熱帯夜の悪夢 ~寝苦しい夜に、物言わぬ者の脚がわたしに忍び寄る~
弥生ちえ
夢の世界に戻りたい
熱気が、強い執着心をもってまとわりつく。
悪意に満ちた日差しは、遅い日の入りまでたっぷりと地面を焼いて、深夜となってもまだ執念深く居座る。
クーラーが無く、生ぬるい風を吹き散らすだけのウインドファン。そんな、心許ない冷房設備しかない自室は地獄の暑さだ。
だからわたしは、冷たすぎるくらいにクーラーの効いた居間に陣取って小説を書く。夢中でキーボードを叩いているうちに随分と時間が経っていたらしい。
隣の襖で仕切られただけの親の寝室から「いい加減に寝なさい」と眠たげな声で怒られてしまった。
真っ暗な廊下を、とぼとぼと進んだ先にある自室は玄関横で、隣家の壁の迫った湿気の多い場所だ。それでも、たった5畳の狭いその部屋は自分の城なのだ。大きな音さえ立てなければ、静かな夜間を自分の思うまま過ごせる快適な場所のはず。
――なのだが、如何せん熱帯夜と予報されている今夜は様相が違った。
隣家が迫って窓も開けられない自室は、昼間の熱気が抜けきらない息苦しさに包まれている。ウインドファンの仕事が、いつも以上に怠慢に感じられる。だがこの夜、我が家の中でわたしに許された活動の場は、もうこの部屋以外には無い。
すっかり寝静まった家族を起こさぬよう、しっかりと廊下の扉を閉めて机に向かえば、ウインドファンからの生ぬるい風が首筋をふわりと撫でる。
(気持ち悪い)
何故かいつもとは違う、そんな気がした。
だがそんな細かな気掛かりで、折角の3連休初日の夜を無駄にしたくはない。だからわたしは愛用のタブレットをホルダーに立て掛け、Bluetoothで接続した白い本体にオペラレッドの丸ボタンが並ぶキーボードを叩き始めた。
言葉を紡ぐカタカタと云う音が手元で響く。
時折、みしりと家のどこかが鳴る。
遠くの道路を走る車のエンジン音が聞こえる。
いつも通り。
けれどいつも通りじゃない、息苦しい夜。
流れる汗は止まるところを知らず、ぼんやりする頭は文字の組み立てを拒否する。
「だめだ、寝よ……」
暑さに屈伏したわたしは、常夜灯のみを残して明かりを落とし、固いベッドにゴロリと横になった。
みしり
また家が軋む音がする。
木造住宅の放つ、いつも通りの慣れた音が、やけに耳障りで不快に聞こえる。
みしり
暑さよりも、鈍く響く音が気持ちを逆撫でして、入眠の邪魔をする。
だからわたしは、足元に蹴り固めていた夏蒲団と薄いタオルケットから、タオルケットだけをそっと引き上げ、頭までを覆い隠した。
突如として、違和感を覚えたわたしの意識は覚醒した。
だが周囲はまだ暗く、響く音も疎らで、時計を見ずとも未だ夜であると状況が伝えてくる。暑さのせいで目が覚めたのだろう。直前耳に入ったミシリと云う軋み音以来、周囲の音は止んでいる。
だから動くこともなく、もう一度眠ろうと目をつむった。
――が、
すぐに、腰元に何かが触れる違和感があった。
まだまだ眠気を訴える頭は、それが気のせいだと訴えて、再び眠りの世界にわたしを引き込もうとする。
けれど、再び同じような位置に微かに何かが触れる感触が伝わった。
先程よりも、若干鮮明になった感触に、体中からどっと汗が噴き出る。
そんなわたしの反応をあざ笑うかのように、感触は消えないどころか背中を這いあがってざわざわと動き回る。
「――――っ!!」
恐怖が上回ったわたしは、声を出すことは出来なかった。だが感触から逃れるべく、強張る身体を叱責して身体を動かす。ごろごろと身じろぎして。
起き上がって何かが見えるのは嫌だった。だから、感触さえ消えれば、異常は全てなかったことにして、寝苦しいだけのただの夜に戻ることが出来る。
そんなわたしの思惑を嘲笑うかのように、さわさわとした感触は消えず、背中じゅうを這い回る。無言の格闘が続いた後
――ようやく生々しい感触が消え去った。
寝転んだまま荒くなった呼吸を整えると、恐る恐る目を開ける。そこには、驚くほどいつも通りな薄暗い自室の天井が広がっていた。
「やった。気のせいだ」
ふぅ、と安堵の息を吐けば途端に喉の渇きが気になった。いつも通りの光景に、すっかり気の緩んだわたしは、そっとタオルケットから滑り出して台所へ向かった。なぜか無性に―― 一口だけ、水を飲みたかったのだ。
家人を起こす余計な音を立てない様に、暗い中、そっと水を飲みに部屋を出る。
みしり
と、家は相変わらずの軋みを立てている。
目的を果たし、薄暗い部屋に戻ったわたしは微かに目を見張った。
暗いままでも分かる。ついさっきまでの格闘を物語る、崩れ、乱れきった布団がそこに在った。
「直さなきゃ。ただでさえ寝苦しいんだから」
呟きながら、無意識に室内灯をパチリと点ける。
さっきまで被っていたタオルケットは、ベッドの上に広がっている。けれど足元に蛇腹に折り畳んで置いてあった夏蒲団は、わたしの蹴りで半分が床に垂れ下がっている。
ベッドに近付いたわたしは、軽い夏蒲団をふわりと持ち上げる。
現れたタオルケットの表面を見たわたしの目に、違和感が映った。
ひゅ、と息を飲んだ。
黒い塊の周囲には、フサフサとした毛と見えるモノが生えていた。
毛と見えるモノは、毛ではなく、驚かせればグネグネと身体をうねらせる複雑怪奇な動きをしてザワザワと素早く動くあの生き物であるのは間違いないだろう。
だからこそ、はっきり見たくない。できれば夢だと思いたい。
わたしは剥がした時と同じく、そっと、衝撃を伝えない様に夏布団を戻す。
周囲を見渡して何か硬いものを探した。が、すぐに思い直した。布団の上で潰せば、夢に戻ることは出来なくなる。
何とかしなければ。夢であってくれ。下手なことは出来ない。このままでは寝られない。
暑苦しい部屋の中、一人静かに心の中でギリギリの攻防を繰り返す。
だが結局、夢の世界へ戻りたいわたしは、勇者への道を選んだ。
ティッシュを5枚……いや、それからさらに2枚足して7枚を引っ掴み、一気に引っ剥がした夏蒲団の下で、まだ微睡んでいたソレに向け
一気に振り下ろした。
怖さと喜色悪さと緊張に、手がうまく動かなかったが、布団から消え去った黒い影に、自身の捕獲の成功を確信した。
そのまま一気にトイレまで駆け抜け
――水に落として、流す。
再び静寂に包まれた部屋に帰ったわたしは、ぐったりと疲労したせいか、程なく夢の世界へと戻ることが出来た。
あれ以来、眠っている間に襲い来るザワザワした強烈な感覚には襲われてはいない。
けれどあれは一体何だったのか
怪奇現象だったのか
それともアイツの感触だったのか
どちらにしても、ぞっとする疑問に答えは無い。
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