カット西瓜

あべせい

カット西瓜



「おい、この西瓜、どこで買ったンだ」

「エッ、なァに」

「だから、いまおれが食べているこの西瓜だ。どこのスーパーで買ったンだって」

 オープンキッチンでコーヒーを淹れている主婦の西谷多摩希は、ダイニングで西瓜を食べている夫の正生を見て、首を傾げる。

 夫が言っている意味がわからない。

「その西瓜はいただきものよ。買ったものじゃないの」

「もらいものか。どこのどいつだ。こんな西瓜を寄越したのは!」

 正生は、腹を立てている。

 多摩希は、夫をこれ以上怒らせたら、手が負えなくなることを知っている。

 急いでキッチンを出ると、キッチンとダイニングを仕切る壁を回り、夫のいるテーブルのそばに立った。

「あなた、どうしたの。その西瓜、おいしくない?」

「いいから」

 正生は、テーブルにあるガラス容器に盛られた西瓜をアゴで示した。

 夫の悪い癖だ。ことばで言えばいいものを、身振り手振りでわからせようとする。

 夫婦は夫が5つ年上。そのせいか、怒ったとき正生は妻に対して、かなり横柄なもの言いになる。

 妻の多摩希はそういう夫が好きになれない。結婚して、13年にもなるのに、一向に直そうとしない。

 多摩希は、その夫の悪癖のせいで、心の底に日々沈殿していく不快なものを、近頃強く感じるようになった。

「何かおかしいのかしら」

 多摩希は、いつもの位置に腰をおろすと、ひと口大にカットされた目の前の西瓜を口に入れてみた。

「おいしいじゃない。なにがいけないの?」

「なにィ!? ちょっとかしてみろ」

 正生はそう言うと、多摩希が突き刺しているフォークを奪い、妻の分の西瓜を突き刺して、口に入れる。

「これなら、いい。オイ、おれのこの西瓜を食べてみろよ」

 正夫はそう言って、自分の西瓜をガラス容器ごと多摩希のほうに押し出す。

「どういうこと、かしら……」

 多摩希は、そう言いながら、夫の前にある西瓜を突き刺して口に入れる。

「クサイわ」

 なるほど、正夫が言うように、この西瓜は、まずいどころか、魚の生臭さが感じられる。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 この西瓜は、今朝、お向かいの豊美さんから、いただいたものだ。多摩希はそのときのようすを思い起こす。

 多摩希の西谷家と豊美の吾妻家は、一本の私道を囲むようにU字型に建ち並ぶ、6戸の建て売住宅のうちの2戸だ。

 西谷家と吾妻家は、公道に最も近い、Uの字の端の2軒で、私道を挟み、互いに向き合っている。

 6戸の建て売が出来たのは、5年前。スーパー、コンビニ、郵便局などが近いという好立地のせいか、すぐに完売となり、そのとき西谷家も吾妻家も相次いで入居している。

 ところが、一昨年、吾妻家の当主、すなわち、豊美の夫が病気で亡くなり、以来、豊美は孤閨を強いられている。

 今日の正午少し前だった。

 多摩希がチャイムの音で、玄関ドアを開けると、

「奥さん、これ。いただきものなンだけれど……」

 豊美がそう言って、サラダ用ボールを差し出した。

 ボールには、ゴルフボール大にカットされた西瓜が盛られている。

 その中に、ソフトボールの半分ほどのプラスチック容器が別にあり、その中にもカット西瓜が入っている。

「この容器のほうは、ご主人に差し上げて。同じ西瓜なンだけれど、種を全部とってあるの。ご主人、西瓜の種、お嫌いだったでしょう」

「ええ、まァ……」

 多摩希はことばを濁した。

 西瓜の種が苦手なのは、妻の多摩希のほうだった。何かの折り、豊美と果物の種のことが話題にのぼり、多摩希は、

「うちの主人は、種のある果物は食べないの。だから、果物の季節になっても、なかなか買えるものが見つからなくて……」

 ついつい言ってしまった。

 こういうことを言っておけば、贈り物をしてもらうとき、果物なら種無しを選んでくれるだろう。さもしい思惑からだった。

 昨年、正生が勤務する役所で異動があり、正生は道路課から住民課に移った。そのためか、西谷家にはそれまでかなりの数があった中元や歳暮の類いが、滅多に来なくなった。

 多摩希は、豊美からもらったカット西瓜を冷蔵庫にしまうとき、別容器の種無しをその容器から出して、種ありと一緒にしてしまった。何気なくだ。

 気がついてから、シマッタと思ったが、どうせ、正夫は種ありでも平気なのだから、いいだろうと大して気にもとめずに、夕食後のデザートとして、食卓に出した。

 正生がまずいと言ったのは、明らかに種ありのほうだった。

 多摩希が、残っている西瓜をそれぞれ口に入れて食べ比べ、導き出した結論だった。

 これは、いったいどういうことなのか。向かいの豊美は、わざわざ魚臭い西瓜を寄越したのだろうか。

「向かいの奥さんが寄越したのか。そうか……」

 正生は、何かを感じ取ったのか、急におとなしくなった。

「でも、豊美さんも、いただきものと言ってたわよ」

「うーむ」

「こういうとき、注意してあげたほうがいいわよね」

「しかし、向かいの奥さんだって、口に入れているだろう」

「豊美さんも、今頃、魚臭い西瓜だと気がついているかしら?」

「そうだな」

「そうだとしたら、明日になったら、豊美さん、言ってくるわよね。とんでもないものをお届けして、とかなんとか……」

 明日は土曜だ。正生は休みだが、ゴルフに行く。先々週からの約束だ。

「常識的にはそうなるだろうな。しかし、だれからもらったのか、おまえに教えるかな」

「そうね。いただきものというのがウソだったら、言えないわよね」

「おまえ、何を考えているンだ」

 正生は、厳しい口調に戻った。

「いただきものですは、こちらに負担をかけさせないための方便、ということよ。わたしだって、よく使うもの」

「わざと魚臭い西瓜を寄越したと考えているのか、おまえは」

「そんなことは考えていないわ。それより、どうして、魚臭い西瓜になったのか。考えてみてよ」

 多摩希は、すでに、かなり説得力のある推理を働かせていた。

「魚を切った包丁を洗わずに、その同じ包丁で西瓜を切った……」

「そうよね。家庭だったら、そんなバカなことはしない。スーパーの調理場だったら、忙しさにとりまぎれて、そういう間違いは起こり得るわよね」

「もしそうなら、スーパーに苦情が殺到する。返金だけじゃすまないだろう」

「明日、この辺りのスーパーを歩いてみるわ」

 スーパーの手落ちだとしたら、

「不適切な西瓜を販売いたしましたことを深くお詫び致します。つきましては……」

 などと記した貼り紙が、店頭にあるに違いない。

 スーパーの厨房スタッフも、すぐに間違いに気がついたなら、その場でカット西瓜を廃棄しただろう。それをせず、何かの手違いで、そのまま販売されたのだとすると、被害者は豊美だけではすまない。

 多摩希の推理は、そこで頓挫した。


 翌日。

 多摩希は、掃除、洗濯を手早く済ませると、昨日計画した通り、近辺のスーパーに出かけた。

 西谷家から1キロ圏内には。S、M、Lという、3店の大手スーパーがしのぎを削っている。

 多摩希が贔屓にしているスーパーは、若い男性店員が多い「S」だ。

 夫の正生は、朝からゴルフに出かけている。車で30分ほどかかるゴルフ場だ。

 夫がゴルフ場のコースに行くようになって、まだ2ヶ月ほど。それまでは近くの打ちっぱなしのゴルフ場を使っていた。

 お金が倍以上かかる郊外のゴルフ場にしたことについて、

「出世のためだ。こんどの部長がゴルフ好きで、つきあっておかないと……」

 正生はそう話している。

 多摩希は一度、ゴルフに連れていって欲しいと夫に話したことがある。

「部長さんに、わたしからもご挨拶しておいたほうがいいでしょう?」

 しかし、正生の反応は意外なものだった。

「なにを言ってるンだ。うちの部長は、おまえのようなぽっちゃり型はタイプじゃない。スレンダーな美人が好きだから、却って逆効果だ」

 と言い、妻の願いを一蹴した。

 多摩希は、結婚当初は痩せていた。正生も、太った女は好みじゃないと言っていた。しかし、2人の娘を産み、家事と週4日、一日3時間のパート労働の日々を送っているうちに、10キロ以上太ってしまった。気がつくと、Lサイズの服しか入らなくなっている。昔はSサイズだったのに。

 8才と10才の娘たちは、朝から2人一緒にガールスカウトの活動で、郊外に出かけている。

 玄関のインターホンが鳴った。

 多摩希は買い物袋を手に玄関に走った。

「あら、奥さん」

 豊美だった。

「ごめんなさい」

 豊美は恥ずかしそうに言った。

「昨日お持ちしたカット西瓜、ひどかったでしょ」

 多摩希は思わず、

「エエ」

 と、答えていた。

 豊美によると、あのカット西瓜は、皆河家の主婦さくらからもらったものだという。

 皆河家は、U字型に6軒建ち並ぶ最も奥にある家だ。

 6軒のなかでは最も敷地が広い。他の5軒の家と比べると倍以上で、建物も立派だ。実態は建て売住宅ではなく、注文住宅で、外観は他の建て売に合わせているが、中は、買い主の注文通り、凝った造りになっている。

 それもそのはず。6軒の建て売住宅の敷地は、もともと皆河家のものだったのだから。

 皆河家の主人は私大の大学教授をしている。しかし、体が弱く、入退院を繰り返しているという噂だ。こどもはいない。

「ご主人は? お出かけ?」

 豊美は、西谷家の駐車場に車がないのを見て、多摩希に尋ねる。

「いつものゴルフ」

「ゴルフね。だったら、お帰りは遅いのよね」

 エッ……。

 このとき、多摩希は初めて、豊美に対して、不思議な気持ちになった。

 このひとは、どうして、わたしの夫が遅いことを知っているのだろう。家が向かいだから、いつも正生の帰宅に関心をもっているということなのか。

「奥さん。こんどの西瓜のこと、さくらさんに注意してあげたほうがいいかしら?」

 多摩希は、いただいた西瓜が魚臭かったと、さくらに教えるのが礼儀かも知れないと考え、豊美に言った。

「いいわよ。そんなことをしたら、気を悪くするじゃない。好意でくださったのだから。それに、被害はわたしたちだけでしょ」

「そうね」

 豊美は西瓜をカットしたのは、販売したスーパーではなく、さくらだと考えている。スーパーから、丸ごとか、舟形にカットされた西瓜を買い、家で細かくカットした、と。

 その際、さくらはうっかり、魚をさばいた包丁で、西瓜を切り分けた。さくらの単なる不注意なら、ことは穏便にすませたほうがいいかも知れない。

 多摩希は、スーパー巡りをしようと思って意気込んでいた気持ちを削がれ、急につまらなくなった。ふだん通り、いつものスーパーSに行くか。

 豊美も用事が済んだのだろう。

「そういうことです。奥さん、お互い、カット西瓜には気をつけましょう」

 踝を返し、向かいの自宅に戻りかけたが、ふと振り返り、

「奥さん、ご主人には、さくらさんのこと、言ってあげたほうがいいわよ。ご主人、西瓜がまずくて、ご立腹なさったのでしょう?」

「ええ、まァ」

「さくらさんだって、悪気はなかったのでしょうけれど、ご主人の口に入るとは思っていないもの。主婦として、少し間が抜けているだけだもの」

 多摩希が、何と相槌を打っていいのかわからず、黙っていると、豊美は、さらに、

「奥さん。さくらさんって、意外に発展家なの、ご存知かしら?」

「発展家!?」

 多摩希は初めて聞くことばだった。

「さくらさんのご主人って、旧家の出で、大学教授をして社会的地位も収入もおありだけれど、お体がお弱いでしょう。病院に入ったり出たり。大学から帰って来ても自宅で伏せっていることが多いそうよ」

「そう……」

 このひと、どうしてそんなことまで知っているのだろう。多摩希は、耳ざとい豊美の一面に接して、ちょっと複雑な気持ちがした。うちのことだって、いろいろ情報を手にしているに違いない。

「だから、奥さまはご主人が自宅におられないときは退屈らしくて、あちこちに出歩かれる。それが、大きな声では言えないけれど、ひとりじゃないの」

 エッ!?

「噂よ。いつも男のひとと一緒だって。ご主人よりは若い30才から40才前後の男のひと」

「そォ……」

 多摩希は一瞬、羨ましいと感じた自分に驚いた。

「それが、同じ男のひとじゃないの。男のひとが数人はいるみたいだって」

 発展家というのは、そういう意味なのか。それなら、わたしも、少しは発展してみたい。多摩希は不謹慎と思いながらも、そんな気持ちになった。Sの野菜売り場のカレなら、いいわ……。

「噂よ。わたしが言っていることじゃないンだから。じゃ、ご主人によろしく、お伝えください。そうそう、ご主人、ゴルフだったわね。お帰りになったら、ゴルフシューズやゴルフクラブをチェックなさったほうがいいわ。うちの主人も元気な頃、ゴルフに行くと言って出かけたのだけれど、帰ってくると、ゴルフシューズの靴底に、土や芝がひとつも付いてないことがあったの。新品を買って持っていったのによ。使ってないの。それで主人に尋ねたら、『そ、それは……』って、焦ったかと思うと、『そうだ。忘れていた。一緒に行ったヤツが急に体調を崩したから、仲間と一緒に病院に行って、そのあと、麻雀をしたンだ』って。信じられる? うちの主人は亡くなったから、もう時効だけれど。長話しちゃったわね。ご退屈さま……」

 豊美は溜まっていたものをすっかり吐き出したのか、すっきりした表情をして、大きなお尻を左右にプリブリ揺らしながら帰った。

 あの奥さん。いったい、何を言いに来たのかしら。多摩希は、豊美の話の真の目的が、まずかったカット西瓜の話をするのではなかったのではないか、と疑いたくなった。

 彼女がカット西瓜以上に、言いたかったことは何か。そうでないと、あんなにペラペラとしゃべる必要はない。

 豊美のしゃべった話の中身を整理してみよう。まず、カット西瓜がまずかったこと。次に、カット西瓜は、さくらからのもらいものだということ。さらに、西瓜を魚臭い包丁で切ったのは、さくら自身だと断定していること。

 そして、帰ろうと踝を返したものの、すぐに振り返り、さくらという女性は、夫が病弱なためか、異性関係が派手だという噂があると話した。

 さらに帰り際、妙なことを言った。ゴルフに行った夫のゴルフシューズとゴルフバッグをチェックしたほうがいい、と。まるで、わたしの夫が浮気をしに出かけている、と言わんばかりだ。

 多摩希は、これまで夫を疑ったことがない。目の届かないところで、何をしていようと、それはいい。そんなことまで疑えば際限がない。それに、第一、夫は女性にモテるのだろうか。

 結婚した当初の夫は、体が引き締まり、顔も凛々しかった。しかし、10数年たったいまでは、顔にも贅肉がつき、全体にぼってりした、お世辞にもカッコいいとは言えない体形になっている。

 ただ、夫は、女性に対しては、だれかれとなく優しい。見境がないといったほうがいいかも知れない。そして、夫の笑顔がすてきだと言う奥さんもいる、と噂で聞いたことがある。

 ただ、夫の場合は笑顔ではない。多摩希に言わせると、単にニヤけているだけなのだが。

 

 ことの真相は意外なところから、解れた。

 多摩希の夫、英彦は、さくらに操られ、いわゆるアッシーをしていた。

 この日、ガールスカウトをしている娘2人は、近郊にハイキングに出かけた。そのとき、そばの道を走りぬけた父親の車を見つけ、助手席にさくらが乗っている光景を目撃した。

 娘は帰宅後、すぐに母親に注進。多摩希は、意気消沈して「ゴルフ」から帰ってきた夫英彦を詰問した。

 英彦のゴルフ場行きは本当だったが、いつもさくらが一緒だった。

 さくらは、夫が会員であるゴルフ場に行き、夫と同程度かそれ以上の社会的ステータスをもった男性と交際する目的で、ゴルフ場通いをしていた。

 英彦は、そのことに、ようやく気がついた。いや、気付かされたというのが実際だ。

 さくらを乗せ、ゴルフ場に行くのが、この日で4度目だった英彦は、ゴルフ場からの帰り道、さくらと一緒に食事をしながら、大胆なことを試みた。勿論、食事の支払いは英彦もちだ。

 そのとき英彦は、食後のコーヒーを飲んでいるテーブルの上で、さくらの手を握ろうと手を伸ばした。すると、さくらは、すーッと手を引っ込めた。

「もう、こんどからは、お車で送っていただかなくても、よろしいのですよ」

 冷たく言ってのけたという。

 さくらは、すでに別のアッシーを見つけていた。もっともっと、若く、金払いのいい、青年を。だから、英彦の出る幕はなくなった。

 英彦はすべてをありのままに告白して、多摩希の許しを得た。

 こうした場合、正直にあらいざらい話すことが、妻の理解を得るいちばんの方法であることを、英彦は承知していた。

 翌月の土曜。

 英彦は久しぶりに車で外出した。3週間ぶりだ。

 助手席には妻の多摩希がいる。

 妻の信頼回復は徐々にではあるが、進みつつある。

 二人は、自宅から車で20分ほどのショッピングモールに到着した。

 妻の多摩希は冬のコートが欲しいと言っている。この日の正生は、妻の欲求をかなえることがいちばんの目的だった。

 妻を不愉快にさせない。正生が心に秘めている、この数ヵ月の目標である。

 正生は、モールのエントランスに一旦車を止めて妻を降ろした。

 多摩希はお目当ての店に行くという。1時間後に落ち合う約束をして、正生は車を駐車場に入れた。

 エントランスからは最も遠い「F」と記された駐車場だ。予想通り、3割程度しか埋まっていない。

 正生が空きスペースを探しながらゆっくり「F」に乗り入れると、ヘッドライトをパッシングさせる車がある。

 運転席を見ると、手を振っている。豊美だ。

 正生は、彼女の隣のスペースに車を入れた。そして、ピンとくるものがあった。

 彼女は、先々週、多摩希とスマホの電話番号を交換しあった。それまで、二人の間にそれほど親密なつきあいはなかったが、正生の不貞が発覚したことが、2人を急接近させた。というより、豊美のほうが、多摩希の心のすきをついて、近寄ったのだ。多摩希はつい受け入れていた。

 そして、先週。豊美は、メールで多摩希に、一緒に買い物をしようと誘った。それがこの日。ただし、店で落ち合う時刻は、豊美の都合で一時間遅くなると告げていた。さらに、駐車場は、いつも比較的すいている「F」にしなさい、と。

 多摩希は、それらのことを正生に話していた。

 正生が車を駐車させると、豊美が自分の車から降りて、正生の車の助手席側のドアを開けた。

「ごめんなさい。お話したいことがあって、少し早く来てしまいました。いいかしら?」

 最後は、含み笑いをしながら、正生の顔を覗いた。

 正生に拒否の感情はない。彼女がロストシングルになって以来、正生は常に彼女に対して関心を抱いている。妻の多摩希と同い年だが、スリムで、正生好みの容貌をしている。ただ、これまでは、向かいに住んでいることで、その近さ故に、心を寄せる対象には出来ないと思い込んでいた。

「どうぞ。乗ってください」

 正生はそう言って、運転席を降りると、助手席側に回り、彼女が助手席に腰掛けるまで、その場で待った。そして、周囲を見渡してから、運転席に戻った。

 知り合いは見当たらない。勿論、妻の姿もだ。正生の車の窓ガラスは、スモークがかかっていて、外から内部のようすは見えづらくなっている。

「正生さん」

 いきなり、正生の名前を呼んだ。豊美はかなり心の準備をしているようす。

「なんでしょうか」

 正生はこれから始まるかもしれない光景を心に描きながら、豊美の次のことばを待った。

「この間、差し上げたカット西瓜のことなのだけれど……」

 そう言って、豊美が語り出した。

 豊美が多摩希に寄越したカット西瓜は、さくらからいただいたものだと言う。しかし、口に入れると、魚の臭いがしたので、すぐに捨てた。

 豊美がそのことをさくらに伝えると、さくらは一つも口にしていないと答えた。さくらは、スーパーMの気になる店員と話がしたくて、好みでもない西瓜を買っていた。

 だから、スーパーの表でたまたま通りかかった豊美に、

「わたし、食べないから」

 と言って、買った西瓜をそっくり手渡していた。

 スーパーMには、豊美が、まずいカット西瓜を持参したことを詫びに来た日、多摩希が、ふだんとは異なる品物が欲しくて、買い物に出かけている。

 その際、多摩希は、店頭で、カット西瓜の不手際を詫びる貼り紙を見つけた。被害者は、ほかにもいたのだ。

 では、魚臭いカット西瓜が、スーパーMの売り場から、どういうルートを辿って西谷家に届いたのだろうか。

 多摩希がもらった魚臭いカット西瓜は、スーパーから出たものではなかった。

 豊美が打ち明ける。

「正生さん、あなたがいけないのよ」

「どうして」

「あなた、さくらさんと親しくしていたでしょ。わたし、あなたがさくらさんを車に乗せているところを、偶然見かけたの。寂しい思いをしているのは、彼女だけじゃない。わたしのほうがもっともっと寂しいもの。大好きだった夫を亡くした女の気持ち、あなたに、わかって? 1年間はもう、何もする元気がなくて……。だから、だれかに頼りたくて。いつも、お向かいのようすを見ていた。

 でも、だれもわたしなンか、気にかけてくれない。女も30半ばになるとダメなのね。

 だから、わたし、あなたの関心を引きたくて、4分の1にカットされた西瓜を買って、わざと魚臭いカット西瓜を作り、ほかのカット西瓜にまぜて奥さんにお持ちしたの。勿論、あなたは、種ナシが好みと聞いていたから、種を取り除いた10個のカット西瓜を別容器にして。あなたが被害に遭わないように配慮したつもり」

 しかし、その配慮も、粗雑な多摩希の手にかかり、魚臭い西瓜と一緒にされ、わからなくなった。

「さくらさんからもらったと言ったのは、あなたがそれを聞けば、さくらさんという女性に対して、少しは評価を下げるだろうという計算だったのだけれど、全く効果はなかったわね」

 豊美が魚臭いカット西瓜を思いついたのは、その日のあさ、スーパーSに行ったとき、魚売り場の厨房から聞こえてきた、次のような会話からだった。

「その包丁はどこにあった?」

「包丁が見当たらなくて、野菜厨房から借りてきました」

「だったら、よく洗ってから返すンだぞ。この前、ブリを捌いた包丁を、そのまま野菜厨房に戻したバカがいて、大根や長イモが魚臭いと苦情を持ち込まれたンだからな」

「気をつけます。と言っても、ぼくがいままで捌いていたのは、冷凍のタラバガニです、けどね」

 豊美のその会話から、魚の包丁を洗わずに野菜を切れば、魚臭くなる。そんなトラブルが起きてもおかしくない。いや、スーパーでなくても、家庭でも容易に起こりうることだ。さくらの家で、起きてもおかしくない。

 豊美はそんなことを考え、こんどのカット西瓜騒動を思いついた。

「だから、正生さんにまずいカット西瓜がいくとは考えていなかったのよ。本当に。ごめんなさい」

 犯人はスーパーの厨房でも、さくらでもなかった。豊美の自作自演だった。

「私にはわからない。あなたのような女性が、どうして、そのようなことを思いついたのか。あなたのように聡明で、魅力的な方が……」

 正生はそう言いながら、豊美の横顔を見た。

 正生が言っていることは、かなり屈辱的なはずなのに、豊美は何がどう満ち足りたのか、ゆったりとした笑みを浮かべている。

「豊美さん……」

「はい」

 豊美は妖艶な顔を運転席に振り向け、ゾクッとするような眼差しで、正生の眼を射た。

「私の妻はいま、スーパーSの店員と怪しい。カット西瓜を担当している若い男性です。あなたも、その男性を、よくご存知でしょう」

「知っています。どうして、多摩希さんが、カレのことを……」

 途端に豊美の表情が曇る。

「妻がよく買い物に行くスーパーですから。妻は私とさくらさんの関係を知ってから、カレとメールのやりとりをするようになりました。私は妻のスマホを盗み見て、知ったのです。すべて、私が悪いのだから、妻を責めるつもりはありません。でも、あなたなら、妻とカレの関係を断ち切ることができるのじゃないですか」

「わたしはいま、正生さん、あなたに接近しています。スーパーの店員なんて、どうせお遊びで終わるのだから。どうでもいいじゃない」

 豊美はそう言うと、シフトレバーにある正生の手をギュッと握り、自分の胸に導いた。

 正生は、このとき、豊美の心の寂しさを強く感じた。そして、その手を振り解こうとはせず、豊美のなすがままにさせた。

 妻はスーパーの店員と怪しい。おれは、向かいの未亡人と怪しくなる。これでいいのか、夫婦って……。

 正生は、10数年たった夫婦の行く末を思い、暗澹たる気分に陥った。

               (了)

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カット西瓜 あべせい @abesei

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