あの日見た滅びの景色を、僕たちは忘れない。

しろおび

第1章 火星の紅に愛と憎悪を絡めて

第1話 明日への希望。

 9月中旬にさしかかったはずが、街はまだ夏の熱を引きずっているかのようだった。朝の通勤ラッシュで人々が駅に向かう途中、陽射しが容赦なく降り注ぎ、アスファルトからは熱気が立ち上っている。シャツの袖をまくり、汗をぬぐいながら歩く人々の顔には、少しばかりの疲労がにじんでいた。特に、通勤電車を待つ列に並ぶ彼らの視線は、どこかぼんやりとしており、心のどこかで涼しい秋を待ち焦がれているようにも見えた。無表情な彼らの横顔には、秋の訪れを願う切実な思いが映し出されている。


 近くの公園では、蝉の声がかすかに残っていて、まるで夏の名残を惜しむようだ。スポーツウェアに身を包んだ男が木陰に入ると、一瞬ほっとするが、じっとしているとまた汗がにじんでいることを感じていた。その瞬間、夏の終わりを感じながらも、まだ残る暑さに嫌気がさしていた。

 子どもたちの走り回る声や、自転車で通り過ぎる人々の軽快なベルの音が、まだどこか夏の雰囲気を感じさせていた。公園の隅では、ひとしきり遊び疲れた子どもたちが、木陰で涼みながら笑い声を交わしている。


 そんな夏の余韻が続く日々にうんざりとなり始めるこの頃、世界中が注目する重大な発表が行われることになっていた。大学3年生の設楽したら慎二しんじ、学生専用のアパートに住まう彼もまた、その発表を今か今かと待ちきれない様子であった。


 クーラーの効いた部屋の中で、慎二は無意識に顔にかけた拡張現実デバイスのARグラスのフレームを指で撫でながら、デスクの椅子に深くもたれかかった。彼の心臓は、鼓動を速め始めていた。数時間前から感じていた高揚感と緊張が、今や一気に頂点へと達しようとしていた。汗が背中を伝い、彼の額には緊張の汗が滲んでいる。


「あと5分か……」


 その言葉が空気に溶けた瞬間、慎二の胸の中で鼓動がさらに速く鳴り響いた。彼の未来が今、決まろうとしている。選ばれるのか、それとも夢が打ち砕かれるのか。全てがあと数分で判明する。期待と不安が渦巻く中、静寂に包まれた部屋は、まるで彼の心の中そのものだった。息を潜めるほどの緊張感が膨らみ続け、部屋の空気さえも重苦しく感じる。クーラーの音すら、彼には耳障りな雑音に思えていた。


 慎二の机の上には何度も読み漁ったであろう宇宙関連の資料や本が山のように積み重なっていた。ARグラスの拡張現実空間で何かを読むことが主流となった現在では、特に若い世代の部屋の様子としては珍しい光景だった。しかし、逆に言えば慎二がそれほどにまで執着していることの証明となっていた。彼の目の前には、彼が追い求めた夢とそれを実現するための情報が詰まっている。どれも彼の心の中で渦巻く期待と不安を映し出すかのようだった。


 その資料や本の題目には共通して書かれている一文があった。それが『火星移住プロジェクト』である。


 NASAが主導して各国協力のもと、2017年に本格化したこの計画は、無限の資金と数え切れないほどの犠牲の上に進んできた。そして、2040年、その頂点に立つ大きな発表が行われようとしていた。SF小説の夢物語に過ぎなかった火星への移住が、ついに現実のものとなる。人々はその発表に熱狂し、一瞬のうちに全世界が新たな希望に包まれた。火星という未知の地へ向かう夢は、かつての不安を吹き飛ばし、人類が一つの目標に向かって進む新たな時代の象徴となろうとしていた。


 世界が未来への希望を失いかけていたこの時代、人々の心に再び灯った光であった。それはまるで、長い暗闇の中に差し込む一筋の光明のようだった。未来が閉ざされたかのように感じられた時代に、突然現れた『火星移住プロジェクト』という夢は、枯れかけた大地に新しい息吹を与えるように、人々の心を再び鼓動させた。


 その夢は現実のものとなりつつあった。毎日のニュースは火星移住に関する最新情報を伝え、SNSはこの話題で溢れ返っていた。街角の巨大なビルボードには、赤い惑星の映像が繰り返し流され、その風景を見上げる人々の目には、かつてのような不安ではなく、新しい未来への期待と高揚感が浮かんでいた。あちこちの商店では、火星に関連するグッズが並べられ、若者たちは未来の冒険に胸を躍らせて笑い合っている。見知らぬ土地への期待感が、街中に活気を取り戻させていた。


 日本も例外ではなかった。テレビやラジオ、インターネットメディアでは毎日のように火星移住計画の話題が取り上げられ、SNSではその発表が連日トレンドを席巻していた。中には、「この計画は嘘だ」と訴える陰謀論者や、過激な反対意見もあったが、それ以上に人々はその夢に酔いしれ、未来への希望を信じていた。


 そして『火星移住プロジェクト』がここまで注目を集める理由は、何より「誰にでもチャンスがある」という点にあった。従来の宇宙プロジェクトは、限られた富裕層やエリートにしか手の届かないものだったが、今回は一般市民からも移住者が選ばれる可能性があるという。誰にでも扉が開かれるその夢は、まさに今の時代に必要な風となり、長く続いた閉塞感を吹き飛ばした。人々は胸に秘めた期待と共に、未来を待ち望んでいた。


 慎二は、その期待の中に自分も含まれるのだろうかと、自問自答した。心の奥で燻る夢は、果たして現実になるのか。彼は自らの手で新たな一歩を踏み出す勇気を振り絞ろうとした。過去の自分に背を向ける決意が、胸の内に芽生え始めている。彼の目は、机上に広がる資料の山から、徐々に自らの未来へと向かっていった。


「頼む……当選してくれ……」


 その問いが心の中でぐるぐると渦巻く。期待と不安、希望と恐れが交錯し、息が詰まるような感覚に襲われた。彼の視界に映るARグラス越しのデジタル世界と、現実が曖昧に混ざり合う。目の前に浮かぶ火星の赤い地平線と、どこか不確かな未来への扉。


 すると突然、視界の隅に浮かび上がる通知のアイコン。火星移住プロジェクトからのメールが表示され、慎二の心臓が一瞬止まりそうになる。


「来た……!」


 慎二の短い叫びが、狭いワンルームの部屋に響き渡る。手のひらがじっとりと汗ばみ、体全体が緊張で硬直する。


 震える指先で、彼はARグラスに浮かぶ通知をタップし、メールを開いた。目の前の空中に展開された画面に、慎二の目が釘付けになる。そこに映し出された簡潔な文面は、彼の運命を変えるものであった。


 ――――――――――――――――――――


『NASA 火星移住プロジェクト』抽選結果のお知らせ

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 この度は抽選に申し込みいただきありがとうございました。

 厳正なる抽選を行った結果、ご当選されました。


 誠におめでとうございます‼︎


 ――――

【ご当選内容】

『NASA 火星移住プロジェクト』

 第一移民団 第358番


 ――――――――――――――――――――


 その瞬間、慎二の胸に溢れた感情は言葉にできないものだった。喜び、驚き、そしてこれから待ち受ける新たな冒険への期待が、全身を駆け巡る。彼の頭の中で、これまでの日々が走馬灯のように蘇る。何度も打ちひしがれ、諦めそうになった瞬間があった。夢は夢のままで終わるのかもしれない、そう思った夜も数えきれない。しかし今、その全てが報われたのだ。


 慎二は両手で顔を覆いながら、大きく息を吸い込んだ。震える呼吸を整えようとするが、心臓はまだ激しく鼓動を続けていた。目の前に表示されている「おめでとうございます」の文字が、彼に現実を強く突きつける。これが夢でないことを確認するために、慎二は再びメールを開いて、何度も『当選』の文字を見返した。


「俺が、火星に……」


 震える声でその言葉を口にした瞬間、慎二の心は喜びで溢れた。これまでの不安や迷いは一瞬で霧散し、代わりに胸を満たしたのは、夢が現実になったという圧倒的な実感。体がふわりと浮き上がるような感覚に包まれる。


 椅子に座ったままの慎二は、しばらくその場で動けずにいた。足元の力が抜けそうになるのを感じつつも、その興奮は彼の全身を支配していた。まさにこの瞬間、火星への旅路が、そして新しい人生が始まろうとしているのだ。


 ARグラス越しに映し出される赤い火星の風景が、慎二の目に映る。それはただの映像ではない――自分の未来そのもの。広がる赤い砂漠と青く輝く空、それらは彼に新たな世界が待っていることを告げていた。



 ♢♢♢



 翌日、夜が明けてもなお、慎二の興奮は冷めることなく続いていた。前夜、布団に入っても眠りは遠く、閉じた瞼の裏にはあの当選通知が何度も浮かび上がり、火星の赤い大地を歩く自分の姿が鮮やかに映っては消えていった。彼は心の高鳴りを抑えきれず、枕を何度も抱きしめ、何度もその夢を実感しようとしたが、ただ静かな夜がゆっくりと過ぎるばかりだった。


「本当に、火星に行けるんだ……」


 その言葉を小声で何度も繰り返し、夜が明けていくのを感じていた慎二は、ようやく朝の光を迎えた。薄明かりがカーテンの隙間から部屋に差し込み、柔らかな光が空気に広がる。ベッドから体を起こしてぼんやりと窓の外を見つめると、今まで感じたことのないほど新鮮な朝に思えた。だが、それでも興奮は収まらず、夜を越えて今度は確かな現実として彼の胸に刻まれようとしている。


 鏡に映る自分の顔は、眠れなかったせいかやや疲れが見えるものの、目の奥にははっきりとした期待と喜びが輝いていた。慎二は軽く深呼吸し、冷たい水で顔を洗いに洗面所に向かう。水が顔に触れた瞬間、ピリッと目が覚め、火星への夢が再び心を躍らせる。頭に浮かぶのは火星での自分の姿――人類未到達の大地での新しい一歩。


「あれは夢じゃないよな? 本当にいけるだよな……?」


 顔を洗濯したてのタオル拭きながら、その言葉を噛み締めるように呟く。そして、ふと日常の義務が脳裏に浮かび、我に返る。


「そうだ、大学に行かなきゃ……」


 まだ大学3年生の慎二には、火星の夢だけでなく現実の日々が山積みのままだ。必須授業がある今日を忘れてはならないと、彼は軽くため息をつき、急いで着替えにかかる。寝巻き代わりのTシャツと短パンを洗面所で脱ぎ捨て、浴室に干してあった白Tシャツとジーンズを手に取って慣れた手つきで身に着けた。


 大学専用として使っているリュックに教科書を手早く詰め込み、ARグラスをかけて電源を入れる。映し出された今日の講義の時間割が慎二の視界に浮かび、現実が彼をゆっくりと引き戻していく。


「しょうがない……行くか……」


 玄関に向かい、無造作に置かれたスニーカーを手に取り、履きなれた感覚を確かめる。かかとをしっかりと押し込むと、まるで体の一部が戻ってきたかのような安心感が広がった。小さなワンルームの部屋を出てドアを閉めると、外には9月のはずなのに生ぬるい空気が広がり、慎二は思わず顔をしかめる。あまりにも湿気を含んだその空気は、まるで夏の名残を引きずっているかのようだった。


 だが、その生ぬるい空気にも、夏と秋が混ざり合った匂いが鼻腔に広がり、彼の心の中で昨日の興奮と日常の感覚が交差し、なんとも言えない充実感が静かに広がった。秋の草花が香り始めたかと思うと、直後には夏の蝉の声が微かに耳に残る。これも『火星移住プロジェクト』に当選した喜びの影響だろうか、と慎二は少し考えた。


 慎二はその感覚に浸りながら、家からほど近い電車の駅へ向かって歩き出した。大学までの道はいつもと同じだが、今日はまるで新しい旅が始まったかのように少しだけ足取りが軽く、どこか世界が広がっていくような気がしてならなかった。


 駅に到着すると、賑わうバスターミナルが目に入った。学生たちがバスを待ちながら会話に興じている姿や、何気ない笑い声が慎二の耳に届く。その中に知り合いがいなかったことから、慎二は一旦目を閉じ、まだ胸の奥で燻る火星移住への思いを再び思い出した。心臓の鼓動が少しだけ速まるのを感じながら、顔にかけたARグラスを操作して今日の予定を確認する。


 しばらくすると、目的のスクールバスが到着し、学生たちが次々と列を作って乗り込んでいく。慎二も列に加わり、さっさとバスに乗り込み空いている席に腰を下ろした。そして今度は、ARグラスに映し出されたSNSへと没頭する。


 少しして、友人の高村たかむら一也かずやが軽快な足取りでバスに乗り込んできた。高村は背が高く、やや細身の体型で、いつも整えられた短髪と人懐っこい笑顔が特徴的だ。どこかお調子者のような雰囲気を漂わせており、ゼミのムードメーカー的な存在でもある。一也は慎二を見るなり、早速、明るい声でSNSに夢中になっていた慎二に声をかけてきた。


「よぉ、慎二! 珍しくちゃんと来てるじゃん」


 慎二は表示していたARの画面を消し、小さく笑って隣の席を軽く叩いて「座れよ」と促した。


「そりゃあ、来ないとヤバいからな。次休んだら、一限目の必須科目を落とすことになるし」


 慎二がそうぼやくと、一也は眉をひそめて苦笑いし、ちょっと頭をかいた。


「お前、1、2年の時もそんな感じだったけど、ほんとにギリギリで生きてるよな。安心するよ、お前が変わらないと」


 その言葉に、慎二は肩をすくめて軽く笑った。


「限界まで楽に生きるのが、俺のポリシーだからさ」


 そう言いながらも、彼の心には昨日の出来事がずっと渦巻いている。火星に行けるという大きな夢が、現実として彼の目の前に降ってきた。大学の授業も、友人との会話も、どこか現実感が薄く、まるで自分が二つの世界の間に立っているような感覚だった。

 そんな慎二の心境には気づかず、一也は無邪気な笑みを浮かべて肩を叩いた。


「まあ、それでうまくやってこれてるんだから、ほんとすげぇよ。お前らしいわ」


 一也の何気ない励ましに慎二は少し照れくさくなり、「そうだな」と短く答えると、ふと窓の外に目を移した。朝の光が街を包み、バスは静かな街並みを進んでいく。


 バスが静かに揺れながら大学の広大なキャンパスに到着すると、既に多くの学生が行き交い、どこかざわめきに満ちた活気が広がっていた。慎二と一也はバスを降り、まっすぐ一限目の教室へと向かう。教室内は既に学生たちでほぼ埋め尽くされており、二人はなんとか最後の空席を見つけて滑り込んだ。


 今日の一限目は、慎二が絶対に欠席できない必修科目の講義。しかし、心ここにあらずの慎二は、教授の声がどこか遠くに感じられ、視線を教科書に向けながらも、脳裏には昨日のメールが届いたあの瞬間が鮮やかに再生されていた。数時間前に届いた「おめでとうございます」の文字が、心の奥で繰り返し響き続ける。「俺が火星に行くんだ……」という思いが胸を満たし、教室という現実から半歩浮き上がっているような感覚だった。


 一方で、すぐ隣の一也はその慎二の様子に気づいたらしく、微笑を浮かべながら肘でそっと突いてきた。


「おい、教授がこっち見てるぞ」


 その言葉にハッとし、慎二は慌てて教科書に目を戻す。だが、教授の言葉が耳に届いても、頭の中に入る前にどこかへ消えてしまうようで、集中力がどこか空回りしている自分をもどかしく感じた。昨日のニュースがあまりにも大きなものだったため、まるで心が非現実の中を漂い続けているかのようだった。


 一限目が終わり、続く二限目も慎二にとってはどこか夢うつつの中で進んでいった。結局、彼は火星移住という驚きの現実と目の前の講義との間で揺れ動きながらも、授業を無事に終えることができた。すべてが終わり、教室を出た慎二と一也は、腹を空かせながら学生食堂へと向かう。


 食堂に到着した二人を迎えたのは、昼時特有の賑わい。学生たちが列をなし、食券機の前で絶え間なく注文が繰り返されていた。慎二と一也も長く伸びた列の最後尾に並び、順番を待ちながら講義についての話やアルバイトの愚痴などで盛り上がる。話に夢中になっていると、あっという間に二人の番がやってきた。


 慎二は迷わずカレーライスのボタンを押し、一也はお気に入りの唐揚げ定食を選択。食券を手にした二人は、今度は受け渡し口の列へと移動した。忙しそうに働く食堂のおばちゃんに食券を渡し、目の前に置かれたトレーに美味しそうな料理が順に並べられていくと、慎二の胸にふっと落ち着きが戻るようだった。


 混雑する食堂の中を歩き、ようやく見つけた空席に二人は腰を下ろした。


「やっと昼飯だな」


 一也はそう嬉しそうに言い、すぐに唐揚げを口に運ぶ。慎二も目の前のカレーライスをじっと見つめ、一口すくって口に運んだ。香辛料のスパイスが心地よく広がり、何気ない日常の一幕が体に沁み込んでいく。


「やっぱ、これが一番ホッとするな……」


 慎二はぼそっと呟いた。

 昨日の火星移住プロジェクト当選の興奮はまだ胸の奥で燻っているが、こうして友人と食堂で昼食を取っていると、どこか現実が少しだけ落ち着いて感じられる。遠くにあるはずの火星の夢と、目の前にある日常。二つの世界の間に身を置きながら、慎二は静かに食べ慣れた味のカレーを口に運び続けた。


「そういえば慎二、今日ずっとぼーっとしてたけど、何かあったのか?」


 向かいに座る一也が、慎二の様子を心配そうに伺いながら問いかけてきた。慎二は一瞬ためらいながらも、カレーをかきこみつつ、小さく息をついて答えた。


「『火星移住プロジェクト』の発表が昨日あったの知ってるだろ?」


「…あー、あれな。確か遊び半分で一緒に応募してたやつだよな。俺はあっさり外れたけど……」


 一也は少し肩を落とし、どこか寂しげな表情を浮かべた。ほんの少しの期待があったことを感じさせる微妙な間が流れ、彼の瞳が慎二に先を促す。


「で、それがどうした? 外れたことに落ち込んでたのか?」


 慎二はゆっくりと首を横に振り、手を止めて食べかけのカレーを置いた。そして、口元に微かな笑みを浮かべながら、少し誇らしげな目で一也を見つめた。


「いや、それがさ……当選しちゃったんだよ!」


「えっ!? マジかよ!」


 その瞬間、一也の声が食堂中に響き渡り、驚きと興奮が一気に彼の表情に広がった。その声に、周りの学生たちが驚いて二人を振り返り、不思議そうに見ていた。一也はその視線に気づき、少し赤くなって「すみません」と軽く頭を下げると、咳払いして真剣な表情に戻り、慎二をじっと見つめた。


「いきなりそんなこと言うから、みんなにジロジロ見られたんじゃねぇか!」


 慎二は少し笑いながら、「それは一也が大声出すからだろ」と肩をすくめた。その瞬間、胸の中に再び火星への期待がふつふつと湧き上がる。遥か遠い夢の地が、一也の驚きの反応で少しだけ近くに感じられるようだった。


 一也は「いやー、でも、マジでお前が火星行くなんてな……」と、少し羨ましそうに慎二を見て肩をすくめた。


「いいなぁ……俺なんて、あっさり落選だったよ」


「いや、俺も当選するなんて思ってなかったって」と慎二は苦笑しながら、さらに言葉を続ける。「そもそも俺は宇宙とか火星とか好きで、軽い気持ちで応募したけどさ。一也はそんな感じでもなかったろ?」


 一也は思い出したように笑う。


「確かに、あの時二人で飲んでてさ、酔っ払って勢いで応募したけどよ……でも、なんかお前だけ当たるとちょっと悔しいなぁ。負けた気がするっつーか?」


「いやいや、何の勝負だよ?」


 慎二は笑いながらツッコみ、半ばあきれた表情を見せる。


 一也もニヤニヤしながら肩をすくめ、「俺の気持ちの問題だって。お前が当たったって聞いて、急にライバル心が湧いてきたっていうかさ」と茶化すように言った。


「一也の俺への対抗心、勝手に成長しすぎだろ!」


 慎二も負けじと笑顔で返すのであった。

 しばらくの沈黙が流れ、慎二がふと真面目な顔で言った。


「でもさ、もし俺が火星行ったら、お前もちゃんとここで元気にしててくれよ? あと、『火星に行ったやつに奢ってもらおう』とか変なこと言い出すなよ?」


 一也は笑って、「いや、当たり前だろ? むしろ火星土産の小石とか期待してんだからな!」と軽くウインクし、二人はまた声を出して笑った。


 食堂のざわめきに包まれながら、慎二と一也は火星移住の話から離れ、いつものような気楽な昼食を楽しんでいた。カレーのスパイスが香る空気の中で、箸やスプーンが軽やかに皿を叩く音が心地よく響く。自然と会話の流れは他の話題へと移っていった。


「ところでさ、最近新しいゲームが出たんだってさ。めちゃくちゃリアルなARゲームで、もうすでにSNSでも話題らしいよ」


 一也が少し前のめりになって話す様子に、慎二は興味を惹かれたように顔を向け、目がわずかに輝く。


「なにそれ、知らないんだけど!」


「街全体が舞台になっててさ、リアルタイムでクエストをクリアしていく感じらしい。昔あったポケモンGOみたいな位置情報ゲームっぽいけど、NPCがARで出てきてバトルしたり協力したりするんだよ。しかも、見た目がめっちゃリアルらしい」


 慎二はスプーンを握りながら笑みを浮かべ、「それ、面白そうだな!」とワクワクした様子で言う。


「今度一緒にやってみようぜ!」


「いいね、やろうか!」


 一也も嬉しそうに頷く。どこか火星の話をしていたときと違って、二人の会話は完全に現実の楽しみへと戻っていた。


 一也がふと手を止め、思い出したように続ける。


「あと、例の映画も一緒に行こうって言ってたのに、まだ行ってないよな?」


 慎二も「ああ、そうだったな!」と相槌を打ちながら、空になったカレー皿をぼんやり見つめる。


「上映終わる前に行かないと。…火星行く前に、やり残したこと全部片付けるか!」


 そう言って慎二は冗談めかして笑った。


 一也も冗談を返すように、「お前、火星に行くからって調子に乗るなよ?」と軽く肩を叩き、二人はまた笑い声を響かせた。


 食堂の喧騒の中、二人はゲームや映画、最近あったおもしろい出来事など、次々に話題を飛ばしながら、何気ない日常の楽しさに浸った。慎二はふと心の片隅で、こうした何気ない瞬間を一度手放し、遠い火星へと飛び立つのだと思うと、少しだけ現実が色濃く感じられた。


 昼食を終え、慎二と一也は食堂を後にする。

 ふたりとも三限目の講義がないため、大学を出てスクールバスの停留所へと向かう。バスを待つ間、風が吹き抜ける中で少しひんやりとした秋の空気を感じ、二人は一息つくように空を見上げた。遠くに流れる雲をぼんやりと見つめながら、火星やゲームの話をしていたときの興奮が少し静まり、二人とも穏やかな表情に戻っていた。


 スクールバスが到着すると、乗り込んだ二人は朝と同じように並んで座った。車窓から流れる景色を見ながら、時折思い出したように軽く冗談を言い合い、大学から駅までの短い時間を楽しむ。やがてバスは駅に到着し、慎二と一也はホームに向かう人々の流れに紛れて歩き出した。


 駅の前で立ち止まり、軽く手を振って「じゃあな、また明日な!」と一也が軽快な声で言った。


 慎二も「おう、またな」と笑顔で返し、友人と別れる。


 一人になった慎二は、次の電車の時刻を確認し、少しぼんやりとホームに立っていた。朝からの火星移住の興奮も、一也と笑い合ううちに少しずつ落ち着き、今は現実の感覚がじわりと戻ってきている。しかし、家へ直行できる日なら気楽だが、今日はバイトがある。それを思い出すと、どこか気が重くなるのを感じた。


 やがて電車が到着し、慎二は乗り込み、座席に腰を下ろした。窓の外を流れる景色を眺めながら、目の前に待つバイトと、夢に見た火星移住の間に挟まれているような、不思議な気持ちが胸を満たしていた。夢と現実が交差するこの瞬間が、どこか心地よくもあり、少しだけ寂しくもあった。


 二駅先で降り、慎二はいつものバイト先のスーパーへと足を向けた。制服に着替えながら、火星への夢を一旦心の奥にしまい、いつも通りの日常に身を預ける。けれど、その奥で静かに高鳴る胸の鼓動が、彼にそっと語りかけているようだった。


「こんないつもの生活も、もう少しで終わりかな?」


 そう思いながら、慎二は微笑みを浮かべ、静かにいつもの日常へと戻っていった。

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