千五百秋

堕なの。

千五百秋

「はじめまして。ちいほあきです。千五百に秋って書きます。よろしくお願いします」

 いつもの笑顔でいつもの自己紹介。中学校生活も三年目で、田舎にあるこの学校の殆どの人間は小学校の頃から一緒だ。だから最早意味はなくなったのに、新学期のお決まり行事を新任の先生はさせた。横浜出身だと言っていたから、おそらく横浜の教員採用試験に落ちて田舎に来た口だと思う。何故私がという不遜な態度と、私たちを心の奥底では馬鹿にしているような視線が刺さってくる。クラスの人達はしきりに都会での生活を聞いていたけれど、私には何も面白いと思えなかった。

 南の田舎だから、最近は暖冬の影響で桜が咲きづらくなってきた。皆んなはえー、と言ってそれでおしまい。でも私には、咲けなくなった桜がずっと脳裏にいた。別に特別好きだという訳では無い。確かに、同年代のクラスメイトに比べれば季節感を大事にする方だが、それが桜でなくてはならない理由は特になかった。今までも、咲いたら綺麗と言ってそれでおしまい。だったのに、今はいつか消えるかもしれない桜が惜しくて仕方がなかった。

 前髪を卒業式まで伸ばそうと思って止めた桜のピンに触れる。金属特有の冷たさが指先に当たる。桜の気配を宿すことのないただの造形物は、ここ数週間ずっと私の頭に鎮座していた。

 開いた窓から入ってきた桜の淡桃が頬を濡らす。正確には桜の花弁が頬に着地しただけだが、瑞々しく湿った花びらは私にそう錯覚させた。左側の窓の外には葉が生え始めた桜が咲く。若緑色の葉と桜の交じる葉桜も、私は好きだった。少なくとも意味のない授業や女子同士の馴れ合いに比べれば、比べることも失礼なくらい意味のあるもののように思えた。

 欠伸を噛み殺して、先生にバレないようにスマホを取り出した。ゲームを周回してログインボーナスを貰っていく。動画を見て貰えるタイプの物も忘れずに。

 どこかのゲームがサ終のお知らせを流していたから、アプリをアンインストールした。それなりに気に入っていたのに、と思いつつもあまり惜しく思っていない自分も感じていた。ゲームは所詮ゲームだと、割り切っているからだろうか。その所詮ゲームを授業中にやっているのだから不真面目極まりないが、バレたことはなかったし、成績も常に四以上だった。だから問題はない。だが、そこまで習慣化しているのなら、矢張り私はゲームに多少は取り憑かれているのかもしれなかった。

 ゲームでやらなければいけないことは、一時間目の半分くらいで終わる。後は絵を描いたり、髪を弄ったり、窓の外を神様気分で眺めてみたりしている。

 今日は、窓の外をぼうっと眺めた。

 犬を散歩させるおじいさん。毎日同じ時間に、同じ場所を通っている。時折目があって、手を振ってくれるからこちらも先生にバレないように振り返す。他は、一日中ベンチに座って煙草を吸っているだけのおじさん。今日も紙煙草を吸って、子供連れのお母さんに避けて通られていた。後は、そこに近づく去年の担任。なぜかいつもシガーキスをして火を貰っている。男同士なのにとか、知らない不審者の格好をしたおじさんなのにとか、そんなの見たらクラスの女子が発狂するくらいにはイケメンなのにとか。思うところは色々あったが、おじさんといるときの先生が本当に笑っていたから何か不躾なことを思うのは辞めた。

 先生がシガーキスをしている瞬間を見たことはない。いつもその瞬間、葉や、この時期であれば桜の花弁が舞って二人を隠すのだ。まるで意思を持ったかのように動く風に、先生たちは愛されているなあと思った。

 今日は風が前髪を揺らして見えなかった。辛うじて何か白い紙を手渡しているのは分かった。

 ぱっつんにしたはずの前髪は、眉毛などとうに越して目に被さっていた。後ろ髪も沢山の枝毛が出来て、髪質も悪かった。施設にそんなもの期待するなという考え方のほうがあっているのは分かっていたし、私も自分より歳下の子に言ってきた。そう思わないと、やってられなかった。

 教室の黒板に目を向ければ、細かい文字で板書が為されている。今から写すのは無理だろう。あれは、先生の話を一言一句聞き漏らさないで初めて解読できる文字だった。だから、早々に板書は諦めて今日の範囲の教科書を見た。どうせ高校など近くの公立に行くのだから、勉強はあまり必要なかった。面接で馬鹿なことをしなければ受かるレベルの高校。だから、心配などしていなかったし、意欲もモチベーションも持ち方が分からなかった。

 文字の上を滑る視線は、おおよそ意味のない行為だった。強いて言うのであれば、先生に連絡されないようにするカモフラージュとして機能しているかもしれない行為だ。だが、結局それも憶測でしかない。

 教壇に立つ教師の顔がアホ面にしか見えない。よく言う話だ。教師は学校を卒業して学校に戻って来る。だから社会を知らない大きな子供であると。もちろん職業差別であると分かった上で、馬鹿な存在だと思う。それを尊敬しろという田舎特有の押しつけが私は嫌いだった。じゃあ都会が好きかと聞かれるとそういうわけでもなく、ただこの社会は私が生きることに向いていなかった。社会は反対方向を向いていて、私も目線を合わせる努力をするのは億劫で、負けた気がするので矢張り反対方向を向いていた。だから、私には他人が理解できなかったし、他人から自分の気持が理解されたと思ったことも一度もなかった。何方にしても、お互いが遠い存在だった。

「それでは今日の宿題です。自分の名前の由来を調べてきてください」

 先生がそう言いながらプリントを配り始めた。ああ、またこれかという感じである。小学生の頃にもやった課題。四字熟語が名前になっている私にとっては、親がいなくたって予想だけで完璧に書ける課題。だから配られてすぐに、『永遠を願って』と書いた。


『永遠を願って』

三年一組十八番 千五百 秋

 千五百秋という四字熟語の意味は永遠です。母は、私になるべく長く生きて欲しいという意味を込めて、この名前を付けてくれました。

 私の母親は、幼い頃から病気がちの子供でした。いつもベッドに寝てばかりで、時々外に出てもすぐに疲れて部屋に戻ってばかり。だから外で遊べる子が羨ましかったし、自分の弱いからだが疎ましかったとも言っていました。だから自分の弱い身体から生まれてしまった娘だけは健康に幸せに生きて欲しいという意味を込めてこの名前がつけられました。

 母はもうこの世にいません。私を生んだすぐ後に力尽きて死んでしまいました。だから私は母の分も精一杯生きようと思います。それが、私にとっての最大の母への恩返しだと思うからです。


 涙腺のテンプレートのような作文を作る。本当はこんなこと思っていない。永遠などこの世に存在するはずのない名を付けた母親が理解できなかった。私が生まれてすぐに失踪した父親は論外だが、あれも名前の選考には関わっていたらしい。何を思ったらそんな名前が付けられるのか、私には理解できなかったがそんな名前になってしまったのだから仕方がない。私に出来ることは早くおとなになって名前を変えるか、さっさと結婚して名字を変えるかの二択だ。秋という名前はありきたりで特別なものではないのだから。

 先生の作文の注意点を聞き流して、一時間目終了のチャイムが鳴る。二時間目も教室で、社会の授業。あのシガーキスをしていた先生の授業だった。ヤニカス酒カスパチンカスの三大カスを凝縮したような先生だったが、イケメンであるというただ一点のみでモテた。それが知らないおじさんのものなのかもしれないというのだから、人生は分からないものである。

 それを言うと確か、私の父親もカスを詰め込んだ人間だったと誰かが言っていた気がする。面だけは良い父。一時期は母親の実家に引き取られていたが、彼らは父親を毛嫌いしていたため私は父親の顔を知らなかった。ただ、面だけが良い男と祖母が話しているのを聞いてしまったのだ。詳しいことは何も知らないが、私の中ではあの教師と輪郭が重なって見えていた。

 先生が色目を使ったガキに囲まれて教室に入ってくる。それに鼻の舌を伸ばしているように見えて気持ち悪いと思った。中学生相手などロリコンである。

 いつもなら授業時間ギリギリまで教室の前のドア付近で話している。だが、今日は窓際の席、というより私の席に近づいてきた。

「千五百、お前の親父さんから手紙だ」

 先生の言葉に思考が止まった。父親と先生が知り合いなのに、私が一度も会ったことがないというのはおかしな話だ。父親は私に会いに来れる圏内に居ながら、会いに来なかったというのだから。その癖、先生経由で手紙を渡そうとしてくる。

 理由もわからないまま受け取った手紙からは苦い香りがした。私の間違いでなければ煙草だ。おじさんが好みそうなフレーバーの。

「これ、シガーキスしてた相手から貰いましたか?」

「へ? してない、してない」

 先生は焦っている様子だった。これでは肯定しているも同然で、周りの女子からの痛い視線が刺さってくる。

「先生、早退します」

 鞄の中に引き出しの中のものを全部詰め込んで教室を飛び出した。休憩時間中で廊下で駄弁っている人の間を縫うようにして走る。運動は苦手で、息が切れて、それでも足は止めなかった。目的なんてない。会ったって別人かもしれない。それに、向こうは会いたがっていないのだろう。それでも、心より先に体が動いて、無我夢中で走った。下に着いた時おじさんはベンチにはいなくて、角を曲がりそうなところに見つけた。

「待ってください! お父さんですよね」

 その人は困ったような顔をして振り向いた。ほら、やっぱり会いたくなかったんだよ。そんな囁きが心を占める。それでも止まれなかった。

「千五百秋です。貴方の、」

「ごめんな」

 諦めたようにおじさんは近づいてきた。気まずそうな笑みを浮かべながら。

 おじさんは煙草の火を消して路上に捨てた。私が嫌な顔をすれば、それを拾ってポケットにしまった。

「悪かった。俺からの、父親として最初で最後の贈り物だ」

 複雑な感情が混ざりあった表情を、私は見つめていた。初めて繋がった視線を切ったのは向こう、身を翻してこの場を去ったのも向こう、最後を明言したのも向こう。その引かれた線を飛び越えられなかったのは私だった。

 空は、きらきら。桜は、ひらひら。彼は、くるくる。私は、ふらふら?

 気づけば秘密の場所に来ていた。子供の頃、一人で作った私の秘密基地。誰かに知られたくないことや、嫌なことが会った時に逃げ込む私だけの大切な場所。

 そこで手紙の封を切った。入っていたのは一通の手紙だった。


秋へ

生まれてすぐに逃げたこと、そばにいることを選べなかったこと、愛してあげられなかったこと、本当に申し訳なく思っています。私にとって貴方の母親は何よりも大きな存在でした。だからこそ、貴方を産めば死ぬと分かった時、私は出産を止めてしまいました。しかし貴方の母親の決意は固いので、時間とともに私の方が折れました。そして貴方が生まれてくるまでに心の準備を決めて、しっかりとした父親になろうと思いました。

貴方が生まれた瞬間、息が弱くなっていく貴方の母親と元気に産声を上げる貴方の存在は対象的でした。決めたはずの決意など崩れ去って、父親として言ってはいけないことを口走りました。だから、貴方の父親にはなれないと思いました。こんな自分ではいつか虐待めいたことをしてしまうのではないかという危惧を感じました。

それに、これは結果論ではありますが、一人になった後の私は職を失い賭けと遊びに日々を浪費するようになっていました。貴方といたらもしかしたら違う人生を送っていたのかもしれません。しかし、貴方をこの人生に巻き込む道もあったのです。そう思えば、手放して良かったと、再度思ってしまいました。

私はどうしようもなく親として失格なのです。それでも、貴方が生まれてよかったのだと、貴方は生まれるべきだったのだと心の底から思っています。貴方の母親と一緒に名前を決めた際、千五百という名字ですから、秋という名前が候補の一番に上がりました。しかし、永遠を望むとは酷な話です。もちろん貴方の母親は身体が弱かったですし、健康に末永く生きられることが幸せだという共通認識はありました。ですが、それを子供に強要することは違うという感覚もありました。それでも、なるべく長く生きて欲しいと思いましたし、いつか私達が貴方の側から離れる日が来ても永遠に近くにいると、貴方の名前に託したかったのです。母親は死に、私も貴方が生まれてすぐに離れてしまったので、それを伝える間もなくその日が来てしまいました。ですが、これだけは伝えたかったのです。自分の意志で離れたくせにと言われればそれまでなのですが、呪いのような名前だけ残されたと思われては、貴方の母親に顔向けも出来ませんから。勿論、こんな状態で顔向けなど出来るはずもないですが。それでも、今を生きる私にとって出来ることを探した結果、この手紙を書くという結論に至りました。

こんな手紙を出したことが身勝手であることは重々承知しています。しかし、これは貴方は愛されて生まれてきたのだと分かってほしい父親からのエゴです。必要なければ捨てても構いません。

最後に、貴方の母親も、勿論私も、貴方を愛しています。どちらも貴方の親にはなれなかったかもしれないけれど、それでも貴方は祝福されて生まれてきた存在なのです。どうかこの手紙を渡すという最後の我儘を許してください。それ以外は許さなくて構いません。許さないでください。ですから、どうかこの言葉が貴方に届けば幸いです。

父より

2010.12.25


「分かんないよ。そんなの」

 零れた言葉と涙が落ちて、湿った地面に音もなく吸い込まれる。

 一年と少し前に書かれた手紙。あの教師の胸ポケットに煙草が常駐するようになったのもその時期だった。非常に腹立たしいことではあるが、あの教師の存在で、私の父親は少しだけ前を向いて私と向き合うつもりになったようだ。本当に少しだけだが。

 手紙から顔を上げる。最近は訪れることもなかった秘密基地は崩れかけだ。少しでも押せば、もう二度と再建できない空間がここにある。

 私は手紙を封筒にしまって地面に置く。そして秘密基地から出て、壁を押した。小さな空間が音を立てずに崩れていく。そこにある過去と一緒に。

 一方的に手紙越しに思いを伝えられた。いや、投げつけられた。それはズルいだろうと思う。次父親と話すときがあるとしたら面と向かってだ。もう二度と手紙越しになんて話さない。

「バーカ」

 私にしては珍しい、幼い言葉がふと出て、ああ、父親なんだと、今更ながらに感じた。

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