第3話 パニック障害

私のスマホが鳴った。誰だろう?こんな夜遅くに。




 私は、先程飲んだ安物の焼酎の酔いを感じながらスマホに出てみた。




 相手の電話番号は非表示になっており誰だか解らない。しかし、私のスマホ番号を知っているのは、友人と家族だけである。もしかして……という淡い期待のもと、私は、直ぐにスマホ出てみた。




「あ、あのう田中さん。良かったら直ぐに来てくれへん。すごく苦しいの、苦しくて、本当にどうにもならへんの。私のアパートは、阪急電鉄△△駅北口駅から歩いて5分の所にあるグリーンヴィレッジハイツ2階の202号室なの。この前は意地悪言ってごめん。何でもいいから早く来て、お願いやから!」




 と、もの凄く苦しそうな声の高木美優からだった。声が震えており呂律(ろれつ)も回っていない。はっきりと聞き取り難い程だ。




 が、確かに高木美優の声に間違いない。心臓発作なのか、それとも風邪で高熱でも出ているのか?




 ともかく、ポケットに財布とスマホを入れて、私鉄駅まで走った。電車が出て行ったところだ。次の電車が来るのには、この時間帯ではまだ15分程度はかかるだろう。




 それなら彼女の住んでいる所はここからさほど距離は離れていない。私は、学生であり決して裕福な生活はしていなかったが、タクシーで高木美優の言ったグリーンヴィレッジハイツ2階の202号室に直行した。タクシーから降りて、全体が薄緑色で統一された五階建ての瀟洒な作りのアパートの202号室のドアを叩いた。




「高木さん、高木さん」




 直ぐに、ピンク色で花柄のパジャマ姿の高木美優がドアを開けてくれた。息遣いが荒い。全身が震えている。それに目付きも何処か少し変だ。吊り上がっているように見えた。




「どうしたの?熱でもあるの?救急車呼ぼうか?」




 だが、高木美優は、例の極小さなハイトーーンの震える声で、




「こ、こんなに早く来てくれるって思わなかったわ。今、薬を飲んだとこだから、多分もう少しで効いてくると思うの。そしたらちょっとは楽になると思うの。だからお願い、少しだけここに居てくれへん?」


 


「ウン」と私は、答えた。若い女性の部屋に入ったのは、生まれて初めてであった。




 私は、恐る恐る高木美優の部屋に足を踏み入れた。思いの他、雑然としていた。部屋のそこそこに、漫画本や雑誌、ビデオ、DVDが散乱している。少し私の目を惹ひいたのは机の上に描きかけの漫画があった事だ。どうも高木美優は漫画家を目指しているらしい。




「背中さすろうか?」と、私は、セクハラや痴漢と間違われないかと少々びくびくしながら切り出してみた。




「うん、お願い」




 私は、高木美優を、そこに敷いてあった花柄の布団の上に寝かせて、柔らかな背中をさすってみた。約十分後、全身の震えは徐々に治まってきた。もう大丈夫かもしれない。


 


「心臓が悪いの?」私は、高木美優の横に居て、それとなく聞いてみた。




「ううん、心臓は何ともないの。ただ、急に不安の波が嵐のように押し寄せて来ると、自分でもどうにもならなくなってしまうの」




「じゃ、病院では、PD(パニック・ディスオーダー)とかパニック障害とか何とか言われなかった?」




「えっー、どうして解るんですか?」




「この前も言ったかも知れないけど、僕の最初の恋人と言うか初恋の人と言えばいいのか、あの北川昌代ちゃんが、チンピラグループに襲われて自殺したのではないかって話したよね。


 その話を級友から聞いて、僕自身、ほとんど食事も喉を通らず、夜も眠れない日が約一ケ月近く続いたがですよ。


 で、その時、色々自分の症状を医学事典で調べて、パニック障害とか不安神経症とか言う病名を知ったがです。だから、僕、高木さんの症状を聞いて直ぐにピンと来たんですよ。……きっと、もの凄くつらいんやろなあ」




「そう、今まで誰も解ってくれへんだのに田中さんて、超優しー」




「そ、そんなに褒められても……。それに、こうやっていると、ここだけの話、軽蔑せんといてや。ホント、高木さんて、昌代ちゃん以上に美人で可愛いいから、自分で自分の下半身を押さえるのが大変ながですよ」




「ごめーん。でも田中さんなら、真面目そうやから、きっと変な事しないと思って呼んだんやけど。ホント正解やったわ」




 そんなたわいもない話をしている内に、昼間の疲れが出てきたのだろう。高木美優は小さな寝息をたてて寝入ってしまった。




 腕時間を見ると、午前12時25分、終電車はもう出てしまっているし、このまま高木美優を置いて帰る事もできまい。私は、一大決心をしてこのハイツに泊まっていく事にした。




 今日、高木美優から緊急のスマホがあったのも、これも何かの縁であろう。




 いやもっと言えば、かっての恋人の北川昌代にそっくりだったと言う点からして、これはもう運命としか考えられなかった。




 高木美優のパニック障害には、その根底にどんな心理的葛藤があるのかは釈然としないものの、私には、その辛さは充分に理解できたのである。




 私は、健やかな寝息を立てて寝入っている高木美優をそっと布団に入れると、自分は横にはみ出して眠ろうとした。しかし、若い美少女と一緒に布団の中に居るのである。




 そうそう眠れるものでもない。電気を消すと更に心苦しくなってしまった。下半身が言う事を聞いてくれそうにもない。このまま自分が野獣になって襲いかかりそうな気がした。が、お互いろくに知り合ってもいないし、これ以上、どうできるとでも言うのであろう。




 私は、ノソノソ起き出して、冷蔵庫を開けてみた。うまい具合に缶ビールが数本あった。今日は仕方がない、この缶ビールを無理矢理全部飲んで眠る事にしよう。




 明日は明日である。




 ……そう、私は、この時点で、まだ事の真相を充分に理解していなかった。




 私は、この日から、実に、摂氏38度の「灼熱の日々」に身を投じてしまった事にまだ気が付かなかったのである。




 次の日の朝、私が深酔いから目を覚ますと、高木美優は既に起きていて、コーヒーを沸かしてくれていた。




「田中さん、目、覚めたん?はい、これ沸かしたてのコーヒーよ、飲まへん?」




「あっ、僕、いつの間にか眠ってしまったんやな。ごめん、ごめん。勝手に泊まってしまって」




「そ、そんな事ないよ。昨日は、無理言ってごめんね。それに背中もさすってくれてありがとう……」




 そう言ってはにかむ顔は、窓から差し込む朝日を浴びてきらめくように輝いていた。




 高木美優のパニック障害の症状はもう直っていた。私は、明るい日差しの中で、もう一度高木美優を見直してみると、以外に胸の大きいのに目がいった。高木美優は、昨日のピンク色のパジャマ姿のままだったからだ。




「もう何処、見てんの。嫌らしいわねぇ!」




「ごめん、でも高木さんて、以外とグラマーなんやね」




「もう、嫌らしい話せんといて下さい」




 そんな、話をしながらも、私の中に、もの凄く強い欲望が目覚めてきたのである。




 高木美優を抱きしめたい。その気配を察してか高木美優は少し目をそらした。その瞬間、私は高木美優を抱きしめていた。高木美優の心臓の鼓動、胸のふくらみが、ピンク色のパジャマを通じて私の胸に伝ってきた。




「僕、今日、学校休むわ、高木さんは今日も喫茶店へ行くの?」




「うん、バイトやから。それに高木さんて呼び方やめて、美優と呼んでいいわよ」




「じゃ、美優ちゃんと呼んでいい?で、美優ちゃんて漫画家志望なんやね?」




「う、うん、まあそんなとこ」




「少し読ませて貰っていい」




「私の漫画、下手やから、ほんの少しだけならまあいいですけど…」




「じゃ、ほんの少しだけ」




 と、そう言った私は、その直後、衝撃の事実を知る事になるのである。


 


 私は、高木美優の、木製の組み立て式の簡易机の上を何気なく見てみた。一体、どんな漫画を描いているか知りたかったからだ。




 私は、今までの高木美優の印象や、昨日の晩のパニック障害の症状を見て、それ程の期待はしていなかった。よくある、夢見る少女漫画家志望の一人だと思っていたのだった。




 何しろ、年齢は、まだはっきり聞いていないが20歳前後であろう。その年齢では漫画家とは言え、それ程簡単にデビューできるものではない事は、こんな私ですら充分に解っているつもりだったからだ。




 と言うのも、確かに私は司法試験の合格を目指している受験生で、弁護士志望ではあったが、ただそれは親に学資を出してもらうための方便で、江戸川乱歩先生や横溝正史先生のような推理作家になる事が究極の目標だったのだ。




 私が、昨年の大学二回生の夏休みの時である。司法試験の勉強を一時中断して、冒頭でも述べた「誤想防衛」を犯罪のメインとした推理小説を実際に書いて、ある懸賞小説に一か八か応募してみた事があったのだ。




 だが、見事に落選。現実は厳しいなあ、と言うのが私のその時の素直な実感であった。


 


 しかし、私は本当に驚愕したのだ。




 何とそこに書いてあった漫画はまだ下書きの原稿ではあったものの、現在、週刊『J』誌に連載されている『セブンティーン・ソルジャー・SAYA』の下書きだったからだ。




 しかも最初のページには、ペンネーム「山本彩華」とあるではないか!




この『セブンティーン・ソルジャー・SAYA』の漫画は、私もつい最近読んで知ったばかりだったのだが、漫画の絵自体はそれ程上手ではないものの、その独特の心理描写や社会風刺から、その作品の作者に一種の天才性を感じていた程だったのだ。




 この漫画は、そのあまりの過激な内容のため、「カルト的漫画」と呼ばれ、一部の識者から物議を醸かもしている作品だったのである。




 何しろ、この『セブンティーン・ソルジャー・SAYA』の粗筋(あらすじ)とは、それはそれはもの凄い内容であって、お嬢さん高校に進学したものの、何処か級友達と協調性がとれない主人公の美少女が果てしないイジメに遭い、その女子校を中退するところから物語は始まるのである。




 まあ、そんな話は、今の世の中には多分腐る程あるのだろうが、この漫画の凄いところは、実はここからであって、主人公の沙耶(SAYA)が、かっての女子高の同級生達への復讐のため、自分から進んで得体の知れない外人達と交わりエイズウィルスに感染。




 血液検査結果を極秘入手して感染を確認後、自らをウクライナの戦争未亡人で志願兵になった人になぞらえて「セブンティーン・ソルジャー・SAYA」と名乗り、その後、自分をイジメた女子高校の同級生の彼氏らを一人一人個別に誘惑。




 その彼氏らの目の前で低容量ピルまでを飲んでみせ、「妊娠の心配がないよ」と相手を安心させてそのまま生での性行為に引きずり込んでいくと言う、世の教育ママ達が読んだら腰を抜かすような無茶苦茶な内容だったのだ。




 それだけではなく、覚醒剤、MDMA(合成麻薬)や、アッパー系トリップ剤等の精神神経系に作用する薬剤を駆使し、次々と彼氏らを誘惑。最終的には担任の教師、校長先生までをもエイズウィルスに感染させていくという、とんでもないようなストーリーだったのである。




 そこでの同級生の彼氏らの誘惑の場面や、性行為の描写のあまりのドギツサに最初はそれ程人気が出なかったものの、ある有名な教育評論家が、現代の青少年に悪影響を与えると、この漫画に噛み付いた事から逆に有名になり、一部の熱狂的なファンを有するに至ったと言う、曰(いわく)付きの漫画なのであった。




「山本彩華」とは、正に、その作者そのものではないか!




 机の脇には、小型のファックスやパソコン、プリンタもあった。しかも、山本彩華の最初の単行本であろうS書房出版の『運命のビッグバン』も見付けた。

 この『運命のビッグバン』とは、それまでの山本彩華の短編漫画の総集編で、その中には山本彩華の確かデビュー作でもある『女子中学生エレジー』も掲載されていた筈だった。




 私は、ビックリして、ピンク色のパジャマ姿のままの高木美優を見返したのだった。




 まさか?だが、この状況は、私の勘が正しければ、そう認めざるを得ないではないか?




「美優ちゃん、もしかして本物の漫画家の山本彩華さんじゃないがけ?」と思わず、郷里の方言丸出しで聞いてしまった。




 高木美優は、目で頷(うな)ずいた。それで私は全てを理解した。私は、今はまだ一部の熱狂的なファンにしか知られていないにしろ、漫画家として既にメジャーデビューを果たしている漫画家と知り合ったのだ。




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