第4話 幾人目かの婚約者。

『そうだったのか、すまない、僕が不安を煽ったせいだね』


『いや、自分で知ったとて、同じ事になっただろう』


 俺は、誤解から婚約破棄をした。

 向こうは突然の破棄にも直ぐに応じ、コチラの誤解が解けた後も謝罪は不要だ、と。


 もし彼女が作家の娘だと知らなければ、誤解も。

 いや、知った時点で疑心暗鬼から彼女を問い詰め、同じ事になっただろう。


『謝りには、行けない、か』


 謝れば、破棄の理由を説明する事になってしまう。

 しかも彼女が傷付くだろう。


 信用が無かった事、疑った事、俺の後ろ暗い過去の事にも。


 けれど、このまま終りにして、本当に良いんだろうか。

 何も言わずに居たなら、彼女はどう思う。


『彼女は、次こそ幸せになれるんだろうか』

『彼女はクソ女と同じ女、また、今度こそ裏切られるかも知れない。なら無視するのが1番じゃないかな、どうせ結婚する気は無いんだろう、ならどうなろうとも関係無い筈だ』


『だが、彼女にも父親にも瑕疵は』

『償いや同情心で結婚される身にもなりなよ、それとも彼女は喜んで受け入れる程、バカなのかな』


『いや』


『お互いの為に忘れたら良いんじゃないかな、男嫌いでも無いんだ、ならそこそこの相手が見付かる筈。それにどんな悲惨な結婚でも、実家に逃げられるだろうしね』


『そうなって欲しくない』

『償いたいなら金でも渡せばどうだい、君のせいでも誰のせいでも無いんだ、身を守るには黙っているのが1番だよ』


『保身の為に彼女を傷付けたまま』

『だからって言って何になるんだい、自己満足の為に彼女を傷付けて、彼女まで疑心暗鬼にさせる気かい』


『いや』

『忘れたら良いんだよ、人は不都合な事を忘れられるそうだし。運が無かった縁が無かった、そう思うしか無いよ、君を守るにはそれしか無い』


 俺の為に。




『すまなかった』


 元婚約者が、左の頬を真っ赤にして。

 私達が避難している避暑地に。


「あの、その頬」

『あぁ、コレは、知り合いに叩かれたんだ』


「右利きの方に」

『あぁ、女性に』


「流石ですね、相変わらずお噂通りで安心し」

『違うんだ、君の事で、怒られた』


「どうして怒られてしまったのでしょう」

『酷い目に遭ったからと言って、酷い事をしても良い道理なんて無い。しかも加害者でも何でも無いなら、酷い目に遭わせたままなんて、アンタを酷い目に遭わせた人と同じだ』


「あの、何か誤解が」

『俺は、母親に襲われた事が有るんだ』


「ごめんなさい、何も」

『知られていたのだと俺が勘違いした、そして婚約破棄をした』


「だとしても、何故アナタが叩かれ」

『元は俺の誤解が発端で、君に酷い態度を取った、君も君の父親も悪くないにも関わらず。なのに、俺は自分の身を守る為に、君に謝るかどうか悩んでいた』


「それでどうして叩かれてしまうんですか?言いたくなかった事を、身を守って当然の」

『君の賢さと優しさを考慮しなかった、信頼しようとしていれば、少しは話し合えた筈。俺は保身から君を試し、勘違いし、傷付けたままにしようとした。人として最低だ』


「いえ私だって兄に襲われかけた、なんて、そう直ぐには言えないと思います。それに私は作家の娘、話の種にされたくないと警戒して当然ですし」

『改めて申し込みたい、婚約の申し込を、させて欲しい』


「そんな事をなさらなくても言いません、内容をボカして契約書を」

『前は情愛を求めるなと言ったけれど、今回はそれは無しにしたい』


「ですから、そんな情愛を利用して頂かなくても絶対に誰にも言いませんので」

『すまなかった、違うんだ本当に』


 色男の元婚約者様が、膝から崩れ落ちてしまい。


「良いんです、無理に今直ぐに信用しろだなんて、ソチラが用意した契約書でも勿論署名捺印血判致しますし。あ、他に何を担保に差し出せば宜しいですか?」

『君が欲しい』


「ですから結婚の事ならご心配、あ、未婚のままでと仰っていますか?」

『違う』


「では、妾に」

『違う』


「あの、お洋服が汚れてらっしゃるでしょうし、そろそろ」

『君の傍に居たいんだ、頼む』


「そんなに私は信用」

『違う、そうじゃないんだ』


「では信用して頂けるんですね?」

『している、すまなかった』


「なら」

『多分、君を、好いているかも知れないんだ』


 元婚約者様が、私を。


「あの、ですから情愛を」

『情愛を利用したいワケじゃない、最初からやり直させて欲しい』


「その、好かれる様な事は何も無かったかと」

『アレでか』


「アレで、とは」

『君は元婚約者だと言う女に、思い遣りも込めて言うべき事を言い、しっかりと俺にも釘を刺した』


「婚約者としては当然かと」

『それから例の女性の事も、治めるだけでは無く俺に不機嫌にもならず、しかも予測も当てた』


「それこそ作家の娘ですし、読んだ本で似た騒動が有りましたし。アナタ様が懸念していた通り、騒動も糧と言えば糧ですから」


『あの程度の事なら』

「嫌がる方は嫌がりますから」


『君はちゃんと約束を守る女だ』

「命が掛れば話してしまうかも知れません、だからこそ、離れていた方が宜しいかと」


『なら傍に居て守る』


「あ、父から聞いたんですけど、お薬と薬酒を合せて飲めば記憶が消えるかも知れないそうなので、今直ぐ試し」

『君は、そんなに俺が嫌いなのか』


「いえ、ですけどアナタは謝る事が出来た、私は忘れる。お互い得しか無いかと」


『俺が君を好いているかも知れない、その事は』

「償いや罪悪感、興味本位や不安が混ざり、そう勘違いしてらっしゃ。あ、抱きます?そうすれば意外と冷めるか、逆に安心するかも知れませんよ」


『そんな理由で抱かれるのか』

「ご不安はご尤もですし、後妻なら気にされない方も居るそうですから」


『君に瑕疵は無いんだ、自分を大事にしてくれないか』

「アナタもご自分を大切になさって下さい、例え他人に粗末に扱われても、アナタまでご自身を粗末に扱う必要は無いんですから」

 

『君に、俺が君を好いていると、理解して欲しい』


「あの、何処に好く要素が」

『こう優しい所だ』


「林檎さんも使用人も、皆さんこうですよ?」

『賢い』


「作家の娘なら、良く本を読むので、大概はこうかと」

『思い遣りが有る』


「皆様お客様だと思っていますから」


『君に好かれたい』

「お薬と薬酒の効能がハッキリしていませんものね」


『本当に、君を信じているんだ』

「でしたら結婚も情愛も必要無いかと」


『はぁ、堂々巡りをしている気がするんだが』

「すみません、名案が浮かばず」


『君が俺を好けば良い』


「あの、もう少し落ち着いてから考えませんか?痛みで考えが鈍る場合も有るそうですから、冷やしながら、甘い物は如何ですか?」


『あぁ、そうしよう』




 疑いから始まると、疑心暗鬼の連鎖が続く。

 しかも嘘や隠し事が有れば、更に複雑化してしまう。


「あ、切符は?それともお宿を取っているんですか?」


『いや、片道で、宿も』

「ならココがオススメですよ、信用出来る方だけ、紹介制のお宿もやってるんです」


『何でも知っているんだな』

「そうだったらどんなに良かったでしょうね、最初から知っていればお断りしましたのに」


 彼女は決して突き放しているワケでは無い、けれど、言葉が胸に突き刺さる。

 彼女の言葉を聞く度、気遣いや優しさを感じる度に、彼女を好いている事に気が付く。


 そして好いていると自覚する度に、自己嫌悪に陥る。


 あぁ、その自己嫌悪を消したいが為に、こんなにも彼女に食い下がっているのか。


『すまなかった、もう帰る』

「あ、すみません、何か不味い事を言ってしまいましたか?」


『いや、違うんだ』

「痛みますか?」


『あぁ、凄く』

「その、お忙しいのでしたらお引き止めはしませんが、汽車では冷やすのも難しいでしょうから。ギリギリまでご休憩なさっては?お泊りでなくてもココは使えますから」


『優しくされればされる程、自分が嫌になる、それを君を使って誤魔化したいだけなのかも知れない』


「それは、困りましたね、私と会わなければ収まりそうですか?」


 謝罪は済ませた、誤解も解けた。

 彼女を信用もしている。


 ただ、もし他の男と結婚したなら。

 もし、不幸な結婚になり。


 いや彼女は強い、そして賢いし、優しい。


 それこそ例の男、あの書生が相手でも、きっと彼女は上手くやるだろう。

 けれど、出来るなら俺は。


『君となら子を育てられる気がする』


 言った後に、卑怯だと気付いた。

 だが彼女は。


「それは重要な事ですから、悩まれるのも無理は無いかと」

『どうして卑怯な物言いを受け入れてしまうんだ』


「受け入れてはおりませんよ、産む、とは返事をしていませんから」


『俺は、ムキになっているだけなんだろうか』

「だからこそ、抱いてしまえば良いのでは?」


『君は』

「父が許した婚約ですし、アナタの清さを信じていますから」


『確かに検査はしたが』

「それとも誰かとなさったんですか?」


『いや、だが』

「あ、検査後にです、検査直前も困りますけど、別に童貞でなくても良いんですよ?処女膜のようなモノは無いそうですし、偽れるんですから」


 彼女の言葉に頭を抱え込んでしまった。

 そこも、誤解を解かなければ。


『いや、本当に、誰とも何も無いんだ』

「色男の、遊び人が」


『女避けに流して貰った噂なんだ』

「ふふふ、冗談ですよ、扱い慣れてらっしゃらない事は直ぐに判りましたから」


『俺は、何か失敗を』

「いえ、今はカマをかけました、ふふふ」


 初めて、女性に触れたいと思った。

 笑わせたい、喜ばせた、触れたいと初めて思った。


『少し、横になって冷やしたい』

「あ、お部屋をご案して頂きますね」


 彼女と2人だけになる。


 普通の男が考える様に、下世話な案が浮かんでしまった。

 彼女を抱き、強引に父親から許可を貰えば良いんじゃないか、と。


 けれど彼女の父親はマトモな男、しかも作家、言い包められるのは寧ろコチラになってしまうだろう。

 なら、段取りを踏むべきだ。


 手を出すべきでは無い。


『良い部屋だな』

「初めて入りました、逢引部屋なんだそうですよ」


 とんでもない事を嬉しそうに言われ、つい決心が揺らぎそうになってしまった。

 彼女は賢いが、何処か危うい。


『冗談なのか本気なのか判らないんだが』

「半分は、ですね、初めて入りましたから」


『君は何処にでも行くのかと思っていた』

「危ない場所に1人では行きませんよ、少しの油断と軽率な行動で、人生は変わってしまいますから」


『俺も男なんだが』

「情愛を求めるなと仰っていましたし、賢いアナタ様なら手は出されないかと」


『今までもそうして来たのか』

「はい、私は養われている身です、せめて父の糧になればと。皆さんに色々と楽しませて頂きました」


 こんなにも、好いた相手が遊び慣れた人だと知るだけで、こんなにも心苦しいのか。

 彼女はどんな思いで俺と。


 いや、情愛を求められないなら、せめて糧にでもと思ったとしても不思議は無い。


 本当に、余計な事を言わなければ。

 最初から、黙って様子を伺っていれば。


『余計な事を言わなければ良かったな』

「いえ、お互いに妾を持ち幸せに暮らしている者も居る筈です、私とならそう過ごせるかも知れないと思っての事かと。ふふふ、全然当てが外れましたけどね、ふふふ」


『そうした条件を君は跳ね除けるべきだ』

「あら、そうしてもっとお顔の良くない方を紹介されても困ります、条件は日々悪くなるのです。毎日見ても苦では無いお顔の方が良いかと」


『顔か』

「大事ですから、毎日何かを嫌っている様な顔は見ていては、気分の良いモノではありませんし」


『まぁ、そうだが』

「ですのでご無理をなさらないで下さい、お顔の好みは其々ですから。では、失礼致しますね」


 流れる様に去られ、思わず考え込んだままになってしまった。

 もしかして、最初に俺が拒絶したのは、顔のせいだと。


『待ってく』


 彼女は既に廊下にすら居らず。

 跳ねる様に、兎の様に外を駈けて行った。

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