋敷内の仕事が多すぎて行く時間がないとも言える。実質その時間を捻出できないのだ。

 お義母様はどこか焦っているように思える。その雰囲気を感じたのはいつだっただろうか。


 不安で胸がいっぱいになりそうだ。まさかと思いながら、いや違うだろうとその不安を拭おうとする。だが、何を考えても、その不安を拭い去ることはできなかった。


「エラフィーネ。その、屋敷のことが、忙しいならば、お茶会やパーティは、出席しなくて……」

「分かりました。旦那様」


 数日して、ラファエウはお義母様に押し切られたことを、私に申し訳なさそうに伝えた。

 屋敷の仕事が多すぎることを気にしているのか、パーティや茶会に参加させられないことを申し訳なく思っているのか。どちらもだろう。


 しかし、お茶会もパーティも行かなくていい。私もそれでいいと思う。今は、とにかく早く屋敷のことを覚え、全てを把握し、ラファエウに役立つようにならなければならなかった。


 捕まえた医者にしつこく質問し、私はその答えを得ていたからだ。





「オスカー。奥様のご懐妊おめでとう。先を越されてしまったわ」


 結婚したオスカーのお嫁さんが子供を授かったと聞いて、私は少しだけ時間をいただいて実家に帰っていた。

 懐妊の知らせが来て実家には手紙と贈り物だけしようと思っていたのだが、お義母様が一度帰れば良いと許可をくれたのだ。


 お義母様なりに気分転換の時間をくれたのである。時間がないと言うのに、そういう優しさはさりげなく与えてくれた。


「姉上、お疲れですか……?」

「大したことではないのよ」


 疲れなど顔に出したくないのだが、お義母様のことを考えるとどうしても暗い顔になってしまう。そして、お義母様のことを考えてラファエウを思う。


 彼にはいつ伝えるべきだろうか。


「侯爵ですが、最近パーティに同伴されている方の話はご存知ですか?」

「同伴? ラファエウが?」

 私が問うと、オスカーは、やっぱり知らないんですね! と眉尻を上げた。


「パーティに同伴される方がいるんです。それも一人ではなく、何人かいて!」

 あのラファエウが女性をパーティに連れる。正直な話、信憑性がなかった。しかしオスカーは鼻息荒く怒りを表す。何度かその同伴する姿を見て殴りかかりそうになったそうだ。


「殴ってはいないわよね?」

「いませんよ。殴りそうになっただけで! 騒ぎになる手前で我慢しました!」

「……そのパーティに殿下はいらっしゃっていた?」

「え? そう、ですね。いらっしゃったものもありましたが……」

「その件については気にしなくていいわ。大したことではないから」

「大したことはないって! 姉上、もし浮気だったらどうされるんですか!?」

「侯爵に嫁いだことを後悔したことはないか?」


 側で黙って話を聞いていたお父様が口を挟んだ。立ち上がり激怒するオスカーを抑えて静かに問うてくる。お母様も心配げにしてこちらを見遣った。


「後悔などありません。忙しいのも今だけです。お義母様も、急なことが多く無理をなさっているので、私もそれに応えませんと」

「そうか。ならば、無理だけはしないようにな」

「はい。ありがとうございます」


 両親の耳にまで入っているのならば、社交界でも大騒ぎになっているのだろう。

 さて、どうすべきか。会うタイミングのないラファエウに聞くより、詳しく知っている人に聞いた方が良いだろうか。


「失礼かもしれないけれど……」

 私は手紙を書いた。お願いしか書いていないその無礼な手紙の返事は、一日も待たずやってくる。


「久しいな、侯爵夫人」

「お時間をいただき、申し訳ありません」

「構わない。どうせラファエウのことだろう」


 さすがにお見通しか。王太子殿下は私が何を言わずともメイドを下げ、護衛一人を残して警備も部屋から出した。


「単刀直入に申します。夫に女性の同伴を勧めたのは殿下でいらっしゃいますか?」

「直球だな。違うと言ったら?」

「申し訳ありません」


 殿下は少しだけ面白そうな、楽しんでいるような顔をした。いたずら好きの顔だが、一度目を伏せると真面目な顔に変わる。


「私が何人か紹介した。今のところは問題ないだろう。ただ、最近はそれが噂になってしまっているのは事実だ。夫人の忙しさもそろそろ緩むのではないのか?」

「今は、まだ。直接本人に聞こうと思ったのですが、タイミングが合いませんので、殿下にお伺いしたことをお詫びいたします」

「それは、こちらのせいでもあるな。王の側近が無理な仕事を渡してばかりだ。君たちの間に入り込みたいのだろう」


「王女様の件でしょうか」

「…どこから聞いたか?」

「私にも情報網はございます。幼い頃は、王もそのつもりだったとか」

「王は妹に甘いからな。だが、如何せんラファエウは真面目で一途だ。うまくいくわけがない。だが、あの幼い妹はそれがいつまで経っても分からないからな」


 王女がラファエウに横恋慕しようがそれはどうでもいい。困るのは彼女が権力者であり、第二夫人の娘ということだ。

 第二夫人に王子が生まれてから、王は第二夫人の宮へ足を伸ばすことが多いと言う。


「心配だろう」

(それはあなたも同じでしょうに)

 それは口にはすまい。


「殿下、お呼びでしょうか。エラフィーネ!? どうしてここに!?」

「来るのが早いな。心配する必要もないようだな」

「はい。お時間いただき、ありがとうございます」

「ラファエウ、今日はもういいから送ってやれ」


 私がここにいることを知らなかったラファエウが喜び半分の困惑の表情をしていた。その顔を見て苦笑する殿下もラファエウの微妙な表情に気付いてくれる人なのだろう。


(この方もお優しいわ。わざわざラファエウを呼んでくれて)


 ラファエウには殿下が味方に付いている。殿下もまた、ラファエウという味方が必要だろう。

 事が落ち着いたら、パーティや茶会に参加し、侯爵夫人としての役目を全うしなければならない。これはラファエウのためだけでなく、私自身の立場を確立するためでもある。


 予定より少し遅くはなるだろうが、それは仕方がない。今は自分が集中すべきことに集中するのだ。

 そう決心した矢先だった。




「お母様! オスカー!」

 それは、突然のことだった。


 お父様が、事故で亡くなったのだ。馬が暴れ馬車が突っ込んだ先に、お父様の馬車が停まっていた。ただそんな、タイミングの悪い偶然。


「エラフィーネ……」

 ラファエウは真っ暗だった部屋の扉をそっと開き、憂い顔をこちらに向けていた。


(ああ、そんな顔をしないで。あなたも同じ思いをしたでしょう。それに、これから……)




「母上、エラフィーネの体調も考えてください!」

「分かっているわ。けれど、覚えなければならないことなのよ」

「そうだとしても、もう少し彼女に余裕を—————っ」

「旦那様。私は大丈夫です。お仕事にお戻ってください」

「エラフィーネ…」


 二人の喧嘩は何度目だろうか。それを途中で止めると、ラファエウは傷付いたような顔をして部屋を出て行った。

 せっかく庇ってくれたのに、お礼ぐらい言えば良かっただろうか。


 けれど、今はこの人の方が心配だった。


「お義母様、顔色が悪いです。少しお休みになった方が」

「…それは、あなたのことでしょう」

「私は問題ありません。健康だけが頼りで」


 そうは言っても、確実に疲労は溜まっていた。

 お父様の突然の死は私の心にぽっかりと穴を開け、それを補うために侯爵家の仕事に邁進したからだろうか。いいや、それだけではない。


「奥様、大丈夫ですか? あの、無理はなさらないように」

「ありがとう。大丈夫よ。それより、旦那様は?」

「今日もお戻りにならないそうです」

「そう……」


 ラファエウに礼も言うこともできず、擦れ違いは増えていく一方だ。

 私を心配してくれているからこそ、お義母様と言い合いになっていたのに、私がそれを拒否した形になってしまった。


 それからだろうか、ラファエウは私に対しぎこちなさが増したように思う。

 ラファエウの忙しさも減る様子はなく、ラファエウとは会話という会話も難しくなってきていた。


(ラファエウの体も心配だわ。お義母様も……)


 それから、お義母様は少しずつベッドにいることが増えてきていた。ずっと無理をしてきたのだろう。


「その手紙をとってちょうだい」

「こちらですか?」

「私に何かあったら読むように」


 お義母様は既に封がしてある手紙を用意していた。何かあったらとは、そのままの言葉である。私はぎゅっとその手紙を握った。


「長くないことくらい分かっているのよ。だからあなたも私に付き合ってくれたのでしょう」

「お義母様……」


 無理をしなければならないほど、お義母様の時間が少ないことは分かっていた。

 医者に無理に吐かせた事実は、到底受け入れられないものだったが、お義母様が私に侯爵夫人として必要なパーティや茶会への参加を認めないほど余裕がないことを考えれば、すぐに分かる話だったのだ。


「ラファエウは子供の頃からあなたのことばかりで、あなたに夢中だったのよ。だからあの子のためにもとあなたを娶るよう勧めたの。けれど、それはあなたにとって悪い夢のようになってしまったわね…。結婚してからあなたたちはほとんど会話もなく、ラファエウは私に怒る割に、あなたと二人でいる姿などとんと見たことがない。それに、あなたが行けないからと、パーティには別の女性を連れているとか…」


 どうやらその話はお義母様の耳にまで入っていたらしい。さすがに情報は得ていたか。私はつい苦笑いをする。


「お義母様。旦那様はしっかりとお勤めしていらっしゃいますよ。ただ、私のことに関しては、あの方は極度のヘタレなのです。あと女心も分かっておりません。それも昔からですので、慣れてますわ」


 他の女性の心などお構いなしだと分かったのは最近だが、私に対するヘタレ具合は昔からだ。あまりにヘタレすぎて呆れることもあるが、それも慣れた。


「それに、幼い頃の私にプロポーズができたのですから、そこまでヘタレでもないんですよ。これからでも修復は可能ですわ」

「あなたは、息子にはもったいなかったのよ。侯爵家のためと言ってあなたを不自由にするべきではなかったわ。あなたを結婚相手として勧めたことを、後悔しているの。今更なことね…」

「お義母様が教えてくださったことが無茶だとは思っておりません。体力だけが取り柄だと思っていたのに、お義母様についていけない時はどうしようかと思いましたけれど。お義母様、安心なさってください。私は、旦那様を大切に想っておりますから」


 私がそう言うと、お義母様は複雑そうな表情を浮かべながらも、静かに微笑んだ。





 その日は、雨が降り続いていた。

(あの日の雨みたいだわ)


 ラファエウは涙も流さず、立ち尽くしていた。お義母様が土に埋められて、皆が帰った後も、傘をささずにただ立ち尽くしていた。


(侯爵様が亡くなった時も同じだったわね)


 泣くなと言われて、本当に泣かないで、ずっと我慢して。泣いて構わないのよ。そうやって全てを我慢しなくていいの。




「お義母様。こんなもの必要ないのに……」


 手紙にはラファエウとの離婚を許す旨とお金や土地の譲渡がしっかり書かれている。

 迷うところなく書いているあたりが、お義母様らしい。


「皆、離婚した方がいいと思っているようだけれど…」


(もじもじして。極度の照れ屋でヘタレなのよ。私の前だけは。お義母様の手前、突っ込まないようにしていたけれど、お義母様もあの人も、ひどく不器用で、可愛らしいのよ)


 お義母様が亡くなって間もないのに、ラファエウは休む暇も与えられず城に滞在する時間が増えた。

 殿下からお義母様が亡くなる前に届いた手紙を片手に、私は一つ息を吐く。


『君に義母の世話を頼んでいるからと、馬鹿な遠慮を続けているようだ。もう限界のように思う。はっきり注意しておくべきだろう』


「殿下の忠告を聞いて、もっと早く動けば良かったかもしれないわね」

 そうであれば、ここまでこじれなかっただろうか。


「奥様。旦那様がやっとお戻りに」

「今、行くわ」


 疲れた顔をしたラファエウ。もう話をすることもできなくて、目が合えば皆に分からないような情けない顔をして視線を背ける。


(確かにバカな遠慮ね)


 ヘタレがすぎて、もう何をしていいのか分からなくなっているのだ。忙しさにかまけてラファエウを放置しすぎたか。

 とはいえ、ラファエウももう少し関係をどうにかしようと努力して欲しいものだが。


(あなたが重荷だと思っていることは、私には大したことではないのよ。それよりも言うことがあるでしょう。私は侯爵家と結婚したわけではなく、あなたと結婚したのよ)


 けれど、私と会話をしようとしてこなかったのは問題だ。


「ただ話すのでは駄目ね。ここはがつんと懲らしめないと。離婚すると脅すのもいいかもしれないわね」

 握り拳をつくり、私は口にする。


「殿下に相談する暇があるならば、私にお話しなさいとしっかり言いつけないと!」


 いつも書いている日記に挟んだしおりには、幼い頃貰った花の押し花と私が記した文字がある。

 この言葉に変わりはないわ。


(ねえ、私たち、何の話もしていないのよ)


 お互い思い遣るつもりが擦れ違いだらけで、本当にどうにもならなくなったらどうする気なの。

 けれど、私も同じ。私も話す努力をしなかったわ。忙しいからとお互い思い遣るふりをして、問題を後回しにしたの。私たちはどちらも間違えてしまったのね…。


 私たちはお互いに言い合う必要があるのよ。


「さ、帰ってきたらがっつり言うわよ。うふふ。楽しみだわー」





「きゃあ! 奥様!」

「誰か、来て!!」

「奥様! 医者を!! 誰か、早く!!」


 みんなが私を呼んでいる。一体何が起きたのかしら。


 ああ、ラファエウ、私、あなたに言いたいことが……。

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