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坡畳

第1話 

 ——ポチャン。


 弛い蛇口から水滴が滴った。

 まだ温かなお湯の中で、ガタガタと震えながら腕に向けてハサミを広げる。

 バクバクと、心臓の音が聞こえ始めた。

 目を背けると、湯の表面へ灰色の毛がいくつか浮き上がっていて、浴槽の縁へと少し溜まっているのが見える。

 グワングワンと視界は揺れ始めるのに、心の奥底は冷たく落ち着いていた。

 肌を隠す濡れた体毛を、ハサミで押し上げていく。

 一つの傷痕が、毛を生やさず白く膨れた線を作っている。

 四周忌……二回目なのに、相変わらず怖い。

 もしこれで、手が動かなくなったら。

 血管に空気が入って、死んでしまったら。

 ……いいや。

 おれは、どうなってもいいんだった。

 ハサミを当てたまま腕をお湯へ沈め、目を瞑って思い切り引き切る——。




 おれはバイト先の更衣室で羽織と作務衣さむえを脱ぎ、エプロン付きの白いユニフォームへと着替えていく。

 丸い壁時計を見ると、まだ少し時間があった。

 着替え終わり、壁の姿鏡で立つネコ種を見る。

 小柄な体に灰色の短い体毛、先の丸い耳を躱す、おかっぱの黒髪。

 ゴム紐を手首から転がし上げて、サラサラしたまとまりの悪いこの前髪を束ねると、額には黒い三本の縦線模様が見える。


(表情暗いな。ウ・イ・ウ・イ・……)


 ジットリとした茶黄色い目を睨んで口を動かすが、口元の震えを見てやめた。

 顔つきは悪いものの、服装は整っている。


 二年経っても苦手な仕事だけど、頑張ろう。

 オーダー用の機材ハンディターミナルを肉球に当て付けながら掴み、充電器から取ったバッテリーを嵌めて、ホールへ行く。




 自動ドアが開き、一名の客が入る。

 黄色いアロハシャツを着た、オレンジ色に黒い模様の大柄な虎だ。


「いらっしゃいませ、空いているお席へどうぞ」


 積み並べてあるグラスを手に取り、ボトルから注いだお冷をカウンター席に座るお客の元へ置き、メニュー表を渡す。


「ご注文お決まりになりましたら、お呼びください」

「コレのコレと……あとコレ」


 二つ折りのハンディターミナルを開く。

 右片面に並んだパネルにはそれぞれの商品カテゴリが書いてあり、左片面には画面に商品名、下に数字とかのパネルが並ぶ。

 メニューの場所と操作を覚えれば、誰でも簡単にできる作業だ。

 ——ピピッピッ。

 ステーキとフランスパンのセットと、コーンポタージュ。


「ご注文の確認を取らさせていただきます。ステーキとフランスパンのセットと、コーンポタージュの二点でお間違えありませんね?」

「ええ」

「ありがとうございます。すぐにお作り致しますので、このままでお待ちくださいませ」


 お客に向かって腰を折り曲げた後、テーブルから離れ他の席を片付ける。

 お辞儀したところでテーブル上からはよく見えないだろうけど、仕事だし。

 笑顔を作れない分、誠意は表したい。

 ……ダメだな、余計なこと考えながら動いてる。

 こういつもより暇だと、仕事に集中し切れない。

 ソファの上にあがり、急いでトレイにお皿や箸を乗せてテーブルを拭き、頭の上まで持ち上げて食洗機の前へと運ぶ。


「うちら、一緒に働いてもう半年になるんだな」

「ええ、おかげさまで」


 仕事の上司と部下だろうか。

 客席で話しているのが耳に入る。


「今アパート暮らしだっけか。ここは神類ゴッズベスタ様のおかげで、三年前から老衰以外の死亡者ゼロだしよ。金あるんなら早めに土地と家買って定住した方がいいぜ」

「ええ、そのつもりです」

「おお! そんじゃ家が決まったら、次はそこで飲み会だな!」


 神類か。

 神類は、最近になって現れたそうだ。

 五十年間の間に六人産まれており、体のどこかに星紋が付いていて、それに因んだ名付けをされている。

 産まれた瞬間に両親が死んでしまうため神類は『呪われし存在』であるものの、おれたちと違い五感を持たず、代わりに五感が一纏めとなった第一感を持つ。

 第一感があれば目や耳、口が使えなくても不便ないらしい。

 その第一感を最大限活用するため、神類は金山豆かやず国内にある町や都市の管理を一人一つ、方針を持って任せられている。

 この都市では死亡者ゼロが、その方針なのだ。


 ──と、暇な内に時間が来た。

 引き継ぐような内容もなく、今日のバイトを終える。


「フィルさん、お疲れ様っした」

「お疲れ様」

「良かったら今日一緒にご飯行かないっすか? 賄いばかりでぼく、飽きてきてて」


 犬の後輩を少し見上げると、ニコニコ笑っていた。

 この子は……名前は何だったか。

 名札ネームを見れば分かるものの、視線で気付かれると話を膨らまされて長くなりそうだし。

 行っても話したいことなんてないし、そもそも金がない。


「今お金ないから、また今度」

「ええ? シフトかなり入ってるのに、何に使ってるんですか?」

「保険料とか税金とか、生活費だよ……じゃあな」


 不思議そうに見てくる後輩の脇を通り、更衣室から出た。


「気持ち悪い」


 背後のドア、その隙間から視線を向けられるような感覚と共に、そう呟かれた気がする。

 本当に言っていようとも、悪口を言われて傷付くような心なんてもうない。

 プライスが死んで以来、楽しいことも辛いことも感じられなくなったのだから。


 帰り道、ビル群に挟まれた夕陽が照りつける、いつもの小道を歩く。

 おれには、この繰り返しの人生でいい。

 

 ……高校卒業後、自殺した友人の後を追えないでいたおれは、死亡者ゼロを記録した都市が気になり一人で引越してきた。

 ネットで調べた限り、神類ベスタが来てからここに住む人々の幸福度が上がっていて、住んでいたら死のうと思わなくなるそうだ。

 死ぬ勇気を持てないのなら、せめて自殺するような人を助けられるようになりたい。

 そのヒントを求めていたのに、死亡者ゼロの理由を全く見つけられず諦めた。


 人のことが苦手な自分を変えたいといい、受かったバイトを続けてもう二年。

 お金は貯まらず、何の喜びも感じない毎日。

 このまま苦手な仕事を続けて、自分をじわじわと追い詰めていければそれでいい。

 おれは今、惨めに死ぬため生きている。


 ……昨日切った腕がヒリヒリする。

 痛みはない。

 できた傷は、また浅かったようだ。


 ——チャリ、チャリッ。


 金属同士の当たる音が、小道に響く。

 見ると、ネコ種で背丈もおれと同じな女の子が向かいを歩いていた。

 こういう自分と一致する部分のある相手には、理由もなく良い印象を持ってしまう。

 薄いピンクに白い模様のやや長い体毛、ふさっとした耳。

 髪は膝元まである長い薄ピンクで服装は白いシャツに青のデニム。

 服装はシンプルなのに、どこか神秘的でいてかわいい。

 腰についている鍵同士でぶつかり、音が鳴っているようだ。


 ──その赤く透き通った星雲のような瞳と、一瞬だけ目が合う。


 ジロジロ見ていたのがバレたか?

 なんか気まずい、このまま一気にすれ違ってしまおう。


《こんばんは。フィル・キロノバさんですね?》


 なんだこの声? 弱々しいけど、優しい声色だ。

 背後を向いても、あの子しかいない。

 確かに、耳元辺りで響いてたはずだが。


《先ほど、目を合わせて頂いた者です》


 立ち止まっている子をよく見ると、笑顔で手を振っていた。

 その姿は太陽よりもクッキリとしていながら、白く眩しく思える。


《これは第一感、テレパスです。私の名はベスタ、この都市に配属されている神類ゴッズです。フィルさん、あなたには私の仕事を手伝ってもらいます》

「イヤです」


 道を踏み締め、帰路を急ぐ。

 足早に去ったつもりなのに、背後からはチャリチャリと音が聞こえ続ける。

 トツトツ走っていくと、その音は段々と遠ざかっていった。

 あの子がベスタ様? 仕事を手伝えってとういうことだ……。

 テレパスって、あの気持ち悪いとか聞こえてたのも……いいや、それはないか。


 自宅に着いて振り向くと、またチャリチャリと音が聞こえる。

 ベスタがヒューヒューと息を切らしながらゆっくり立ち止まり、その膝に手を付けた。

 息する音と共に胴を揺らしながら、こちらに笑みを向けている。


「ついてこないでくださいよ。それに神殿の仕事って、死亡者ゼロに関係することですよね? おれには向いてません」

《それでも手伝って頂きたいのです。これが契約書になります》


 ベスタは背から紙を取り出し、おれに手渡してきた。

 給料高い……今の10倍くらいだ。

 神類の所で働くのは忙しいと聞く。

 それに10年契約か。

 、プライスと似たような事情の人を相手するのは、おれがやってはいけないことだ。

 紙を返そうとすると、ベスタは悲しそうな顔をした。


《向き不向きがそれほど大事なのですか?》

「そりゃ、仕事ですし」

《でも、自殺なされたご友人のことを悔いておられるのですよね》


 ……!


 神類には第一感の力で、そんなことまで分かるのか?

 だとしたら、この人は一体どこまで知っているんだ。


《遺言もなくこの世を去られたプライスさんのこと。私のお手伝いをして頂ければ、その全てをお教えしますよ》


 アイツの名前まで……。

 ベスタは息を整えてから優しく微笑み、おれの手をフカフカとした両手で柔らかく包む。


 知ったとして、もし原因が誰かにあっても憎む気にはなれない。

 ただ、おれのせいだったなら。

 おれが死ぬば、親族くらいは報われるだろう。

 死ねば、約束も守れる。

 死ぬ覚悟を決めるには、丁度いいはずだ。


「……おれは、アイツが死んだ理由を知りたい」

《では、私に付いてきてください!》


 止まれば簡単に手が離れてしまいそうなほど、ベスタは優しく、おれの手を引いた。

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