気にしぃしぃ

丸膝玲吾

第1話

 目線がチラチラ動く。普段、他者と触れ合わないので近くに息を吸っている同族がいるだけでそちらの方へ向いてしまう。異性だと尚更だ。つい視線を送ってしまい、その後に自分の醜さを顧みて辟易する。図書館で勉強をしているときは大体パソコンを開いている。パソコンに授業資料が入っているからなのだが、その状態で目の前に人が座ったとき、特に異性が座ったとき、間接的にそちらに視線を送るような形になる。先ほど目線がチラチラ動いてしまうと書いたがそれは常時そうなっているわけではなくて実際は失礼だから見ないようにしているのだけど、パソコンの画面を見るとき、相手から見れば自分の方をチラチラ見ているように見えてしまうのではないかと気にしている。そのことが気になるとパソコンの画面をあまり見れなくなってしまったり、首の自然な動かし方を忘れてしまってひどくぎこちなくなる。今も目の前に異性が座っていて私の視線、体の動きはとても不自然になっている。相手方が不快になっていないか心配だ。明日から期末テストだし、相手は眼中にないのかも知れない。席を立とうか迷うけど図書館は満員なので席が空いているかわからない。このまま勉強を続けていこうと思う。

 立ち止まりたいと思う。人生そんなときもある。私はこれまで順調だった。無風を快活に進む船であった。苦難に立ち向かうのは初めてではないが、ここまでわかりやすく失敗したのは初めてだ。家の事情とか精神的な問題でやられたこともあったがそれは外から見ればなんともないので極端に内部の問題だった。しかし今は違う。私は目に見えて谷を転げ落ちている。暗闇の中で泣いている。友人や人と出会ったときは気丈に振る舞ってしまうがそれをやめようと思う。友人と遊ぶのは楽しいから気丈に振る舞おうとしなくても日頃の鬱憤を忘れてしまうことも多々あるが、たまに順調に生活しているか聞かれた際に口篭ってしまいはぐらかす。今度は真正面から伝えてみようと思う。今が辛いと。

 なるべくこのサイトに投稿するときは、なるべくではなく必ず、小説にしたいからこれを私小説という形にしたいのだけどどのようにすればいいのかわからない。私小説は何を持って私小説なのだろうか。小説と名乗りさえすればあとは勝手にあちらが判断してくれるのだろうか。別に私小説ではなくてよくて小説としての形を保ってくれればいいのだけど。とりあえず宣言しておこうか。これは小説である、と。

 早く期末テストが終わって欲しい。自分の好きな学習をしたい。世の中には留年したり孤独であったりニートであったり就活失敗したりしてもヘラヘラしている人種がいるらしい。本当に人間は似ているようで全く違うのだなと思わされる。私は自分がこのような状態であることにひどく恥じているし親に本当に申し訳なく思う。この感情を克服したいかと問われればそうは思わない。この感情を利用したいと思う。大学生活はあまり楽しいものではなかった(過去形にするのは間違っている。私は現在も大学生であるからだ。結論を出すのは早い)がその苦しさに見合う見返りが欲しいのだ。このような感情を持っている人らは多くいるだろう。将来TikTokや学校の講演会などで詩の授業をしたい。辛い状況にある人たちに必要なのは吐き出し場である。自分の持っている全ての感情を吐き出し肯定される場が必要である。なるべく別の人の詩を紹介したい。いろんな人の詩を紹介して彼らの感情を供養したいと思う。直接的な支援ができると良いな。

 そろそろ創作対象が終わる。第一話と構想しか書いていないから書かなければなと思うが手がすすまない。正直熱が冷めてしまった。選ばれても書ける気がしない。あの漫画は青春へのアンチテーゼとして書きたい。この世には青春讃美歌が溢れすぎている。日本のアニメは青春物語が多いが良い加減飽きた。私たちは大人であり大人に生きる。青春に惹かれるのはわかるが青春というのは大人たちが作り出した幻想である。そんなものはなかった。存在しなかった。存在しないものに囚われている(しかしその負の感情を利用して物語という存在しないものを作り出すのだから結局は自分に返ってくるが)。”青春”を過ごした大人の物語が書きたい。大人に真摯に向き合いたいし彼らの応援がしたい。そんな物語を書きたいのだが中身が思いつかないから良くない。夢を追うこと、大人になることをテーマに書ければ良い。

 勉強を再開する。

 ずとまよを聴きながら勉強したが全く頭に入ってこなかった。私が受けるテストは二つのみ。それ以外は全て受けない。夏休みが終わった時に向き合うことに逃げていた罪悪感と後悔が押し寄せてくるだろうがそれを乗り越えたい。親に会うのが億劫になるだろうが仕方がない。家族のことをあまり書きたくないのでここら辺にしておこうと思う。なぜ書きたくないのかといえば親は自分たちのことを言ってほしくないからだ。このことさえもいうべきではなかったかもしれないが仕方がない。ふと小学生の頃に親に言われて上の会に住む友人宅に出向いてうるさいと苦情を伝えたことを思い出した。その友人とはその後も仲良くさせていただいた。ただそれだけだ。

 全て自分の身に入れたいと思う。知識とか筋力とかそういうものを全て肉体のうちにとどめておきたい。身軽になりたい。家からものを無くして自分の中に入れることができればいいとしばしば思う。まずは本。本を全て肉体のうちに留めておこうと思う。 

 私は体毛が濃い。そのことを恥じているが脱毛しようとは思わない。なぜならその風潮、ルッキズムに抗いたいから。私そのものがルッキズムのような精神をしているのから自己嫌悪なのかもしれないが頻繁に流れる脱毛を推奨する広告に苛立つ。私はこうやって生まれたのだ。体毛が濃く生まれたのだ。仕方がないではないか。お金も時間もかかるし無理に脱毛しなくていいではないか。私の棚の中には除毛クリームがある。それはルッキズム、脱毛サロンへの敗北と思われるかもしれないが違う。これは輝かしい勝利である。私は今選ぶことができる。除毛するか、しないか。そして今はしていない。これは私なりの脱毛サロンへの挑戦なのだ。気になるなら除毛してもいいと思う。これを友人に見られるのは恥ずかしいが。私は自分が身なりを気にしているのを友人などに知られるのが恥ずかしい。21にもなって思春期真っ只中であることも恥ずかしいが、それ以上に恥ずかしいのだ。身なりを気をつけてそれなのか、変わったな、つまるところモテようとしているのか、と思われるのが恥ずかしいのだ。性への過度な羞恥心が関係しているかもしれない。孤独と性への渇望は比例すると坂口安吾はいったが全くもってその通りだ。性への羞恥心を感じる一方で孤独ゆえの性への渇望が募っていく。早いところそのどちらかを解消しなけらばならない。

 私は人と付き合えるのだろうか?今マッチングアプリをしているが全くもってうまくいかない。写真がはまだ改善の余地があると思うのだけど何せ取ってくれる人がいないから困る。夏休み中に観光客を装って近所の神社で写真を撮ってください、というしかないと思っている。やはり人と付き合うということはハードルを一つ越えなければならないから一定の努力が必要なのだろう。髪も改善できる気がするが私はできれば坊主がいい。人と付き合った後に坊主にしてみようかな、と思う。

 私がSNSを触ってしまうのは日頃抱えている漠然とした感情の正体がどこかに落ちているのではないかと期待しているから。これだけ情報に溢れていれば自分の抱いている感情の正体、そのヒントがあるのではないかと期待しているのだ。現にそういう経験を積んだということもあるだろう。この時私がそのように感じていたのかと第三者に言語化され霧が晴れたようにスッキリして、その快感をもう一度味わいたいがためにSNSを開くのだ。そういった意味では小説も同じかもしれないが小説がSNSの深度を下回ることはないだろう。SNSでは基本的に過程なしに結果のみが明示されるから感情を知りたいのであれば小説を読んだ方がいいように思う。

 ふと思う。上記に述べたのはつまり言語化しなければ感情を知ったことにはならないということだが私は言葉というのは道具で本質ではなく媒介だと思っていてそのことに矛盾する。人ではなく言葉で会話してしまうと揚げ足取りのような感じになってしまう。言葉が疎かになってもその人の伝えたいことは伝わることも多々ある。それをその定義とか成り立ちに言及するのはいかなものかと思っている。この理論に基づくなら言語化は必ずしも必要ではない。私がSNSを苦手としているのはこの部分である。私は人と会話したいがSNSでは人が全て文字情報、ただの記号に収斂してしまう。文字情報というのは不十分であり全てを表してくれるものではない。その見えない部分、言葉の裏を想像し、解がないから堂々巡りになって疲弊してしまうのだ。とにかく、言語化しなくても私は感情を確かに有しているしその存在は揺るがないものになるはずだ。違うか。確かに存在は揺るがないがその存在しているからといって姿形を現しているとはいえない。私たちは肉体に安心したいのだ。絵画、像、詩などの芸術活動は存在を肉体化する試みである。芸術活動は古来より行われていて、その理由は芸術活動がそれは人間の本能に結びついているからだろう(しかしこれは自分の中でもっともらしい回答を思いついたから書いているだけであり根拠がない。芸術について学んだ後にこれを書きたいと思う)。芸術は人間の肉欲に根付く本能であり、言語化するということは肉体を与えるということなのだ。言語の持つもう一つの特性の、利便性、拡張機能としての言語については言語化する理由にはならないだろう。言語がこれだけ普及しているのはコミュニケーションの拡張機能の側面、利便性が大いに関係していると思うが言語化するそのものの理由にはならない。拡張機能としての側面は関係するが本質ではないと思う。言語化の対象となるものは全て拡張された機能によってのみ表されるとしても、なぜ拡張機能を用いて言語化しようとするのか、という動機については触れることができない。このことについてまとめてnoteに投稿しようと思う。夏休みの時間を使って言語について、そして芸術について、肉欲について調べようと思う。

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