お年玉

お年玉

 パシッ、という音がした。すき焼きがぐつぐつと煮えている。

「泣いていいなんて言ってねぇだろ!」

 そう言われてもなぁ、と思いながら、涙を見せないようにほっぺたを押さえてうずくまる。叩かれたところがジンジンする。

「ごめんなさ⸺⸺」

 言い切る前に、父さんの足が脇腹に飛んできた。

「うぇ……げほごほっ」

「チッ、はぁ…汚ねえな。片付けとけよ」

 父さんはそう吐き捨てて、ドタドタと音をたてながら自分の部屋に帰っていった。

 床に、微妙に赤が混じった吐いたものが広がっている。脇腹とほっぺたを抑えてフラフラ立ち上がり、痛みを我慢しながらビニール袋と雑巾で掃除を始めた。目の前の汚れと一緒に、暗い気分と向き合う。今日は、今日こそは、父さんに怒られないようにしようと誓ったばかりだというのに。

 せっかく汚れを拭き取った床に、涙が落ちた。


     ***


「さむい⸺⸺」

 あのあと、父さんが戻ってきて急に外に出された。いつもなら天気がいい夜に出されるのに、今日は雪が降っている。あぁ、僕は相当父さんの機嫌を悪くしてしまったのだな、と落ち込んだ。頑張って父さんの好きだったご飯を作っておいたのに、なんでダメだったんだろう。

 今日は大晦日だから、母さんがいつも作ってくれていたすき焼きを作ったのに。いつもみんなで一緒に食べていたのに。

 父さんは、母さんがいなくなってから変わってしまった。いや、父さんが先に変わったのかもしれない。どちらが先かなんて僕には分からないが、母さんが出て行ったあの日は世界で一番悲しい日だった。

 僕を抱きしめて、ごめんね、必ず迎えにくるから、と言ってくれたのに、母さんはまだ来てくれない。

「……母さんに会いたいなぁ」

 ぶり返すほっぺたの痛みを感じながら歩いていると、除夜の鐘が聞こえてきた。ふと思いついて、感覚が無くなり始めた足を動かし近くの小さい神社に向かう。いつも時間を潰す神社で、初詣をしようと思って。


     ***


 神社に近づくにつれだんだんと雪は止んでいった。次第に、雪の無い石段が月明かりでキラキラと輝きはじめた。


 他の参拝客は、なんだかいつもより少なかった。初詣はもっと有名な神社に行くのだろうか。階段を登って、すっかり冷え切った足を温めようと境内の木にもたれて座ると、小さく除夜の鐘の音が聞こえた。

 境内の時計を見上げると、もうあと一、二分で年が変わる。

「初詣……お願いごと、何にしようかな」

 少し考え、頭に浮かんだのは母さんの笑顔。

「あぁ、そうしよう」

 頭の中で母さんが笑っていたほんのわずかな間だけ、父さんの事を忘れられた気がした。母さんが最後にあんな風に笑ってくれたのはいつだっただろう。……思い出せない。悲しさを押し殺して笑顔を貼り付けて、先程よりかは温まった脚を伸ばし小さな社へと向かう。

 ちょうど社に着くと、最後の除夜の鐘が鳴った。

「……あけまして、おめでとうございます」

 そう呟いて、二回礼をし、二回手を打って、長く深く一礼する。最初に父さんから教えてもらったんだっけな、と思いながら目を閉じた。


   母さんが、僕に会いに来てくれますように。

   ……それから、父さんを怒らせない僕になれますように。


 母さんに会いたい。父さんに、怒られないようになりたい。二人には、ずっと笑っていてほしい。強く、強く願った。

 目を開けて身体を起こす。突然風が一際強く吹き、しゃわしゃわと木が鳴る音に混じって鈴の音が聞こえた気がした。


     ***


「父さん、許してくれるかな……」

 あまりにも眠いのでもう寝たいところなのだが、家に入ることが怖い。どうすればいいのか分からない。父さんはもう寝ただろうか。

 いつまでも神社に文字通り居座るのは気が引けるので、初詣も済ませた事だし出よう、と立ち上がる。階段を降りていくと、雪がちらほらと降りはじめた。さっき通った時よりも温かくなった脚を動かして家へと向かう。

 最後の角を曲がると、うちの家に明かりがついているのが見えた。少し期待していた分、落ち込んだ気持ちが大きい。あぁ、父さんはまだ起きているのだ。晩酌でもしているのだろうか。寒いので早く中に入りたいが、お酒が入った父さんほど怖いものはない。

 家の横の隙間から隠しておいた段ボールと新聞紙を取り出して、段ボールだけ道路の反対側に広げて座った。新聞紙を脚に掛けて、膝で手と一緒に挟みこむ。こうすると、脚も手も温かいのだ。いつものように段ボールと新聞紙に感謝しながら、家の電気が消えるのを待つ。

「父さん、早く寝ないかな」

 膝に顎を乗せて目を閉じる。

『……舞生』

母さんの笑顔と僕を呼ぶ声を思い浮かべたら、心があたたかくなった。


     ***


「……おねが……起き……まお、舞生!」

 どうやらいつの間にか寝ていたようで、母さんが僕の名前を呼んでいる。……よくできた夢だこと。この夢を終わらせたくなくて、目を閉じたまま応えた。

「……なぁに、母さん」

 母さんの声は、なぜか心配と涙が混ざっているように聞こえる。

「舞生! よかった、起きてくれたのね! あなたがあまりにも冷たく座っているから、もう……」

 急に誰かに抱きしめられた。僕は驚いて目を開ける。

「舞生、遅くなってごめんね。ただいま。お父さんから守ってあげられなくてごめんね。一緒に、お母さんのところで暮らそう」

 まさか、本当に、母さんが迎えに来てくれた。僕はそれだけでどうしようもなく嬉しくて嬉しくて、母さんが触れているところがあたたかくてしょうがなくて、母さんに抱きついて大声で泣いてしまった。

「母さん、母さん、おかえり!」

 雪なんて、とっくのとうに止んでいた。


     ***


 そのあとは、驚くくらい早かった。母さんの味方だよ、と話してくれた、黒いスーツに金色のバッチを付けた男の人が父さんに話をつけて、僕の持ち物を全部まとめてくれた。そのすぐあとに母さんと車に乗って、知らない場所に引っ越しをした。

「もう大丈夫。お父さんに会いたかったら、もっと大きく大人になるまで待ってね」

 母さんはそう言って頭を撫でてくれる。母さんが家から出ていくずっと前の、あの笑顔で。

「……そうだ。お母さんね、新しいお父さんと結婚しようと思うの。舞生も会ってみてくれる?」

「……うん。ねぇ母さん、新しい父さんってどんな人なの?」

 母さんが、少し恥ずかしそうに答えてくれる。

「そうねぇ、とっても優しい人よ。お母さんのこと、大切にしてくれてるわ」

 母さんは幸せそうに笑っている。父さんには、もう見せないような笑顔で。きみのお父さんとお母さんはもう家族ではいられなくなったんだよ、と黒いスーツの人が言っていた。

「本当に、もう父さんとは家族でいられないの?」

 母さんの顔が曇る。

「……えぇ。無理よ。お母さんも舞生も大切にしてくれないなら、あの人とはもう家族ではいられないわ」

「そっか……母さんは、母さんと僕とその新しい人とで家族になりたいの?」

 母さんはうなずいて、僕の頭をもう一度撫でた。

「そうよ。大切にしてくれる人と、あなたと、一緒に幸せになりたいのよ」

「……僕、その人に会いたいな。新しい父さんに会いたい」

 僕がそう言うと、母さんは嬉しそうに返事をしてくれた。

「ありがとう、舞生。あぁ、本当に間に合ってよかった……生きててくれて、ありがとうね。一緒に幸せになろうね」

 母さんはそう言って、僕を強く抱きしめた。




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