頸ノ刻、御百度参リ

深川我無

活キハ善ィ善ィ 壱

 御兄様御兄様御兄様。


 耳許で囁くその声は酷く不快なものだった。何とも耳障りな奇異奇異聲キイキイゴエで、大層切実な響きを含んでいる。


 頬に触れる苔と砂利の感触、鼻を突く獣の糞尿臭から推測するに、どうやらここは外らしい。


 御兄様御兄様御兄様。


 またしても女の声がした。酷い醜女に違いない。


 そんな事を考えながら私は嫌々ながらも瞼を開く。見えたのは、やはり苔むした石段と、両脇に黒ぐろと茂る鎮守の森だった。女の姿は無い。


 嫌な夢を見たものだ。


 私は頬に刺さった砂利を払いながら起き上がる。見覚えの無い場所に一抹の不安が沸き起こったが、それよりも差し迫って腹が減っていた。


 困ったことになった。此処は一体何処だろう? 腹具合からすると、何日も睡っていたのだろうか?


 此処に来るまでの記憶が無い。同僚達と酒を呑んだのは覚えている。その証拠に祇園の芸者がつけていた白粉が背広の胸辺りに残っていた。


 鞄! 鞄は何処だ!?


 はたと気付いて見渡すと、鞄は何処にも見当たらない。大事な手紙が入った鞄が見当たらない。


 何ということだ……!? アレが無ければ軍部の後ろ盾が得られない……! 困ったぞ。これは困ったことになったぞ……!


 親指の爪を噛んでウロウロと踊り場を歩き回っていると、革靴の先に何かが触れた。


 重たい感触とは別に、湿り気を含んだ、べしゃり……という音がする。

 

 もしやと思い直ぐに目をやる。しかしそれは目当ての鞄とは程遠い、口を縛った麻袋だった。見覚えは無い。しかし嫌な予感がする。まるでそれを裏付けるように、ヒュゥ……と淋しい風が石段の上から吹き抜けた。


 ぎゃあぎゃあぎゃあ……鴉が哭いた。


 血のように朱い夕刻の空を、鎮守の森から羽ばたいた黒い影が舞う。


 バタバタバタ……旗がはためいた。


 朱色の生地には黒い字でと書かれていた。

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