変身令嬢は平穏に過ごしたい

大井町 鶴

◆第一章 発端

婚約者の浮気を目撃する

(おかしい…)


借りた辞書を返しにエリールは婚約者の寮の部屋を訪れたのだが、いつも応対に出てくれる従者が応答してくれる様子もなく、不思議に思っていた。


(おかしいわね。あとで、教科書を返しに行くと従者にも伝えておいたのに誰も部屋にいないなんて)


いつもなら部屋をノックするとすぐに従者が扉を開いてくれるのだが、扉が開かれる様子はない。


エリールや婚約者のフェスタは学園の寮で暮らしていた。男子と女子の暮らす寮は分かれてはいるが、従者や侍女などを置いておくという前提で、婚約者同士の行き来ならばOKという暗黙の了解が成立していた。


今はお昼休みだが、本日は授業の関係で別々に昼食をとっていたため、辞書を部屋に直接返しに来たのだ。確か彼の次の授業はこの辞書を使うと言っていたし、先ほど会った従者によると今日のお昼は寮で食べると聞いていた。


誰も出てくる様子がないのでドアノブを回してみたら、簡単に開いた。


(あれ、鍵もかかっていないのね)


おそるおそる部屋に足を踏み入れてみると、やはり人の気配はない。入ってすぐの場所にある棚に辞書を置いておけば、彼が戻った際にすぐ気づくだろうと思って辞書を棚に置こうとした。すると奥の部屋からかすかな音が聞こえた気がした。


(……話し声?泣き声?何か声が聞こえるような?)


以前、開けっ放しの窓から猫が入り込んできて部屋で勝手にベッドで寝ていたという話を聞いたことがあったので、もしかしたら猫が入り込んでいるのかもしれないと思って奥の部屋の扉を開けた。


だが、それは全く違った。


婚約者のフェスタが女子生徒の肩に手を置いてキスしていた。女子生徒はフェスタに寄り添い、涙を流しながらフェスタの胸に手を当てていた。


「っっエリール!!なぜここに!?」


エリールに気付いたフェスタが驚いて叫んだ。エリールは、我に返り瞬間的に辞書をその場に投げ捨てると急いで部屋を駆けて出た。


廊下に出ると、こちらに向かってのんびりと歩いて来る従者の姿が見える。


「エリール様!フェスタ様と良い時間を過ごされましたか?」

「良い時間を過ごしたのは私じゃないわ!」


エリールはポカンとする従者を残し走ってその場を走り去った。


私は人目の少ない学園の裏庭まで来ると、さっき見たことを思い返して”浮気された“のだと思って泣いた。


フェスタは昨日も今日もいつもと変わらぬ様子だった。自分を見て屈託なく笑う姿や、危ない場所があれば躊躇なく抱えてくれるようないつも通りの様子だったのだ。


それがなぜ、あのようなことが起きたのだろう。相手の女子生徒は確かラビィという名前で平民として数少なく入園してきた優秀な生徒だったはずだ。劇団に所属していて女優と学生の二足の草鞋を履いていると話題だった。


彼女の両親は俳優業をしていて、彼女も幼い頃から舞台に立ってきたせいか、長いセリフもすぐに覚えて完璧に演じられる能力があるほか、高い学力も身につけている才色兼備の代表のような女性だと聞いた。


(その彼女がなぜ彼と?接点は無かったはずなのに…)


だが、ピッタリとフェスタに寄り添うラビィの姿は愛しい人に寄り添う姿そのもので昨日今日の仲の雰囲気にエリールには見えなかった。


「フェスタのばか…!」


エリールは裏切られた思いでいっぱいだった。今までの幸せな時間を思い出せば思い出すほど、悲しくなった。


悲しみに暮れてしばらく泣いていると私は突然、怒りが湧いて来た。


(なぜ、私が傷つかなきゃいけないの!?裏切られた私がこんなに嘆く必要なんてあるのかしら!?)


裏庭のベンチで泣いていたエリールはすくっと立ち上がった。


(こんな時、お母様やお兄様達だったらいつまでも嘆いたりしないわ)


エリールの実家であるグリール家は、裏組織で代々活躍してきた家系だ。父は任務で亡くなってしまったが上には兄が2人おり、彼等は学園を卒業すると表向きの職業を持ちながら、裏組織でそれぞれ活動をして成果を上げていた。


エリールは末っ子で女子1人であったので、組織に関わらせたくないという兄達の強い意向から学園を卒業した後は家庭に入るよう望まれていた。


だが、こうして婚約者に裏切られた今、亡き父や兄達、今は引退した母の勇ましい姿を見てきたエリールは弱く嘆いているだけではダメだと思い至った。


(私はこの寮を出て行く…!)


学園の寮にはエリールを始め、フェスタやラビィも入居していた。毎日、朝から晩まで顔を合わせるかもしれないと思うと耐え難かった。


学園は貴族である限り卒業することが義務となっていたので通わなければならないが、学園の授業以外は学園から離れたい。


学園の寮を出る決意をすると、泣き顔を引っ込めて学園を出た後のことを考え始めた。お父様や兄達は学園から遠く離れた領地で暮らしている。頼るとしたら、組織のボスである彼を頼るしかない。


ボスは、フェスタと私が婚約関係になるのを認めた人物でもあった。相談するのにはふさわしい人物だ。エリールがこちらの学園に出て来るにあたり、面倒を見る立場でもあった。


自分の部屋の寮に戻ると、侍女のマルタに起きたことを簡潔に説明して寮を出て行くと宣言した。マルタは驚いたが、さすがに裏組織に属する家に仕えるだけあって判断が早かった。


すぐに必要な物をまとめ始め、あれこれと必要な手続きもテキパキとこなしてくれた。途中、扉の激しく叩く音がしてフェスタが来たようだが、マルタが追っ払ってくれた。精神的に打撃になることを言い放ったのか、フェスタは大人しく引き下がったようだ。


新居となる場所にすぐに荷物を送れるように手配が済むと、エリールはマルタと共に寮を出て行ったのだった。

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