ヒーローの誕生
昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのか、佐藤修平はまだ判然としていなかった。目覚めた彼は体中がだるく、妙な筋肉痛を感じていたが、それ以上に昨晩のコンビニでの出来事が頭から離れなかった。
「俺、本当にあんな動きをしたのか?」
朝の支度をしながらぼんやりと考えていると、スマートフォンに通知が届いた。何気なく開いたSNSには、昨夜のコンビニ強盗事件の様子を撮影した動画がアップされていた。タイトルには大げさな文字が並んでいる。
「#酔拳マン登場」「#謎のヒーロー」
動画の中で動き回るのは紛れもなく修平だった。ふらふらとした不規則な動きで相手を翻弄し、まるで酔拳の達人のように強盗を倒している。
「嘘だろ…これ、俺なのか?」
動画のコメント欄には「すごい!」「映画みたい!」という称賛の声が並ぶ一方、「やらせじゃないか?」という疑念の声も混じっていた。それを見た修平は、どうにも信じきれない気持ちでいっぱいだった。
「いや、俺にこんなことできるはずがない。たまたまだ…」
そんな疑念を抱えたまま、修平は通勤電車に乗った。満員電車の中で吊革につかまりながら、昨夜の出来事を反芻する。ふと顔を上げると、視界の端で一人の中年男が妙な動きをしているのが目に入った。彼の手は近くの若い女性のスカートに伸びている。
「痴漢か?」
普段なら見て見ぬふりをしてしまいそうだったが、修平の足元にはいつの間にかクロがいた。通勤電車の中に猫がいるという非日常的な光景に驚く暇もなく、クロがじっと修平を見上げる。その目が光り、再び体にあの酔ったような感覚が走った。
「またか…!」
次の瞬間、修平の体は自然と動き出した。ふらふらとした足取りで痴漢に近づくと、彼の腕をつかみ、ぐるりと回転するような動きで倒してしまった。周囲の乗客は一斉に驚きの声を上げた。
「何やってるんだ!」「あの人、酔っ払ってる?」
だが、倒れた男が痴漢行為を認めた瞬間、修平への視線は一転した。
「すごい!」「さっきの動画の人じゃないか?」
再びSNSに「酔拳マン」が話題となった。その日、修平は職場でも同僚から「昨日の動画見たぞ」とからかわれ、どう答えていいか分からず曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。
それから数日、修平は何度か偶然に悪者と遭遇した。近所のスーパーマーケットでの強盗事件では、店内に突然押し入ってきた男たちを酔拳の動きであっという間に制圧した。また、夜道で年配の男性を狙う若者たちを見つけたときも、クロの力を借りて彼らを懲らしめた。いずれの場面でもSNSに動画が投稿され、「酔拳マン」の人気はますます高まっていった。
「俺、本当にヒーローみたいになってるのか?」
最初は半信半疑だったが、動画や写真がSNSで拡散されるにつれて、修平の中に自信とともに小さな驕りが芽生え始めていた。道を歩けば、時折「あの人じゃない?」と囁かれる声が聞こえるようになり、心の中で誇らしさを感じていた。
だが、職場での修平の姿勢は一層だらけていった。夜に酔拳マンとしての活動が増えた影響で、昼間は疲れ果てて居眠りすることが多くなったのだ。同僚たちの中には冷ややかな目で見る者もいれば、「あの動画の人が…」と温かい目で見守る者もいた。
「最近君どうした?…あの噂が君とは思えんしなあ。夜遊びでもしてるの?」
動画を知らない上司に軽く注意されるたびに、修平は「すみません」と言いながらも内心では「俺には夜にやるべきことがあるんだ」と自分を正当化していた。だが、どこかで薄々気づいていた。酔拳マンとしての自分が本当に正しいのか、疑問を抱き始めていたのだ。
ヒーローとして持ち上げられる一方で、修平の日常にはほころびが広がり始めていた。その背後で、クロは静かに彼を見つめていた。
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