第4話 名家の酷い男と、虐げられていた妻。
「あ、佐藤先生」
《あぁ、お元気でしたかアヤメさん、顔色が随分と良いですね》
「はい、お陰様で、食っちゃ寝の贅沢をさせて頂いております」
《そう、そうなんだね、本当に良かったよ》
「そう心配なさらないで下さい、殺されない様にするのは得意なんですから」
《すまない、守れなくて》
「いえいえ、先生はあの家に書生としていらしてたんですから、気に掛けて下さってありがとうございました」
《良いんだ、君が幸せなら》
「まぁ、あの家が家ですから、生きているだけでも幸せなのかも知れませんね」
《まさか、嫁ぎ先でも何か》
「今度、夫に名入りの本を下さいませんか、創刊号に載っていたんです」
《あぁ、勿論、是非》
「先生は幸せになって下さいね、じゃ」
《待ってくれ》
「コレ以上話し込んでは誤解されてしまいます、さようなら先生」
妻の笑顔も、親しげな態度も初めて見た。
しかも他人に、男に向けて。
『あの男は誰なんだ』
玄関先で俺が彼女の腕を掴むと、あの男に向けた様な目とは打って変わって。
冷たく、凍る様な眼差しを。
「嘗て実家にいらっしゃった書生の佐藤さん、今は大作家として身を立てるらっしゃる方ですが、何か」
丁寧な言葉で、壁を作られ、冷たい眼差しを向けられ。
『いや、すまなかった』
「はぁ、お疑いならまた検査でも何でもして下さい。相変わらず私は清いまま、なんですから」
『なら、着飾って行ったのは』
「みすぼらしい格好で家を出て不評を買っては困りますから、それにアナタも気にしてらっしゃる世間体、家の為ですが。そうお疑いになるなら以降はご命令下さいまし、どんな時は何を着るかいつ何をするか、ご命令下さい。慣れてますから、そうした扱い」
自笑したのか、馬鹿にされたのか。
口角を上げた彼女に、俺は。
『君は』
嫉妬心だったんだろうか、独占欲だったのだろうか。
「おぇっ、げほっ」
『そんなに、そんなに俺が嫌なのか、吐く程に』
「ごほっ、そぅ、そうですか、喜んで抱かれる様な女だと」
『違う!違うんだ、頼む、やり直させてくれ』
「最初からやり直させたじゃないですか、なのにコレは、無理ですね、離縁させて頂きます」
『待ってくれ!』
「誰にも言いません、こんな事に興味の無い者しか居ない場所に引っ込みますので」
『行かないでくれ、頼む』
「ですが離縁状は頂いておりますし」
『すまない、覚悟を示したかっただけなんだ』
「では、どうしろと仰るんですか」
『両親の様な夫婦にはなりたく無かったんだ、なのに、すまない』
「その泣き落とし、実家で虐げられていた私に効くと思いますか。こんなんじゃ、この家滅びますよ」
自分の愚かさを見透かされた様な気がして、思わず。
ただ黙らせたかった。
蔑む様な目を止めさせ、あの男に向けた様な眼差しを向けて欲しいと。
ただ、黙ってくれればと。
《奥様!!》
《あら聞きました奥様、例の家の奥様、お倒れになったそうなのよ》
『あらまだ新婚でらっしゃるのに、もしかしてお目出度かしら?』
《それがどうにも違うらしいのよ、何でも、ご実家の事で悩まれてらして》
『あぁ、妹さんが奔放過ぎて、大変な事になってらっしゃるらしいわね』
《そうらしいわね、それを気に病んでの事、らしいのよ》
『あらお可哀想に。けれど、もうあの家も駄目ね』
《本当に、とんだ曲者と縁続きになるだなんて、もうあの家もおしまいね》
『残念だわ、お顔は良いのよお顔は、ね』
《ですけどね、お顔だけでは、ね》
『あぁ、そう言えばご存知かしら、隣町の……』
当時の僕には力も金も無い、単なる書生。
下手に庇えば、関わってしまっては彼女の不利益となる。
そう自らに言い聞かせ、彼女が虐げられていても無視した。
けれど彼女は賢かった、証拠を外に残しつつ、ひたすらに耐えた。
そんな彼女の強さに惚れ、僕は文を渡した。
けれど読んで直ぐ彼女は飲み込んだ、僕の軽率さを叱る事無く、ただありがとうと一言だけ。
だからこそ最低限、決して誰にもバレない様に何の証拠も残さない様に。
僕らは、小さな文のやり取りを始めた。
『先生、東京から文よー?』
《差し出し人はー?》
『アヤメさん、って、お知り合い?』
そして久し振りに彼女から届いた文には、もしかしたら僕に世話になるかも知れない、と。
僕は我慢出来ず、直ぐに彼女の嫁ぎ先へ向かった。
嬉しい筈の文に不安を覚え、どうしても足が向いてしまった。
《どうも、佐藤と申します。実は出版社に寄ったので、奥様に頼まれていた事をと、思いまして》
『どんな用件でしょうか』
《実は旦那様に名入りの本をと頼まれていたんです、贈り物が思い付かないから、と》
『それは、いつの、事でしょうか』
《いつだったかは定かでは無いんですが、道すがらに会った時、頼まれたので》
『あぁ』
彼は某雑誌の表紙よりも遥かにやつれ、病にでも掛かっているのかと言う程で。
とうとう、膝から崩れ落ち。
《もしかして奥様は、何かご病気で》
『お聞きになっていませんか、妻の事』
《生憎と遠方に住んでいるので、すみません》
『寝たきり、なんです』
《それはまた》
『首を、吊って』
僕に世話になるかも、と、あんなに跳ねるような文字だったのに。
まさか、彼女が。
《あぁ、もししかして事故で》
『冗談ですよ。でも、親しかったんでしょう、道で話しているのを聞きましたよ』
《あ、誤解ですよ、偶々その時に会って本を頼まれただけですし。それこそ他の書生だった者に尋ねてみて下さい、奥様の身の潔白は間違い無く、証明されますよ》
『ではアナタは気が無かった、と』
《強い方でらっしゃるなとは思いましたが、コチラは書生、心苦しいですが火の粉は払わせて頂いておりましたよ》
どうしてだろうか、変な胸騒ぎがする。
問い詰められているのとは、別の不安。
『それが本当なら、ガッカリはなさらないでしょうね』
案内された部屋には、僅かな異臭と、百合の噎せ返る様な香り。
清潔な寝具の上には、まるで呆けた様な彼女が。
あぁ。
この百合の匂いは、彼女の下の匂いを掻き消す為。
《彼女に、一体何が》
『俺が締めた、アンタのせいだ』
《僕、ですか。一体、本当に何が有ったんですか?》
『俺が、首を締め、暫くして息を吹き返した時には、もう』
静寂のあまり耳が痛くなり、眩暈がした。
本当に偶々、道すがらで会った彼女に話し掛けただけで、こんな。
「ぁ゙ーぅうー」
『あぁ、水かいアヤメ、そう、ゆっくり飲むんだよ』
彼は、なんて顔で彼女の世話をするんだろうか。
愛おしそうに、優しい目で。
《コレが、アナタの望みですか》
僕の言葉に止まった後、再び彼女の顔を愛おしそうに見つめ。
『ぁあ、そうですね、そうだったみたいです』
美丈夫の極上の笑みに、僕は恐怖した。
結婚してから半年も経っていない筈。
そこから彼はどれだけ、熱を上げたのだろうか。
あの彼女が、あんな風に言っていたのに、彼に気を許すワケが無いと言うのに。
《お忙しい所を、失礼致しました。彼女から頼まれた品ですが、遅過ぎたかも知れませんね》
『いえ、どうも、ありがとうございました』
僕の著書には目もくれず彼女を見つめたまま、薄気味悪いとも言える笑みを彼は浮かべた。
整った顔を、悲しそうに嬉しそうに歪ませ、愛おしそうに。
妻となった者への独占欲とは、かくも恐ろしい事になるのだろうか。
彼の情愛は、本物だったのだろうか。
そうして僕は薄ら寒い家を出ると、出版社へと向かい。
そこで原稿用紙に彼女の存在を残す事にした。
けれど、あまりにも登場人物に思い入れが強いと、筆は進まないもので。
僕は未完の原稿を鎌倉の家に持ち帰り、ただ彼女に起きた出来事だけを書き起こし続けた。
「すみません、佐藤先生」
佐藤先生の勘は素晴らしく、妹さんの醜態を直ぐに探れたのは良いんですが。
同時期に低俗な大衆紙も追っていたらしく、ツバキ姫と揶揄され一面を飾る事に。
《いや、君が謝る事では無いよ林檎君》
「先を越されたってワケじゃないですけど、残念です、すみません」
《どうやら元から相当だったらしいし、いつかこうなっていたのだと思うよ》
その後、花山家は黒木家の先々代の家に合併され、呉服屋花山は消え去ってしまいました。
そして件の妹さん、ツバキ姫は男を奪われ恨んだ女に顔を焼かれ、身投げ。
完全に花山の血筋は。
「あ、アヤメさんは大丈夫かな」
《確かに気になるね、もしかしたら気に病んでらっしゃるかも知れないし、お見舞いだけでそっとしてあげて下さい》
「はい、噂の被害に遭われた方なんですし、はい、そうさせて頂きます」
《はい、気を付けて》
そうして僕は鎌倉の駅に向かう途中、素敵な色のワンピースを着た女性をうっかり見つめてしまった。
何とも言えない淡い色の紫が、裾に行く程に濃くなり。
「まるでアヤメかカキツバタ」
「あら、ふふふ、ありがとう」
「あ、いえ、失礼しました、あまりに素敵なお召し物だったので」
「でしょう、私も気に入っているの」
「良くお似合いですよ、日傘も」
「ありがとう、もっと感想を頂きたいのだけれど、もう直ぐ汽車が出るんじゃないかしら」
「あ、失礼します!」
「はい、さようなら」
そうして僕は竹籠いっぱいの林檎を持って、黒木家へ向かったんですが。
驚きました、もしかしたら僕は幽霊と会ってしまったのかも知れません。
『君は確か、林檎君、だったか』
「はい、松書房の林檎です。奥様のお見舞いにと伺わせて頂いたのですが、もしお忙しい様でしたら、コチラだけでもお受け取り下さい」
黒木さんは、以前にお会いした時よりも遥かにやつれてらっしゃいまして。
白髪も増え、まるで別人か、と疑う程で。
『コレは、君が産んだ林檎かな』
「いえいえ、ですが近いですね、実家から届いた林檎なんです。なので特に美味しそうなモノを選んで籠に入れたので、奥様に喜んで頂けると良いんですが」
僕は出版社の人間、警戒されて当たり前。
ただ道すがらに良くない噂を聞いてしまったので、どうしても奥様にお会いしたかった。
『個人的だと言うなら、受け取らせて貰うよ』
「勿論ですよ、本当に心配になって。それに決して無許可では何も載せませんよ絶対に、そんな事をしては取材先が減るだけ、信用も何も失うだけですから」
『少し、上がっていってくれないか、実は妻が少し不機嫌でね。幾ばくか相手をしていて欲しいんだ、林檎を剥き終えるまで』
「はい、喜んで」
家も以前より手入れが行き届いていなかったんですが。
無理もない事、どうやら本当に奥様が病んでらっしゃるのですから。
けれど、何か違和感が。
『入るよ、アヤメ』
「失礼します、以前にお世話になった、林檎ですが」
『すまない、淋しかったかい』
部屋に入ると共に、噎せ返る様な百合の匂いが漂い。
ベッドには。
ベッドには真っ白な。
「あの」
『まだ不機嫌なままらしい、すまないね。あぁ、コレは林檎君が林檎を持って来てくれたんだ、直ぐに剥いて来るから、林檎君に愚痴でも言っていなさい』
黒木さんには幾度かお会いしただけでしたが。
こんなにも愛おしそうに、柔らかくお話しする姿は初めてで。
僕は。
僕は言葉を紡ぐ事すらも躊躇ってしまった。
「黒木さん」
『あぁ、林檎を剥く間、すまないけれど妻を頼むよ』
「あ、はい」
そうして僕は簡素な部屋いっぱいの百合と、黒木さんの
そしてずっと、驚いたまま。
こんなにも人は情愛で変わるモノか、と酷く驚いてしまって。
けれど、もし、コレが彼の幸福なら。
彼が幸福であるなら、と、僕は何も言わない覚悟をした。
人の幸せは其々。
花を酷く愛でる者もいれば、美食をこよなく愛する者もいる。
その幸福を潰す意味を、批判する意味を、僕は未だ知らない。
『すまないね、慣れなくて』
「いえいえ、上等ですよ、ウサギリンゴ。僕も良くこうして母に切って貰いました」
『そうか、僕は身内に切って貰った事が無くてね、家政婦に切って貰っていたんだよ。知っているだろう、僕の親は生死不明、相変わらず行方不明のままでね』
「不謹慎かも知れませんが、却って良かったのかも知れませんね、嫁姑問題は起こりませんから」
『あぁ、確かに、そうだね』
そう仰った後、彼は林檎を一口。
奥様を見つめながら、まるで目だけで会話をしてらっしゃる様に、微笑んだり悲しそうな顔をしたり。
「もしかして奥様は、林檎が」
『いや、また僕が同情を買おうとした事が気に食わないらしい、彼女はもっと大変な思いをしていたからね。居ない程度で済んで良かったじゃないか、虐げられたワケでも無いクセに、と。すまない、僕も何か手を貸すべきだった』
「あの、奥様は僕がココに」
『いや、君の事を僕が話しているし、ほら、居てくれて構わないと言っているし大丈夫だよ。それに月刊怪奇実話が好きでね、僕も読ませて貰っているよ、世間の低俗な噂も入らないしね』
「浮世を忘れて頂くのも、出版社の仕事ですから」
『良い仕事だね、すまない』
「あの、厠を」
『あぁ、案内するよ、待っていておくれ、アヤメ』
そして厠の後、僕は真相を聞かせて頂く事になりました。
妻のアヤメが素っ気ない態度を取るには、理由が有る。
そもそも俺が籍だけでもと結婚した直後、いや、最初から間違っていたからだ。
何もかも、と。
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