疑心暗鬼の交換殺人

森本 晃次

第1話 美術部入部

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年8月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。本来であれば、考えられないことも敢えて今回は行っております。そもそも、交換殺人というものがどういうものか? ということになります。


 安西という男がいる。

 この男は、今年30歳になるが、この年になるまで、彼女もいなかった。ただし、童貞というわけではないのは、ずっと童貞を貫いていくという雰囲気だった安西を見かねて、会社の先輩が、風俗に連れていってくれたのだ。

「俺はいいですよ」

 とは言ったが、安西に、どうして彼女がいないのかということを、ウスウスではあるがわかっていた先輩としては、見て見ぬふりができなかったというべきであろうか。

 この時までは、結構、お金に困っているわけでもなく、むしろ、お金は余っている方だったというのは、本人曰く、

「株で儲けたからだ」

 ということであった。

 先輩は名前を、萩原といい、会社には内緒で株をやっているということだった。

 風奥に連れて行ってもらった時は、株の話はまったくしていなかった萩原だったので、

「どうして、この先輩は、こんなn羽振りがいいんだ?」

 と思っていたのだった。

 安藤という男はガタイもしっかりしていたので、

「きっと、大学では体育会系の人なんだろうな」

 と、安西は考えていた。

 安西はというと、インドア派で、絵を描いたり、小説を書いたりしていて、趣味というと、

「芸術系」

 のことがほとんどだ。

 ということであった。

 中学、高校と、美術部で、

「ずっと絵を描いていた」

 という。

 大学に入って、小説を書くようになり、

「いくつか、ミステリーを書いたことがある」

 という。

「絵を描いている時は、音楽を聴いたり、他のことが耳に入ってきても、別に気になることはなかったけど、小説を書いている時だけは、まわりの雑音を気にするようになっていた」

 ということであった。

 小説を書くということは、それだけ集中するということであり、

「入り口と出口をまず考えて、そこから内容を作っていく」

 というのが、自分の作法だという。

 つまり、

「入り口と出口が、設計図でもあるプロットだ」

 というもので、

「内容に入ってくると、それが、本文だ」

 ということであった。

 小説を書く時、プロットというのは、

「カチッと描かないと気が済まない」

 という人と、

「大まかにしか書かない」

 という人がいる。

 そのどちらも性格によるものなのだろうが、

「大まかなプロットにする」

 というのは、ある意味、融通の利くというもので、ストーリーが、途中で変わることもあるだろう。

 しかし、そのような、ブレるプロットであれば、

「せっかく頭の中にあったアイデアが、プロットという形になって出てくると、肝心の部分が、抜けていたりして、書いていて、実際にブレるのではないか?」

 と感じてしまう。

 しかし、プロットをカチッと書いてしまうと、その内容に満足してしまって、本文を書く時、ふくらみがまったく感じられないような話になり、プロット以上のものが内容のはずなのに、それが出来上がるわけではなく、プロットが、そのままのストーリーとなり、結果、短編しか書けないということになってしまう。

 ということであった。

 だが、安西は、プロットを、

「大まかで曖昧なもの」

 としてしまうということであった。

 だから、小説を書く時は、

「かっちりとしたプロットは書かない」

 と話していたが、実際には、

「書かない」

 というわけではなく、

「書けない」

 ということだったのだ。

 だから、プロットというと、コンクールに出す時のあらすじのようなものなのかも知れないが、安西にとってのプロットは、あくまでも、大まかなものであり、

「プロットと本文はまったく違ったものになったとしても、それは致し方のないことだ」

 というようになっていたのだ。

 小説を書くということがどういうことなのか、それを考えると、

「プロットを書くのが一番苦手だったな」

 ということを思い出すのだった。

 コンクールなどに出す、

「小説のあらすじ」

 というのは、少し面倒なものであった。

 というのも、

「どのように書けばいいのか分からない」

 ということである。

「書いていいのか?」

 ということと、

「書けばいいのか?」

 ということでは、ニュアンスが違っている。

 というのも、

「書かなければいけないことがある」

 という場合は、後者であろう。

 しかし、

「書かなければいけないわけであり、それをどのように表現すればいいのか?」

 ということが問題の場合は前者であろう。

 ただ、どちらも、書かなければいけない場合もあるが、その時は、前者の方が積極的で、後者の方が、堅苦しい気分になる。

 まるで、

「前者が、権利のようなイメージで、後者が義務」

 といった雰囲気であろうか?

 それを考えると、

「言葉の言い回しとは難しいものだ」

 と思えてくる。

 しかし、小説を書いている時は、そこまで細かく考えることはない。細かく考えてしまうと、先が続かなくなってしまうからだ。それこそ、

「考えすぎる」

 ということになってしまうということであろう。

 考えすぎてしまうと、文章が出てこなかったり、

「プロットを細部にわたって書きすぎると、本文を書く時に、融通が利かなくなってしまう」

 ということになるだろう。

 中学、高校と、絵を描いていたのだが、本当はできれば、小説が書きたかったのだ。それが絵画に走ったのは、プロットを書くということができなかったからだ。

 プロットを作らずに、

「書いてみよう」

 と思ってやってみたが、その内容はさんざんだった。

 出来上がった内容は、一つの文章で、同じ言葉を羅列していたり、必要以上に接続しや、感嘆詞を書いていたりした。明らかな、

「文字数稼ぎ」

 だったのだ。

 実際には、中学生の時に、

「小説を書いてみよう」

 と考えたこともあった。

 ジャンルとしては、それまでによく読んでいた、

「ミステリー」

 だった。

「書くなら、ファンタジーじゃないか?」

 と言っているやつがいたが、ファンタジーのように、

「猫も杓子も」

 というようなストーリーは嫌いだった。

 正直、ファンタジーは読んだこともないし、アニメも見たことがなかった。

 だからというわけではなく、どちらかというと、皆が、

「ファンタジーを書く」

 というのが嫌だったのだ。

 確かにファンタジーというのは、売れ筋なのだろう。だからと言って、

「皆と同じ土俵」

 というのが、嫌なのだった。

 中学生の頃に、


面白い」

 と思って読んだミステリー、それも、結構昔の話で、

「探偵小説」

 と呼ばれるものだった。

 中学時代というと、

「小説は読むが、それ以外の文章系は苦手」

 だったのだ。

 小説といっても、ミステリーばかりで、しかも、戦前戦後の、

「探偵小説黎明期」

 と言われる時代だった。

 その頃は、探偵小説に限らず、娯楽小説は、検閲にほとんどがひっかかり、書いても、絶版などというものが多かった。

 そんな中で、

「時代小説の類はよかったみたいだ」

 と言われるが、

「戦いの中での、今でもある、勧善懲悪が、当局としては都合がよかったのだろう」

 ということである。

 実際に探偵小説というと、今でいうところの、ホラーや、SFなども混ざったようなものだったりした。

 だから、

「本格派探偵小説」

 あるいは、

「変格派探偵小説」

 などという言葉が出てきたりするのだった。

 本格派というのが、今でいう、

「推理小説」

「ミステリー」

 の類で、

「事件の謎解きと、主人公の探偵が、爽快に行い、その謎解きの見事さや、トリックなどで、読者を魅了する」

 という、狭義の意味での探偵小説だと言えるのではないだろうか。

 だが、変格派探偵小説というのは、

「猟奇犯罪」

「SMなどの異常性癖」

 あるいは、

「耽美主義」

 といった、中には精神疾患に絡むような状況を書くというもので、定義としては、

「広義の意味での探偵小説から、本格派以外のものをいう」

 ということになるので、それらが、

「SFであったり、ホラーであったりする」

 ということである。

 逆をいえば、

「広義の意味での探偵小説」

 というのは、

「本格派探偵小説」と「変格派探偵小説」から成り立っている。

 と言えるだろう。

 当たり前のことであるが、そこに、今でいう、

「SF」

 であったり、

「ホラー」

 が混じっているというのは、今までのSFであったり、ホラーを時系列で読んでくると、きっとわかってくることなのだろう?

 ただ、本格派探偵小説では、

「探偵の切れ味の鋭い解決編」

 というのが、実にうまく働いている。

 そこにトリックであったり、バリエーションとして、

「偶然に起こる事件」

 というものが、うまく働いているのではないだろうか?

 それが、作家の手腕というものであり、読み手は、その醍醐味を感じるということであった。

 中学、高校で描いていた絵画は、元々、不純な理由から始めたのだった。

 というのも、中学時代の美術部に、

「気になる女性が、部長としていた」

 ということからだった。

 その部長は、おとなしい人で、余計なことは、一切口にしない人だった。いつも、

「正しい位置」

 にいて、まるで、象徴のような存在だった。

 だから、ほとんど口を開くことはないが、言葉を発すれば、その重みは、結構なものだったのだ。

 小学生の頃から、

「女性はおとなしい人がいい」

 と思っていたのだが、それは、まだ思春期になる前だったので、自分で意識していなかったはずだった。

 しかし、中学に入り、

「今が思春期だ」

 ということを自覚すると、

「小学生の時に感じていた思いは、まさにその通りだった」

 といえるだろう。

 そんな美術部に入部した時、部長がニッコリと笑ってくれたことで、

「入ってよかった」

 と感じたのだった。

 中学に入った頃は、

「部活はしない」

 と決めていた。

 運動部に関しては、小学生の頃からの、

「喘息」

 というのが、影響し、医者からも、

「なるべくなり、運動部はやめておいた方がいい」

 と言われていた。

 実際に、部活の練習などを見ていると、

「普通でもあれだけきついのであれば、俺のような、病気があれば、命取りになりかねない」

 と思うのだった。

 というのも、

「運動部というところは、病気があろうがなかろうが、容赦はしない練習をする」

 と聞かされたことがあった。

「運動部の練習を見てみると、その内容は、昔でいうところの、しごきに近かった」

 他の部員が見れば、

「普通の練習」

 なのだろうが、

「練習という名のごとく、誰も文句も言わず、黙々とやっている」

 それを見ると、部長もキャプテンも、

「ああ、皆ついてこれているな」

 と思うに違いない。

 それが、

「運動部における。昔からの悪しきところだ」

 ということなのだろう。

 美術部に入ってから、帰り道では、運動部の連中が、途中のお店で買い食いをしている。もちろん、美術部は、

「買い食い禁止」

 なので、誰もしていない。

 しかも、これは、

「運動部であろうが、文化部であろうが同じだ」

 ということなのだが、誰もが同じ立場なのにも関わらず、

「俺は、文化部だから、黙っておこう」

 ということになったのだ。

「文化部と運動部の違いというのは、見ているよりも、感じている方が、激しい」

 といってもいいだろう。

 それだけ、運動部というところは、まるで軍隊のように見えるのであった。

 実際に、サッカー部に誘われたことがあった。別に入部希望のところに名前を書いたわけではなかったし、何よりも、サッカー部と関わったこともなかった。

 調べてみると、クラスメイトが、勝手に、安西の名前を書いたのだ。

「俺は、入部するつもりなんかない」

 というと、

「いや、悪い悪い、サッカー部の部長が、誰か入りそううなやつの名前を書いてくれということだったので、お前がすぐに頭に浮かんだんだよ」

 という。

 そいつの名前が、

「井上」

 ということだったので、クラスの50音順でいけば、安西の次が井上だったのだ。

 本人は本当に悪気はないということであるが、それにしても、冗談が過ぎるというものだ。

「俺は、入部希望なんかじゃない」

 というと、井上は、

「悪かったよ、そんなにムキにならなくても」

 というので、

「困るんだよ。俺は喘息だから、運動部は、医者から止められているんだ」

 というと、

「いやいや、喘息なんか運動すれば、治るさ」

 という、とんでもない理屈をいうのだった。

 本人は、ちゃんとサッカー部に入部しているので、そういう意味でも、仲間がほしかったということで、軽い気持ちだったのかも知れないが、

「ドクターストップがかかっているのに」

 という状態で、よく、ヘラヘラ笑っていられるものだ。

 それを考えると、

「まだまだ、病気というものに対しての認識が甘い連中が多い」

 ということであろう。

 それが、中学生だからなのか、それとも、成長していっても、皆がそうなのか、よく分からない。

「部活というものは、確かに、精神と肉体を鍛える」

 というのだろうが、昭和の頃のような、

「イケイケどんどん」

 であったり、

「スポーツ根性モノ」

 と言われるような、科学というものに真っ向から挑戦するマンガなどの時代は、

「今は昔」

 である。

 昔は、当たり前のように言われたことも、今では。

「迷信だ」

 ということもあるではないか。

 例えば、

「練習中に水を飲んではいけない」

 と言われてたという。

 今では、

「熱中症」

 であったり、

「脱水症状になる」

 ということで、水は飲むように言われるが、昔は、

「呑んではいけない」

 と言われていた。

 その理由としては、

「バテるから」

 ということであった。

 確かに、水を飲んで激しい運動をすると、

「お腹が膨れたようになり、横隔膜などが痙攣をおこす」

 などと言われ、

「それも危ない」

 ということであったが、飲むものも、プロテインであったり、スポーツ飲料、さらには、冷たすぎない水などであれば、問題はないということである。

 そういうこともあるから、運動部への入部は、

「禁止」

 ということだったのだ。

 それを理由も分からずに、勝手に入部希望に名前を書くというのは、許されることではなかった。

 確かに、そんな部員募集というのは、今の時代では、許されることではないが、

「これが昔からの伝統だから」

 という話をされると、こちらも、文句を言うのも疲れるというもので、

「とりあえず、入部希望ではありませんから」

 といって、怒りを込めて、言葉では、丁重に断ったのだった。

 そんな、サッカー部からの呪縛が解けたはずなのだが、名前を書いたやつとの仲は拗れたばかりで、

「あいつ、サッカー部を断っておきながら、どこの部活もやらないということか?」

 ということを言っているのを聞いて、最初こそ、

「あんなやつのために、俺がどこかの部活を始めるなんて、胸糞悪い」

 と感じていたのだが、美術部の部長が、

「お絵描きとか、一緒にしませんか?」

 といって、にっこりと笑ったのだ。

 もし、これが、

「お絵描き」

 という言葉ではなかったら、

「すみません、美術には興味がないんで」

 といって、断っていたはずだった。

 部長が、

「お絵描き」

 と言った瞬間、その顔を覗き込んだ時、思わず顔がニンマリとしてしまったのは、何かこそばい気分がしたからだろうか。

 部長がいうには、

「何か、声を掛けてほしい雰囲気を感じたんですよ」

 というではないか。

 ということは、

「声を掛けられたのは、部長の優しい性格からで、俺に対してだからというわけではないんだな」

 と感じたのだった。

 ただ、それでもよかった。

 今まで、部活の勧誘のブースからは、なるべく避けるようにしていたので、相手の顔も見たわけではない。

 だから、今回美術部の先輩の顔を見たことで、

「初めて、先輩の顔を正面から見た」

 と思ったのだ。

 今までも、断りながら歩いていた時もあったので、目が合ったということはあったかも知れないが、正面切って見たのは、この時が初めてだったのだ。

 さすがに、強引な勧誘というのは、ほとんどが運動部だった。

 特に武道関係は、しつこかった。

「俺の体型を見れば、武道には向かないのが分かるだろうに」

 と思ったのだ。

 身長も低く、華奢な身体だった。

「武道をやって、身体を鍛えれば、立派な身体になるぞ」

 と言われても、

「はあ、そうですか」

 としか言いようがなかった。

 相手は、

「実に清々しく誘ってくるのだが、断る方は、実にそっけない」

 その様子を見れば、運動部の勧誘が、何か情けないと思えてくるはずなのに、彼らは、まったく臆することはない。

 最初から、

「どうせダメだ」

 と思っているに違いないのだった。

 それを思うと、

「運動部というのは、根性論以外に何があるというのか?」

 と思うのだった。

 そんな運動部には、正直、閉口しているのだが、あまりここで文句を言っても、敵を作るだけで、

「自分の得にはならない」

 ということである。

 ただ、文化部であっても、運動部であっても、守らなければいけないルールはあるはずだ。

 それを、強引に押し付けのようにしてしまうと。うまく行くはずがない。

 それを考えると、

「俺には、部活なんて必要ないんだ」

 と結局のところ、そう思わさざるを得ないのだった。

 だから、もし、仲がいい人が、

「一緒に部活やろう」

 と言ったとうれば、きっと断っているだろう。

 なぜかというと、その理由として、

「もし、自分の身体のことで、部活に支障が出てきた時、辞めなければならなくなった場合、誘った友達を置き去りにしてしまうような気がするのだ」

 ということである。

 そこまで考える必要はないのかも知れないが、どうしても、気になってしまう。それというのも、

「自分がされて嫌なことは、自分からするようなことはしたくない」

 という思いから来ているのだ。

 それは当たり前のことだろう。

 自分がされて嫌なことをするとすれば、

「自分を攻撃してきたやつだけだ」

 と思う。

 しかも、

「何か策を弄するやつは、自分がされるということを意識していない」

 という心理があるのだから、

「相手に巨大ブーメランを投げ返す」

 というのは、実に気持ちのいいことではないだろうか?

 それを考えると、

「部活をするとしても、自分から人を誘ったり、誘われてもそれに乗らないようにしよう」

 か思うのだった。

 部活というものは、本来は楽しいもののはずなのに、人間関係でギクシャクすると、せっかくの楽しさも半減する。

 いや、半減どころではない。ほとんど楽しめない。

 しかも、いわくつきということになれば、マイナスになってしまって、一緒に、楽しむどころか、部活がお互いの垣根のようになってしまって、

「どちらかが辞めるか」

 あるいは、

「二人とも辞めてしまう」

 ということになりかねない。

 特に、安西の場合は、

「健康面の問題」

 なので、

「人間関係」

 ということよりも、もっと奥の深い問題になってしまうことだろう。

 だから、

「どこかの部活に入るのは、辞めておこう」

 と思っていたのに、まさか、

「入部するのが美術部だ」

 とは、思ってもみなかった。

「確かに部長のことを好きになったのは間違いない」

 と思うので、不純な理由であるということに変わりはないだろうが、それでも、絵画をやってみて、

「自分でも、なかなかじゃないか?」

 と感じることができるような絵が描けたのは、嬉しいことだった。

「ひょっとすると、才能があるのかな?」

 と勝手に思い込んだほどで、絵を描ける自分が、誇らしく感じられるほどだった。


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