空想探訪録
後左衛 春散
01_甘い臭気
長野県と新潟県の県境、苗名滝のさらに西方に位置する名前のない村。村全体は薄白く灰色がかり色づくものは赤色の提灯だけ。火は不規則に影をつくり、まるで村の生がそこだけにしかないように感じられ、母がこんな場所で朽ちていったのかと落胆した。
村に入ったのが大分遅かったので、私は宿泊先である「緑」に向かった。舗装された道路はところどころひび割れており、吐き気を催すような甘い臭気が漂っていた。また奇妙なことに道は常に振動している。苗名滝の名称はその重力を帯びた水の高所から落ちる音が古典の「なえ」=「地震」のようなところから名付けられたようだが、明らかにこれは音からくる振動ではない、地中で何かが蠢いている-恐らく臭気がガスだまりのように地下に埋蔵されているのだろうが、足裏に伝わるうごめきは、あちらが私を伺っていると感じざるをえなかった。
臭気で疲労感を覚えた私は体を左右に揺らさなければ歩けない状態になっていた。宿の方向にそびえる幻山は死間際の病弱な腕を思わせるほど異様に長く細く空に突き出しており、村全体の生を吸収し成長する植物のように感じられた。
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「緑」は所々、漆喰が剥がれレンガがむき出しになっていて、とても質素な印象をうけた。しかし、提灯に照らされキラキラと光る外壁は私を安心させた。太古から使われている人間の英知、この村にはいってからは自然の驚異に身がもだえ、その臭気やそびえる山への畏敬の念から何か厳かな胃痛のする雰囲気が私を包んでいたからだ。この村に来て初めて人間味を、人の生を感じたのだ。
宿の女将も温かく出迎えてくれ、私の疲労困憊の顔からすぐに部屋に案内してくれた。部屋は山を眺望できる8畳の和室、外とはうって変わり落ち着いた檜の香りが鼻を包んだ。テレビなどのエンタメ設備は無く、小さめのこたつ机と座椅子くらいしか家具はなかったが臭気で疲労困憊のわたしにとっては刺激よりも安らぎが必要であった。
布団を敷きながら、彼女は緊張を和らげようと話し始めた。
「なぜこの村にお越しになったのですか?」
「母のお墓参りに。明日、墓地のほうに伺おうと思うのですが...」
仲居は少し沈黙し、やがてまた話し始めた。
「墓地は幻山の山頂にございます。ただ簡単には行けません。道のりが険しいということもございますが、山頂には墓地の他に村民が信仰している巨岩があるのです。村民でも神事、葬式、初宮参りくらいにしか足を運びません。さらに言えばこの臭気の中だと行くのは難しいと思います。神事、葬式があれば蚊帳を用意するのですが..神事は直近でないので、不謹慎な話、葬式があれば..お連れすることはできるのです..」
「いえいえ、難しそうだったら大丈夫です。また機会をみてうかがいます。」
私はすぐに布団に横になり、目を閉じた。
彼女が静かにおやすみなさいませと礼をしているのを感じる。微かながら彼女の甘い臭気が部屋に残った。
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私は胸の焼ける気持ち悪さで目が覚めた。甘い臭気は濃さを増し、檜はもう感じられなくなった鼻から脳に入り込む。脳は鈍器でたたかれ、私という枠線をシャボンのような二重、三重へと歪める。私はなんとか起き上がり、女将さんに助けを求めた。
「仲居さん..お水をもらえませんか..」
声がでているかどうかもわからない、聴覚は水疱に包まれ溺れていたからだ。右足かも左足かもわからぬ足で壁伝いに扉に向かう。呼吸があがる、喉の奥が冷たくなり頭がぼんやりとしてきた。鼓動と血流の音だけが私に響く。
私の様子を察したのか外では女将さんが扉を開ける音が聞こえる。女将さんだけでは錠ががかたく開けられないようで外に出て助けを求める声がぼやけた耳に伝わる。短くも長く感じる時間。みるみると私の体調は悪化した。口から唾液がたれるのを感じる。扉下からは赤い提灯の光が揺れ動き、激しさを増す。
急に光と振動がなくなる。私は心臓が痛くなる。取り残されたという不安、過去をフラッシュバックする。
しかし、影が1つ扉下に現れゆっくりと襖が開けられる。音は無い、光が濃くなるのを感じる。光の中にいたのは女将さんではなく亡き母であった。
私は心の不意をつかれ母のもとに倒れ泣いた。もう体は動かせなかったが、今までの無理な感情から解放されひたすらに泣きじゃくった。不安な社会、人、信頼できる・警戒心のおきない母、の死。
母がこの村で亡くなってから、私はひたすらに無味無臭の世界をガラス製のクラゲにでもなったかのように漂っていた。みるみるうちに私の心は傷つき、自身でも意識できないくらいの断片となり、私は物事に無関心にならざるをえなかった。しかし、世間的には失踪した..母がここにいる、母の墓がここにあることを知り、そこからは無我夢中だった。
そして今、目の前にいる。耳は聞こえないが、あの母の優しい匂いが懐かしさを感じさせる。あの母の顔が目の前にある。あの母の滑らかな手で顔をなでられる。
月よ、幻山の神よ私のもとへ、夢をみさせてくれ。私を甘い臭気と共に母とつないでくれ。
墓標のような山から、青白く生気の無い満月が顔をだす。女将と烏帽子を被った数人の男が夢見心地良さそうな彼を抱え上げ、月下のもとへと運ぶ。
赤提灯のぼんやりとした光はうねるように山へと続いていた。
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