洗冤集記―死体は嘘をつかない。南宋検屍官の事件簿―

ジーン

第1話 蠅が犯人を教える その1

 南宋の洪州路こうしゅうろ南部に位置する宿場町。美月メイユエは、その町の最も格式高い宿屋の、朱塗りの大きな扉の前に立っていた。


 七月の炎暑は建物の内にも容赦なく、彼女は額から流れた汗を拭った。それと同時に自然とため息が出る。なぜ自分がこの装飾が施された扉の前にいるのか、わからなかった。記憶がないわけではない。むしろ記憶ははっきりしている。


 彼女はつい先日まで、宿敵・きんとの国境、淮河わいがのほとりで、女真族じょしんぞくの騎馬隊と戦っていた。世の男性には引けを取らない屈強な体躯を活かし、彼女は常に前線に立っていた。一四歳で初陣を迎え、それから七年間常に戦い続けた。数多くの北狄ほくてきを屠り、数えられないほど矛を振るった。


 しかし、終わりは突然に訪れる。先の大きな戦で彼女はついに負けてしまった。鎧を割られるほどの斬撃を受け、顔にも大きな傷を負った。そしてそれは、彼女の兵としての道を絶った。その傷のせいで彼女は右目の視力を失い、軍籍を解かれることとなった。


 一か月生死を彷徨い、生還した彼女に告げられたそれは、生きる希望を彼女から奪った。未だに「故郷に帰り、朝廷からの賜金で静かに暮らせ」と告げた将軍の苦い顔が頭から離れない。重文軽武の世にあって、顔に傷を負った女将の居場所は、もはや軍にはなかった。男が見上げてしまうほどの体躯、そして体と顔の傷。好奇と畏怖の眼差し。家族のいない美月は、おそらく誰からも娶られることなく一人で暮らすことになると思われていたのだろう。実際故郷に帰るとその通りだった。腫れものに触るような扱いを受け、一日中することもなかった。


 しかし、そんな生活も長くは続かなかった。ある日突然、都・臨安府りんあんふから使者が訪れ、ある高級官僚が美月を登用したいと伝えた。そして、日時と場所を指定してきた。それが今美月が立っている場所である。無気力に過ごしていた彼女は、この話に少し興味が湧きここまで足を運んでみたが、あまりにも胡散臭すぎる。そもそも何故彼女を選んだのか。他にもいくつか疑問はある。扉を開けるべきか悩んでいた。


 美月は一度目を閉じ、意を決した。ここで開けずに帰っても、無気力に消費される人生が待っているだけだ。ならばここで、少しでも有意義な人生に変われるのであればなんでもいい。気に食わなければ殴り倒して帰ろう。


 彼女は扉の前で名乗った。それに対して男の声が中から聞こえた。


 扉を開けた先には丸いテーブル、そして四脚の椅子があった。部屋の内装は豪華といえるが、装飾され過ぎているわけではなく、過ごしていても落ち着かないということはなさそうだと美月は感じた。彼女を招き入れた声の主は見当たらない。部屋の衝立の奥から呼ぶ声がする。衝立の奥をのぞき込むと、美月が三人ほど余裕で横になれるほどのベッドの上に大の字に仰向けになっている男がいた。彼は首だけを上げ美月の方を一度見た後再び体の力を抜いた。


「やっときたか。もうあきらめて帰ろうかと思ってたよ」


 そうため息交じりに言った男が美月を呼んだ張本人。南宋の提刑官である宋慈そうじである。


「指定された日時通りのはずですが」


 美月の声にもため息が混じる。新たな人生に少し期待した自分に落胆していた。おそらくこの男は私の人生に有意義な変化は与えられない。


「なぜ私のような者が呼ばれたのでしょうか」


「僕のことを科挙を通り抜けた官僚だと理解しているはずなのに、態度も声色も取り繕わないところを見ると、君について語られている武勇伝は本物みたいだね」


 宋慈はそう言って体を起こした。美月はさすがに態度が失礼過ぎたかと少し姿勢を正した。


「別にかしこまらなくていいよ。僕はあまりそういうの気にしないし。あ、呼んだ理由だっけ」


 宋慈はそういうとベッドから出て丸いテーブルへと向かった。美月もその方を向く。


「君が戦場で数多くの屍と向き合ってきたこと。そして女性であること。僕が検屍の仕事で求めていたのは、まさにその両方を備えた人物だ。君が戦傷によって退役したと聞き、声をかけたまでだよ。」


 宋慈はそういいながら椅子に腰かけた。気になって聞いた理由だったが、謎が深まるばかりだった。そもそも、この男の官職は何なのか。なぜ死体と多く向き合った経験が必要なのか。そして、なぜ女性でなければならないのか。体目当てではないだろう。純潔ではあるが、こんなにも傷がひどい上に自分より屈強な女性に無理強いするほど宋慈は頭の悪い男には見えなかった。


「納得いってないって顔してるね。まぁ、一緒に仕事してればそのうちわかるさ。冤罪を恐れ、この国では検屍の厳格化が急務なんだ。それは追々話そう。さあ、とりあえず都・臨安へ向かう。身支度は整っているからね」


 そういって宋慈は立ち上がろうとした。


「いえ、まだ承諾したわけでは……」


 美月はまだ自分の気持ちが決まっていないことを伝えようとしたが、その時、突然入口の扉が勢いよく開かれた。大きな音につられ、宋慈と美月は音の方を見た。そこには息を切らし、肩で息をする男が立っていた。

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