2.人面犬


 ◆


 七月も半ばを過ぎ、七月中の観測史上最高気温は今年も更新された。

 夏の夜は遠い。十九時になっても太陽は地平線でくすぶって空を赤く焦がし、アスファルトに留まった熱は未だに地面から生命を熱し続けている。

 ようやく家に帰れる、ほっとした思いで帰路につく人間たちとは対象的に、赤く染まり切った空の下で怪異達が目覚め始めた。


 壊滅したきさらぎ駅の代わりに建造された新きさらぎ駅は今や怪異界隈最大の繁華街だ。

 旧きさらぎ駅は武蔵小杉にあったが、新きさらぎ駅は吉祥寺に存在するため、怪異の間でも、以前のきさらぎ駅よりも都心へのアクセスが容易で人間がぶち殺しまくりやすくなりました。以前よりも住みやすいきさらぎ駅になりました、この住心地の良い土地を人間の血と恨みで汚してやる。俺にインタビューするな、呪い殺すぞ。などと評判である。


 そんな新きさらぎ駅在住の、鬼や土蜘蛛や河童、比較的新しくても赤マントといった古典的な妖怪から、口裂け女やトイレの花子さんといった、今となっては定番となった都市伝説妖怪、身長が二百四十センチメートル八尺程度あることでお馴染みの妖邪王ギガンヘルデーモンなどの怪異達が人間を殺戮ころすために出勤しようと混み合う構内。その混雑の隙間を縫って、新きさらぎ駅から出ようとする人間が二人。 


 人間が一歩足を踏み入れれば九割は死ぬので、都内でありながら信じられないぐらいに地価は安い。そのために数は少ないながらも、命よりも金が大事であるか、あるいはこの街に住むことを危機とは思わない類の人間もこの街に住んでいる。


「ひぇ~……ちょうど出勤ラッシュとかち合っちゃった、この街家賃は安いし、朝の電車は空いてて快適なんだけど、夕方から夜はこんなになっちゃうんだ、困るよね」

 そう言って、先頭の少年が連れに向かって振り返る。

 彼もまた、この新きさらぎ駅で暮らす人間の一人である。


 美しい少年だった。

 一見して性別はわからない。

 見る側が男であると思えば男であると思うし、女であると思えば女であるとだろう。どちらかの美に偏らない中性的な少年である。

 厚手のコートに袖のないベスト、首周りにはひらひらとした布クラヴァットを巻き、そのズボンは膝下までの長さしかないブリーチズ、ロココ様式を思わせる優美な衣装は黒を基調としており、貴族然とした格好でありながら、他者をどこか不安にさせる。服装を彩るフリルの白と相まって、鯨幕を思わせるからだろうか。

 その目ははっきりと開いているが、まるで起きながらに夢を見ているかのようにとろりと蕩けている。 

 殺人鬼を法廷を通さずに処刑することで残された遺族と自分の恨みを晴らしつつ自身の殺人欲求も満たす一石二鳥のお得刑事――殺戮刑事のバッドリ惨状という。

 近所でも有名な合法的な薬物中毒者でありながら、彼自身は取り締まられる側ではなく、取り締まる側であった。


「……チッ、先輩の住む場所は人間の住む場所ではありませんね、チッ」

 舌打ちから始まった言葉が舌打ちで終わった。

 一般的な中学生程度の身長をしたバッドリよりも頭二つ分ほど大きい、二十そこそこといった容貌である。

 目は閉じているかのように細い、もしかしたら実際に閉じているのかも知れない。この新きさらぎ駅に人間が見て楽しいものはそうそうない。

 髪は長く、絹糸のように柔らかい濡烏が腰元まで伸びて、さらさらと揺れている。

 夏場であるにもかかわらず、黒く丈の長いキャソックをまとい、暑苦しい衣装をしたバッドリ以上に。暑苦しく見える。しかし、その白い肌には汗の玉の一つも浮いていない。

 皆殺堕マサクゥルダ時定ときさだ――バッドリと同じく殺戮刑事である。といっても、公務員試練を乗り越えたばかりのまだ人を数えるほどしか殺していない新人殺戮刑事であるが。


「うぅ……時定ときさださぁん、舌打ちやめてよ」

「チッ……善処します」

 頭を下げて慇懃に謝罪する皆殺堕。

 口では善処すると言っても舌打ちは機械的に一定のリズムを刻んで止む気配を見せない。

 最近の若い子のことはわからないけれど、もしかしたら、自分の行いが後輩を不快にさせているのかもしれない。

 バッドリは今日何本目になるかわからない葉巻をくゆらせながら考えてみるが、一切思い当たるところはなかった。


「やっぱさ、業務終了後も職場の人間と付き合うのヤなタイプ」

「……チッ、いえ、まさか……そんな……チッ……ただ、どうも出てしまいます……大変申し訳無いことに……チッ……」

「うう……言っとくけど、時定さんの方から誘ったんだからね!社交辞令だとしても、そういうの僕はちゃんと受け取るタイプだからね!」

 新きさらぎ駅周辺がどのようなものか見てみたいとは皆殺堕がバッドリに頼んだことである。

 皆殺堕は田舎から上京したばかりで、とりあえずはということで官舎に暮らしている殺戮刑事であるが、官舎では殺人行為があまりよろしくないので、殺戮刑事の例に漏れず、好き勝手に人を殺せる都内の物件を探しているのである。


 妖怪で混雑する構内を出て、新きさらぎ駅を出る。

 人間の血で描かれたグラフィティアートや、商業施設の前に山と積まれた人間の生首が余計に新きさらぎ駅周辺の地価を安くする。

 いつでも殺せる獲物として人間にいっぱい住んで欲しいから、地価を安くするだけに留まらず、表面上は人間にも住みやすく見えるような街にしたい――しかし、人間どもを好き勝手にぶち殺しまくって、その楽しさを周りの妖怪連中にもアピールしたい。人間の血で描かれた『ここは人間が大好きな街です』の文字は妖怪の複雑な心情を反映するかのようであった。


 駅から徒歩五分の十三階建てのビル『犯罪目的ヤリモク歓迎ビル』がバッドリの住居である。


「ここが僕の住んでるとこ、駅からは近いし、一階はコンビニだし、繁華街も近いよ」 

「……チッ、なかなか良いとこですね」

「本当に良いと思ってる!?」

 だが、皆殺堕の舌打ちもしようのないことだろう。

 一階のコンビニの前には、人間なんぞいちいち殺してられない、誰かを苦しめて行きていくなんてそんな妖怪レールには乗せられたくないというヤンキー妖怪が集団でたむろし、そんなヤンキー妖怪の甘っちょろい惰弱さを誅するかのように、人面犬が陣取ってヤンキー妖怪を頭から貪っている。

 しかし、流石は妖怪の本場、新きさらぎ駅である。

 これほど見事な人面犬はよそでは見られないだろう。

 象ほどの体躯を有し、顔面は美しい女性の顔、胴体は獅子、鷲の羽を生やし、蛇の尾を有している。


「コンビニに入りたければ、あるいは無事に帰宅したいのならば我が問いに答えよ……問いに答えることの出来ぬ愚者に入店する権利も帰宅する権利もない、喰い殺してくれよう……」

 ヤンキー妖怪を喰い殺した人面犬の厳かな声が響く。


「……チッ、家の前にこんな化物がいるんですか?」

「いや、どうなんだろう……?昨日はこんなのいなかったけど……結構さ、セキュリティーもしっかりしてるから……緊急導入されたのかな……?」

「……チッ、そのしっかりとしたセキュリティーに殺されようとしているのですが……」

 困惑する二人に対し、深く心の底に落ち着くような声で人面犬は言った。

「我はボランティアで他者の住居のセキュリティー活動を行っている……」

「ボランティアで人んちを勝手に守って家主食い殺す奴、最悪じゃん」

「案ずるな……問いに答えれば、お前達に手出しはしない……」

「帰宅しようとするだけで手出しの可能性が出てくるの嫌だなぁ……」

「では問おう、朝は四足、昼は二足、そして夜は三足。これはなにか?」

 人間――瞬時にその答えが皆殺堕の中に浮かんだ。

 だが、考える。

 今日日ここまでベタな問いを出されることがあるだろうか。

 しかし、ベタになったからこそ逆に出されるという可能性がある。


「はい!人間!四足の朝は赤ん坊がハイハイをする姿で、昼は青年が二本の足で歩く姿!そして夜は老人が杖をついて歩く姿!そうじゃない!?」

 皆殺堕の考えをよそに、バッドリが我が意を得たりとばかりに夢見る瞳で答えた。

「いいかい、時定さん……こういうのは考えちゃいけないんだ、時間をかけ――」

 そう言って、皆殺堕に向かってドヤ顔を浮かべて振り返るバッドリ。

 先輩の面目躍如である。

 そのバッドリのこぶりな美しい頭部が間髪を入れずに人面犬の口の中に収まった。

「正解は貴様の死骸に残った手足の数だよ!!!!!!!!!夜になったら他人の食残しも混じって数がよくわからなくなるからなあああああああああ!!!!では死ねい!!!!」

「うわああああああああ!!!!!!!じゃあ広義の意味で人間であってるじゃん!!!」

 バッドリの悲鳴と抗議は人面犬の口内にあってくぐもっていた。

 

「……チッ!!バッドリ先輩!!!」

 人間と違って妖怪を殺すのはそんなに楽しくはないから、避けられる戦闘ならば避けておこう。その考えが仇となった。立ち塞がった時点で殺すべきであった。閉じられた瞼の下で皆殺堕の瞳が潤んでいた。まさか自分の判断ミスで、こんなところで先輩を失うことになるとは――まあ、冷静に考えれば、ここは先輩の自宅であるし、先輩が勝手に問いに答えたので、自分がいなかったらいなかったで勝手に先輩は死んでいる気がするが、それはそれとして。


「……チッ!先輩の敵討ちだッ!」

 キャソックの下に隠された丸太のように太い足が走った。

「グオッ……!」

 側頭部に叩き込まれた回し蹴りに人面犬が苦悶の声を上げる。

「まだ生きてるよぉ……」

 だが、蹴りの痛みに噛みついたバッドリの頭部を離すことはない。


「やるな人間……だが――ブオッ!!」

 再び人面犬が苦悶の声を上げる。

 分厚い脂肪に覆われた人面犬の胴体の下に潜り込んで、蹴りを四発。

 一発一発が人間ならば即死するような威力を受けて、しかし人面犬は後方に跳躍し、車道で前傾に構えた。アクセサリーのように咥えられたバッドリの胴体が人面犬の移動のたびにぶらぶらと揺れる。

「……攻撃に遠慮があるな、攻撃の衝撃でうっかり、我が獲物の首を噛みちぎってしまわないようにしているというわけか」

「……チッ、先輩はいい人です。せめて死体だけは綺麗な形で遺族の方に渡してあげたい……」

 閉じられた瞳から一筋の涙が頬に線を描いた。

 皆殺堕の常識で考えればバッドリは死んだことになっている。


「あっ、そっか……新人の子だから、この程度で僕が死んじゃってると思っちゃうんだ。断罪さんとは大違いだ、人間が出来てるなぁ。断罪さんならそんなところで遊んでるなら殺すぞぐらい言うもんなぁ……」

 人面犬のべとべととした湿気のある口内でうんうんと頷くバッドリ。

 その首筋に人面犬の牙がじわじわと力を加えて、点線のような噛み傷が浮いている。


「……それで、どうやって我と戦う?」

「けど、時定さんはどうやってこいつを殺すんだろう?」

 内外から言葉は同時に発せられた。

「手加減してて、武器は素手……絞め技はとてもじゃないけど、こいつの首が太すぎるよね、脳を揺らすのも頭部を動かすのは危ないからアウトだし、そして衝撃の強すぎる技は、こいつがうっかり僕を噛んじゃうからアウト……いや、面倒くさいから強めの技で倒してもいいやって思ったらそれもありだけど……やんないよね……?」


「……チッ」

 裾の長いキャソックが袴の役割を果たし、皆殺堕の足捌きは見えない。

 人面犬と向かい合うように車道で構えた。


「人間よ……貴様に謎を一つ出そう……」

 皆殺堕に影が伸びる――殺戮刑事の前に一つの巨大な壁が生じた。

 人面犬が後ろ足で立ち上がったのである。

 前足は人間の手の如くに動いた。

 両前足を花の蕾のごとくに重ねて、砲口を向けるかのように皆殺堕に向ける。


「朝は四足、昼は二足、夜は三足……そして夕は無……これは何かわかるか」

 巨大な力が人面犬の両前足に集まっていた。

「正解は我が必殺技、人間絶対殺戮光線を受けて粉々に消し飛ぶ貴様よおおおおおお!!!!死ねい!!!!!」

 人面犬は問いに対する答えを求めない。

 ただ両前足から放たれる巨大な光線を答えとして相手に押し付けた。

 放たれた光線――その周囲の空気が揺らぎ、その下にあるアスファルトは溶けた。

 触れずとも肉が焼けるほどの膨大な熱量である。


 その恐ろしい攻撃は確かに、皆殺堕を捉えていた――はずであった。


「……チッ、チッ、チッ、チッ」

 規則的に刻まれた舌打ちが人面犬の顎下から聞こえた。

 まるで瞬間移動でもしたかのように、皆殺堕が人面犬の顎下に移動していた。


「なっ……」

 咄嗟に自身の真下を見る人面犬。

 天使の光輪――一瞬、それと見まごうような円状の何かが皆殺堕の頭上に浮いていた。だが、確認は後でいい。バランスを崩しながらも咄嗟に人面犬は後ろ足で皆殺堕に向けて膝蹴りを放たんとして――そして終わっていた。


「……チッ!」

 顎関節に二発、皆殺堕の拳が突き刺さった。

 それと同時に、人面犬の下顎が開き――唾液まみれのバッドリを解放する。

「……チッ!」

 刹那、心臓部に一撃。

 前蹴りが槍のように人面犬の心臓部に突き刺さり、それを破壊した。


「……うぇー、凄いね、時定さん……」

 唾液でべとべとになりながら、称賛の言葉を贈るバッドリ。

「……チッ、先輩、生きてたんですね」

「それ、マジの……いや、いい、聞きたくないから、で、どう?この街の住心地?」

「……チッ、出来れば……港区とかに住みたいですね……」

「まあ、わかるけどさ……」


【つづく】

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