火傷の痕

葭生

山の中で

ある男が山道を歩いていた。大都市の喧騒から東に遠く離れたこの鴨岩山かもいわやまは、奥へ越すと人口数千程の町がある盆地へと辿り着く。山は、南北に広がる庄緑山地しょうりょくさんちの丁度中央に連ねているが、大多数にとって惹かれるようなものではない。標高は四〇〇メートル程度で、傾斜は至って緩やか。美麗な眺望、価値のある遺構等、さしたる資源もなし。おまけに、隣接する町はどれも老人ばかりですっかり寂れている。鴨岩という名の由来とされる鴨の姿に似た岩すら、未だ発見されず仕舞いの不幸せな山なのだ。第一、鴨の姿のような岩を見つけたとして、意地悪な誰かが「あれは鴨じゃなくて鵞鳥がちょうだろう」と言ってしまえば、何の意味もない岩となってしまうものである。


ともかく、男はその可哀想な山を登っている。勿論、男の他に人はいない。今日は八月一六日、木の葉を揺らす風は不在で、その間を縫って突き刺す日差しは、着実に男の体力を奪い去っていた。男が少し「暑い」など呟いたとしても、止め処なく鳴き喚くセミの声にかき消され、何を言ったのかわからなくなる。それでも男は登るのを止めなかった。


男が山を登る理由は確固たるものではなく、漠然とした逃走であった。五年前に大学を漫然と卒業し、就職活動に励むも失敗。一人暮らしのアパートを解約し、実家に戻ってバイトをするだけの日々は、人より少々楽天的な男の心をも蝕み続けていたのだ。家に居たくない、人と出会いたくないと欲する男にとって、この何も無い山に足を運ぶのは自然なことだった。


しかし、今の男はそんな消極的な理由も忘れ、ある思い出だけが心に渦巻いている。それは一八年前、男が小学四年生の時分に遭遇した“妖怪”のことだ。紅く小さな瞳に、大きく立った耳、茶色の短い体毛は兎に似ているが、兎より頭が大きく、気まぐれな仕草はまるで猫のよう。少なくとも動物図鑑には載っていないので、正体は小学生の知識では到底見当もつかず、今となっても不明のまま。一つだけわかることは、その生き物は姿ことだった。


男の目的は当初から明確に“妖怪”探しだった訳ではない。“妖怪”を思い出したのは、静寂な登山道より山に入った瞬間だった。鬱蒼と茂る杉の木に、昨晩の雨で潤った土のむせ返る匂い、どれもが”妖怪”と出会い、遊び、あの日を想起させたのだ。


あの日、男は一人で山に出かけた。虫取りだったか、植物採集だったか、理由はともかく数時間程この灼熱の中で遊んでいた。もう帰ろうと思った時、“妖怪”が姿を見せる。男は好奇心も旺盛なため、迷わずその姿を追った。不思議なことに、それはこちらに気付いたようでありながら、逃げる素振りを一切見せない。簡単にそばまで近寄ることができた。はじめ、男はその特徴から山兎の類だと思ったが、どうやら違うらしいとわかると、抱きかかえて確かめてみようと両手を伸ばす。すると、突如としてそれは目の前から消え失せた。驚いて振り返ると、そこに再び現れる。足が速い程度では説明のつかない現象だった。“妖怪”は呑気に顔を前足で掻いている。


しかし、子供特有の無邪気さから、男は未知との遭遇に興奮していた。幾度も繰り返し同じことを検証し続けた。そして“妖怪”は男の期待に答えるように毎度雲隠れする。


暫く経ち、それにも大分だいぶ飽いてきた頃“妖怪”が走り出したので追いかけた。いつの間にか元の道から大きく逸れ、柔らかく踏み込みづらい腐葉土の上を駆け回っていたが、男はもう気にならなかった。時々“妖怪”は立ち止まって、からかうようにこちらを一瞥する。男の中には、既に小さな愛着が芽生えていた。


次第に男に差し込む赤い夕日の光。追いかけっこは三十分以上繰り広げられていた。男はやがて疲れ果て、地面に座り込む。すると“妖怪”も止まって両前足で土を掘り返し始めた。妙だと思って、今一度立ち上がって近づく。


“妖怪”が掘り起こしたのは死んだアライグマだった。“妖怪”はその腹に齧りつき、むくろむさぼっている。男は後退り、再びへたりと尻餅をついた。凄まじい異臭に吐き気がし、得体のしれぬ恐怖が稲妻のように身体中を趨る。この時、初めてそれを妖怪と心で名付けた。


以後のことは男自身あまり覚えていない。逃げるようにその場を離れた男は、闇雲に山を下っていく。道すら存在しない山奥で、顔を歪ませて涙を浮かべながらひたすら走る。裏切られたと思った。ここでくたばってしまうのではと怯えもした。


男はこの日から一度も鴨岩山に入らなかった。


“妖怪”は男の心に、酷い火傷のように深く残っている。男は、その火傷の跡を摩ってみて、今も痛むのか確かめるために、この山に再びやってきたのだ。


立ち止まってぬるい水を口に含むが、暑さを凌ぐことはできない。男はあの日と同じように山道を外れた。しかし、“妖怪”の姿を捉えた訳ではなく、あの日の再現のため、朧げに記憶していた曲がり角で道から逸れたのだ。杉の幹を支えに、地上に出た根を跨いで、枝を躱して進んでゆく。


男は特段熱心に勉学に励む人間ではないが、それでも大学で生物学を専攻していた身であるため、ウッド・ワイド・ウェブという言葉を聞いたことがある。それは端的に言えば、森では地下に張り巡らされた植物の根によって、膨大な情報がやり取りされているという説だ。森は独立したネットワークを構築し、動植物のみで聖域とも呼べる空間を作り上げている。それを意識すれば、無人の神社本堂に居座るような疎外感と場違い感を、男が覚えるのは当然だった。


陽は既に西に傾き、光に朱色を混ぜている。男の疲労は中々のものだった。しかし、ここまで来た以上、易々と引き上げるとはいかない。また水を飲もうとするが、もう一滴も残らず空だ。少し立ち止まって一息つく。ぼんやりと周囲を見渡すと、あるものを発見した。


茶色の毛皮。ただ、男の知っている“妖怪”とは違う。大きさからして狸のようだ。男は他に当てもなかったので、彼または彼女を追ってみることにした。狸は山を知るもの。軽やかに駆け抜けるため、男は見失わないことに必死だった。それでもどうにか付いて行けたのは、狸が思いの外早くに走るのをめたからだ。男は不意に死体があるようななまぐささを感じた。あの日を彷彿とさせるその臭いと状況に、ただならぬ予感を覚えつつも狸に近寄る。


そこで目にしたのは、またしても死骸だった。同時に男は確信する。死骸は間違いなく“妖怪”のものであると。“妖怪”の背中には深く引っ掻かれた痕が残っており、ふくよかな腹は食いちぎられて肋骨と内臓の破片が露出している。目に焼きつくほど凄惨な姿である。


ところが、男は動揺も怯えもせず、却って失望していた。己に深い傷を負わせた“妖怪”が、食物連鎖すら逃れられない渺渺たる“動物”に過ぎないというのは、決して納得いく結論ではなかったのだ。男はじっと死骸を見つめている。そうしても、これが死んでいるのは変えられない事実だが、閉した瞼の奥には濁った瞳が窺え、いつしか男の内には、徐々に憐憫れんびんの情が芽生えていた。この“妖怪”が何故だか可哀想で、故に愛しいとまで思い始めている。いや、とっくに理由はわかっていた。あの日、男と同じように“妖怪”も「裏切られた」と察したのではないか。


男にとって“妖怪”の行動は、愛らしい見た目と仕草で騙し、狂気のテリトリーに誘い込んだ卑怯な詐欺だった。しかし、“妖怪”にとっては全てが飽くまで当然であり、“妖怪”なりの手法を使った、暇つぶしに協力したことに対する誠意の表現だったとも考えられる。そんな発想がふと男の頭にぎると、男は少し表情を緩め呟いた。


「お前と同じだったらよかったな」


男が再び山に入ることはなかった。


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火傷の痕 葭生 @geregere0809

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