第12章 記憶を失くした男と女。
第1話 記憶を失くした男と女。
ココが自分の家で有る事も、自分が誰かも分かる。
けれど、彼女は。
《旦那様》
良い着物を着ている、使用人とは違う筈だけれど。
「君は、誰だい」
僕がそう呟くと、彼女はワッと泣き出した。
『旦那様、彼女は奥様です』
「すまない、君の事も自分の事も分かるんだが。いや、どうしてこうなっているのかは分からない、説明してくれないか」
『はい、旦那様は過労からか階段から落ち、頭を打たれてしまわれました』
昏倒してから丸1日経っていた。
日誌を読むに、忙しかった記憶と合致する。
けれど、彼女の事だけが。
日誌に彼女の記載は無い。
どんなに遡っても、いつ結婚したのかも、彼女の事は一切。
「すまない、君の事が全く記憶から抜け落ちているらしい」
《無理も御座いません、旦那様は私を疎んで》
『奥様』
「すまないが、いつ、式を挙げたんだろうか」
《挙げてはおりません、結納も》
『それには訳が御座いまして』
「一体どんな、しまった、今日の仕事は」
大事な取引先との打ち合わせが。
『旦那様、お仕事は』
「確かに頭にはコブが有るが、問題無い、直ぐに用意を」
『はい、畏まりました』
「すまないが、帰ってから話し合おう」
《はい》
支度をする間、僕は彼女の事を考えた。
化粧映えはしているけれど、元は地味な顔立ちだろう。
貧弱でも無い、豊満でも無い体付き。
作法には問題無い。
僕は、彼女の何に惹かれ、妻としたんだろうか。
『お車のご用意が整いました、粗末な軽食ですが』
「あぁ、助かる。行こうか」
『はい』
仕事はこなせた、問題は無い。
ただ、どうしてなのか、やはり彼女の事は全く思い出せない。
名前も、どう出会ったかすらも。
「はぁ」
『お疲れ様で御座いました』
「仕事をすれば少しは思い出せるかと思ったんだが、全くだ、名前すら浮かばない」
『奥様の事は、コチラで何とかなりますので、先ずはお加減を最優先させて頂くべきかと』
「だが」
『お医者様からは、無理に思い出す事は推奨されてはおりません、それに生活に困る事が御座いましたら私達が補佐を致します。どうか、お体を大事になさって下さいませ、お願い致します』
「分かった、だが名と誕生日位は聞かせてくれないか」
『それこそ、奥様と会話なさるべきかと』
「あぁ、それもそうか」
僕は、どうやら妻に嫌われているらしい。
部屋を尋ねると困った表情をしながら、何とか部屋へと入れてくれた。
見慣れた部屋、見慣れぬ女性。
《あの、何か》
「この部屋は、真新しいな」
《最近、使う様になりましたので》
「君と結婚してからか」
《いえ》
「いえ、とは」
《私の本来の部屋を、ご案内しても》
「どう言う事だ?いや、すまない、先ずは名前を良いだろうか」
《それは些末な事、ご案内致します》
名前が、些末な事。
その疑問は直ぐに解消される事となった。
彼女が案内したのは、母屋から出た、離れの書庫だった。
嘗ては僕が与えられていた部屋。
「君を、ココに」
《はい、旦那様には好いた方が居ります、望まぬ政略結婚に納得なさっては居りませんでした》
「僕に、恋人が」
《そう、伺っております》
全く、記憶に無い。
今までの女関係は思い出せる、だが、縁談が。
確かに、縁談が来た事は覚えている。
そこで関係は、既に他とは特に無かった筈。
何故、僕は嘘をついた。
何故、彼女を古い書庫に。
「すまない、思い出せない」
《男性のご友人がいらっしゃったかと、その方なら詳しくお知りになっているかも知れません》
「君はこの処遇を、どう、考える」
《本来、旦那様が娶られる筈だった方は、私の妹かと。理由は他にも、有るかと》
「どう言う事だ」
《私は前妻の子、しかも粗末に扱われていた者を押し付けられ、お怒りだったのかと》
「それは、君のせいでは無いだろう」
《分かりません、これらは憶測ですので》
「まさか僕は、君に、暴力を」
《いえ、ただ、打ち水をする為に表に出ていた事を叱責されただけですので》
「すまない」
《いえ》
全く、意味が分からない。
聞く限り、彼女に過失は無い。
「すまない、戻ろう」
《私はコチラで構いません、高い調度品の扱いにも、それこそこうした着物にも不慣れですので。どうか、以前の処遇にお戻し下さいませ》
「だが、君は僕の妻なんだろう」
《もしかすればご記憶がお戻りになるかもしれません、どうか》
「明日だけだ、明日、僕が居る時だけにしてくれ」
《はい、畏まりました》
僕は、一体何を考えて、あんな処遇を。
「調査書を」
『生憎と、処分なさっておりまして』
「再度発行させてくれ」
『お忙しい調査員ですので、数日掛かるかと』
「仕方無い、少し金を積んで」
『お金で動かれない方でして、ご事情を知れば手を回して下さるとは思いますが。旦那様のお記憶の事は、内々に処理されるべきかと』
「分かった、暫く待とう」
『はい、畏まりました』
調査書が届くまで、情報を他から集めるしかない、か。
「アレと、会うか」
『ソチラも、ご記憶の事は』
「あぁ、分かってる」
好敵手であり、悪友。
きっと、僕は彼女の事を何も言っていないだろう。
けれど、何か手掛かりは欲しい。
《おはようございます》
「おはよう」
いつも通りの見慣れた朝食と、見慣れぬ女。
お仕着せを身に付け。
僕に挨拶すると、何処かに。
『奥様は使用人と食事をしております』
「何故だ」
『旦那様のご命令でした、どの様な女なのか皆で見定めろ、と』
「何故だ、彼女に悪評が有ったとでも」
『いえ、奥様の事は何も、我々には分かってはおりませんでした』
「なら何を知っている、言え!」
『申し訳御座いません、我々は、把握してはおりません。全て、旦那様のご記憶にのみ御座います』
「なら、僕は他に何をさせていた。言え」
『奥様を娶られに向かい、奥様をご紹介され、私に分かる程度に少しだけ顔色を変えられ。そのまま奥様をコチラへ、古い書庫へ住まわせる様に、強く申し付けられました』
「そして、見定めろと」
『はい、そして奥様の部屋を急いで整えさせ、お品物も揃えられました』
「アレは、誰の趣味なんだ」
『旦那様が、お揃えになりました』
似合わないとまでは言わないが、彼女には合わない着物を、僕が。
「そうか」
僕は、何を考えていたんだ。
『件の方は午後3時よりお時間を頂きました、それまで、奥様のご様子を伺っては』
「分かった」
そして彼女は、使用人と共に食器を洗い、洗濯をし。
アイロンがけに繕い物までこなした。
けれども花を活ける事に不慣れで、お茶に至っては未だに手習いの段階、そして書も。
ただ数字には強い、あっと言う間に家計簿の確認を終わらせ、間違いも指摘した。
そうして合間の休憩では、金平糖を大事そうに食べ、良く味わっていた。
どう考えても、良家の娘と言うにはあまりに歪。
『日本舞踊やお琴、それらもお習いでは無かったそうです』
「試したのか」
『はい、習ってらっしゃる前提で、厳しい方を付けたのですが。お辞めになりました』
「才が無かったか」
『そろそろお支度を』
「あぁ、そうだな」
どうして側近が答えなかったのか、僕は尋ねるべきかを悩んでいた。
もしかすれば、僕はもっと、惨い所業をしたからでは無いのかと。
コレ以上、向き合う気力は無かった。
まだ、これらか確認しなければならない事が山程有るのだから。
『お、何だい話とは、とうとう妻の自慢話かな』
「それが、最近、少し拗れてしまってね」
『成程、無理も無いさ、あんだけ惚れて娶ったのだからね』
「君に、相談した事は有ったか」
『いや、けれどお噂はかねがねって事だ。だからこそ、とうとう相談する気になったのか、とね』
「贈り物の相談すら、しなかったか」
『だね、浮かれてたのか申し込み前にポンポン買ってたらしい、とだけ。見せて回るのかと思っていたけれど、まぁ、相変わらず囲ったままなワケだ』
日誌に書かれた買い付け、とは、それの事だったのか。
そこも、記憶から消えている。
ぽっかりと。
「このまま、囲っておくかも知れないな」
『だろうね、どうしようも無く惚れてしまって、困ったと言ってた位だからね。ただ、流石に奥方が可哀想じゃないか、折角の紅葉の季節だ。里帰りなり、旅行なりしてやりなよ』
「あぁ、そうだな」
『浮かない顔だね、そんなに愛し過ぎてしまったか』
「あぁ」
僕は急いで顔を隠した。
彼に悟られれば、僕の悪行がバレてしまう。
妻を蔑ろにする男と思われるなど、僕は嫌だと言うのに。
『お詫びの品でも買いに行こうか』
「あぁ、そうだな」
どう着物を選んだのか、どう調度品を選んだのか全く分からない。
これが糸口になれば良いんだが。
『成程、奥方の趣味が変わったのか』
「あぁ、女には良く有る事とは言えど、困ったものだね」
『それか、君が試されているのか』
「そうかも知れないね」
考えもしなかった、妻が僕を。
『まぁ、今回は奥方の言う通りにしておこうか』
「そうだな」
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