第61話 祈り
闇の精霊が通った後の空は、雲一つない。亡くなった者すら連れていくと言われる、浄化の闇だ。だから、空気がとても澄んでいる。
そんな良い日に、なぜ、私はここにいるのか。
朝っぱらから外に出るのならば、清々しい朝に、庭園散歩を決め込みたい。
隣にいる男、ルヴィアーレは静かに微笑んで、聖堂の中にいた。聖堂に入るのは慰霊祭以来だ。
中は薄い黄みがかった鈍い銀に統一された部屋で、明かりで金にも見えた。祈りを捧げる相手は、聖堂の奥だ。
祭壇には、あらゆる精霊を祈るために、自然を模した彫刻がある。水中から根が張り、土から出て木となり、生い茂る葉の空の上に、雲と太陽。それから、その周囲にいる魚や動物たち。そして、それらを抱くようにして慈しみを見せる女性。マリオンネの女王だ。
祈りはただ跪き、その彫刻の前で祭司の持つ鐘がなる間、ただ厳かにいる。からーんと天井まで響き、吐く息すら聞こえそうなほどの静寂の中、精霊に祈るのだ。
いや、祈らないよ。ルヴィアーレも祈ってないって。困ったね。この静かな中で、お腹鳴っちゃったらどうしようか。たくさん食べてきて良かったよ。
別のこと考えるって、何があるかな。精霊のこと考えちゃダメダメ。そうだ、玩具のことを考えよう。
魔獣どうする? 分布図ってそこまで細かいの手に入るかな。各地に行かないと分からないよね。誰か詳しい人探さなきゃダメ? そうしようか。
狩人に聞いて細かい地図作ろうかな。これ大変だね。まずは大きな街周辺から始めて、珍しい種類とか調べたりして。どうしよう、楽しい。
「……ネ様。フィルリーネ様」
『あんた、呼んでるわよ』
うん?
顔を上げると、司祭が眉尻を下ろして、にこやかな笑顔で声を掛けてきていた。
「フィルリーネ様は、随分と熱心に祈られるのですね」
って生暖かく微笑まれる。案外、鐘の音は短いらしい。こんなものでいいの?
『祈ってないくせに、何言ってんのよ』
そこはご愛嬌だよ。ルヴィアーレだって祈ってないもん。
そのルヴィアーレたるや、ほんのりと笑顔を見せてくる。嘘くささ満載。人のこと言えないけれど、器用ですよね。
「わたくし、精霊の許しが分かるのは、婚約している者のみと聞いているのですけれど、実際はどのように分かるのか不安ですわ」
誰か教えて。司祭なら知ってないかな?
ちらっと見た人の良さそうな顔をした白い口髭を蓄えている司祭は、にっこりと微笑む。
「心に語りかけられると言われておりますよ」
「まあ、そうなんですの?」
つまり分からないってことですね。了解しました。
「まずは半年、我慢ください」
司祭がゆるりと首を垂れるのを見て、ルヴィアーレは穏やかに笑む。
半年で終わるわけないだろう。って笑顔だね、きっと。間違いない。そこは同感だ。私も祈る。一年。いや一年以上! ここは共謀できるよ。
エレディナが呆れているのが分かる。エレディナはルヴィアーレ自体はともかく、魔導からすると好ましいようで、来てくれるならいいだろうという精霊の感覚があるようだ。相性って怖いね。
これで、他の精霊たちも簡単に陥落するようならば、ルヴィアーレも困るだろう。どうにか精霊たちに嫌われる方法はないだろうか。
『無駄な足掻きだと思うわよ?』
エレディナの言葉は無視だ。無言のまま回廊へ戻り、特に話すでもなく、来た道を戻る時だった。
青空の中、遠目に見覚えのある航空艇が、こちらに向かってくるのが見えた。
「ビシニウス…」
見上げた先に、ルヴィアーレも視線を変える。大型の航空艇は、金と黒の甲冑のような重量のある色と形だが、蝶のようにゆっくり下降してきていた。城の発着所に停まるつもりだ。
「あれは、どちらの船でしょうか」
「北部の街より戻ってきた、国境警備騎士を乗せた船ですわ。ビシニウス。なぜ、こんな時に」
まだ、戻る時期ではない。何か緊急の用向きでもあるのか?
「フィルリーネ様?」
「驚きましたわ。いつもならば、もっと遅くに訪れる船でしてよ。今年は、戻るのがとても早いですわね」
フィルリーネはわざとらしく胸を抑えた。驚いてしまいました。と言わんばかりに首を振る。
「早い、と言うのは」
ルヴィアーレは、頭上を通り過ぎて着陸をしようとする、大型航空艇のビシニウスを眇めた目で追いながら、フィルリーネに問いかける。
戦艦であることは気付いただろう。魔導を放出する砲台が後部に見える。いくつもある筒から魔導が発せられるのだ。ルヴィアーレは気にするはずだ。
「北部にある国境の街は、雪で長く閉じ込められるので、兵士たちが入れ替わり、街に滞在するのです。冬が終わる頃に入れ替えの兵士たちが一部戻ってくるのですが、今年はとても早いわ。マリオンネに行く途中で見た限りは、あの街はまだ雪深かったのに」
予定より、随分早い。闇の渡りが終わってすぐに戻ることなど、今までなかった。あと一月近くは、冬の館にいるはずなのに。
何かする気なのか。フィルリーネは舌打ちしそうになった。婚約が終わった途端動いてくるならば、何かあると考えた方がいい。
「本来ならば、お父様が入れ替えの兵士たちと共に、冬の館と呼ばれる北部の城へ訪れ、春の芽吹きを祝うのです。マリオンネに一番近い街ですから、長い冬を得て春を迎えた印を供物として捧げ、春の訪れをお知らせする。それから、入れ替えの兵士たちと共に、王都の城に戻るのです」
だが、今回はそれが行われる前に、兵士たちが戻ってきたことになる。あの航空艇で戻ってきたのだ、間違いないだろう。祭事も行わず戻ってきたのならば、目的があるはずだ。
「北部の街は精霊や魔鉱石も豊富なので、城の防御に特別な騎士を送りますの。その騎士たちが役目を終えて戻ってきたのですわ。お父様の精鋭なのよ」
この情報は得ていた方がいいだろう。精鋭たちの中でも、一番面倒な男も一緒に帰ってきている。
「冬の館には、我が国でも最強と言われている方が滞在しているのですわ。その者も帰ってきているでしょう。きっと、明日には、食事会がございますわ」
「そうですか。それは楽しみにしております」
会っておいた方がいいのは間違いない。ルヴィアーレはにこやかに答えたけれど、内心どう思っているのか。婚約の儀式が滞りなく終わったばかり。そこで精鋭が帰ってくるなど、頃合いが良すぎだろう。
だが、婚姻がまだなのは変わらない。それなのに、騎士たちを早く呼び戻したのは何故なのか。
雲一つない青空に、まるで不気味な魔獣が飛んでいるようで、フィルリーネはひどく不快さを感じた。
「お帰りなさい。ベルロッヒ」
「ただいま戻りました。フィルリーネ様」
恭しく首を垂れた筋肉質の男ベルロッヒは、逞しい体躯を見せつけるような厚い胸板をし、緩めのブリオーを着ていても腕の太さがフィルリーネの腰くらいあった。
相変わらずの筋肉むきむきだ。四角い顔に短い黒髪で、黒い瞳がぎょろりとルヴィアーレを捉える。
「ご婚約者とは。季節一つで変わられますな。婚約の儀式が滞りなく済んだという話を伺って、急いで戻って参ったのです。おめでとうございます。フィルリーネ様」
婚約の儀式が終えたからと、国境で警備をしている者たちがたやすく帰ってこれるだなんておかしいだろう。まだ、代わりの兵士が移動していないのに。
「嬉しいわ。ベルロッヒ。精霊への祈りを終えれば、空にビシニウスが飛んでいるのだもの、驚いたわ。お父様が春の祝いを行なっていないのに、まさか先に王都へ戻るとは思わなくてよ」
それぐらい急いで来てくれて嬉しいわ。そんな含みを入れると、ベルロッヒは、とにかく祝いの言葉を捧げたかったのだと、大きく笑って言った。
「お初にお目に掛かります。ルヴィアーレ様。国境騎士団団長のベルロッヒと申します」
「ベルロッヒは、我が国一の剣豪ですのよ。魔導にも長けておりますの」
「ルヴィアーレ様は剣術にも魔導に長けていると伺っております。是非、手合わせしていただきたいですな」
ベルロッヒは社交辞令のように笑いながら言ったが、目が笑っていない。ルヴィアーレが本当にどの程度の力を持っているのか、確認したいようだ。
「ルヴィアーレ様は、アシュタルと手合わせをなさったのよ。でも、アシュタルにも勝てないのだもの、結果は見なくても分かりますでしょ。それより、ベルロッヒ。武勇伝をお聞かせになって。今年はどんな魔獣を倒しましたの?とても強い魔獣を倒されたのでしょう?」
「これはフィルリーネ様。いつもそのように言われては、毎年強力な魔獣を倒さねばならなくなります」
ベルロッヒが困ったように笑いながら言うと、周囲の者たちも笑い始める。ベルロッヒの武勇伝は他の者も聞きたいのだと、食事の席で耳を傾ける者が多い。
とりあえず、ルヴィアーレとの手合わせは回避できた。ルヴィアーレもベルロッヒと戦うのは避けたいだろう。多分。
ルヴィアーレはベルロッヒの話を静かに聞いているだけだ。時折頷いたり、話に合わせるように謙虚に答えたりと、いつも通りに接している。
ルヴィアーレの場合、心配する必要はないと思うけれどね。まあ、一応ね。
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