第50話


 夕食の時間になっても未亜は帰ってこなかった。それどころかラインに既読すらつかない。


 僕はぬぐい切れない不安を抱えながら運ばれてきた夕食を食べた。


 地元の和牛を使ったステーキをメインにした豪華な夕食だった。運ばれてきたのは僕の分だけだった。未亜が夕食に間に合わないことは連絡済みであったらしく、給仕にきた職員が「お連れ様はまだご到着なさらないということです」とだけ言って帰っていった。


「そうならそうと、先に言っておいてくれればいいのに……」


 静かな部屋の中に食器の擦れる音が響く。森閑として、ひっそりとした室内が金属音に悲しい響きを含ませて、僕に返ってくる。冷たく鋭い光沢を帯びた響きが鼓膜を引っかき、かき回す。


 こんな気持ちで食事ができるわけがない。


 ガラにもなく苛立ちを感じていた。


 僕は食事をやめて立ち上がったり、また椅子に座ったり、落ち着くことなく部屋を歩き回った。


 どうして苛立つのか自分でも分からないが、言いようもない悪寒が後から後から湧いてきて、そうして部屋を歩き回るたびに返ってくる音がいちいち鼓膜を刺激してさらに苛立つのだ。


「事務所のやつらは僕のことなんて守ってくれないだろうな……くそ、もう自分の身の安全だけを考えてやる。あんなやつら、僕を使い捨てる気なんだから遠慮する必要もないな。……一度、シャワーでも浴びて雑念を流そう」


 食事を中断してキャリーケースに手をかけた。このまま部屋の中をうろついていたって仕方がない。時間は有限。もうすぐ未亜が帰ってくるかもしれないのだから少しでも炎上を抑える手立てを模索するべきだと考えた。


 昔から、シャワーを浴びていると不思議と頭が働く気がして、よく考えがまとまる。だから僕は大事な考え事をするときはシャワーを浴びながらするようにしているのだけど、ふいにスマホに着信が入った。


 見ると、アイツからメッセージが数件入っており、部屋の鍵を開けてほしいという旨の文章がズラリと並んでいる。まだ8時には早いというのにいったいどうしたのだろう? 僕はキャリーケースを閉じて、鍵を開けた。


「なんだよ。約束の時間にはまだ早いぞ」


「申し訳ありません。何度もメッセージを送ったのですけど、お返事がなかったもので……」


「いったい何の用なんだよ、まったく……」


 僕が顔をしかめるとアイツは申し訳なさそうに顔を伏せた。


「でも、香月さんが汗をかいたからお風呂に行こうと言い出しまして……やむを得ず逃げてきたのです」


「ああ、なるほど。いまスマホを見た」


「まあ、そういうことです」


 コイツはブラウスの襟をはためかせて赤い顔を扇いでいる。急いできたというよりは恥ずかしい目にあったというような顔だった。


「大変です。助けてください。お風呂。早く。助けて。スマホ見て。……よっぽど焦ってたんだな」


「そうですよ。いつまで待っても返信が無いので仕方なく、あなたと会う約束をしていると言ったら、これからデートなんですね! とか言い出して本当に恥ずかしかったんですから!」


「そりゃすまなかった。まあ、部屋でゆっくりしてけよ」


 僕が手招きするとコイツはすんなり入ってきた。


 もしここに未亜が現れたらとんでもないことになるが、もういっそ、とんでもない事になれという思いで僕は誘った。すんなり入ってくれて助かった。


 なんの疑いもなく部屋に入ったヤツはベッドに腰掛けると「私の部屋とさほど変わりませんね」とのんきなことを呟いた。


「んで、風呂から上がるまで待つつもりか? 僕は食事の途中なんだが」


「あら、お部屋で食べているのですか? せっかくレストランがあるんだからそっちを利用すればよかったのに」


「いいんだよ。僕は人込みが苦手なのだ」


「ああ、そうでしょうね」


「わかってるなら言うな」


 僕はそう毒づいておいて椅子に座った。食事を続けるためだ。いまの精神状態は正直言って荒れている。とても料理を楽しめるコンディションではないのだけれど、味わっているふりをしなければならない。


 コイツを放っておいたら何をしでかすか分からないのだ。勝手にキャリーケースを開けるかもしれないし、スマホだって見られるかもしれない。未亜の着信が入ったら最悪だ。


 非常事態を避けるためには食事を続けるしかないのである。


「お前はもう食事を済ませたのか?」


 そう訊ねてステーキを一切れ放り込んだときだった。


 スマホが着信を告げた。

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