第98話「点火」
私はジオさんに寄り添って立ち、体を支えます。
「やめましょう。もういいです。休んでください」
ダニーさんが勝てなければ、もうお終いです。大怪我をしているのを理由にジオさんを見逃してもらえるなら、どれだけ有り難いか分かりません。私はもう戦う気力がありません。
「大丈夫だ。すぐ済む…」
頼りなく立っているジオさんが、私の頬の涙を拭いてくれます。私は返事が出来ません。怪我をした体で何が出来ますか? 本当に、あの敵に勝てるのですか?
「ダニー。少し離れててくれ」
小さな声がダニーさんに聞こえたかどうか分かりません。そもそも言葉は通じません。
男がジオさんの方に顔を向けると、ダニーさんは言った通りに離れました。何かが伝わったのでしょう。今のジオさんからは、無言の圧力や気迫といったものは一切感じません。感じませんが…。信じていいのでしょうか…。
ジオさんは、さっき捨てられた皮袋と似た皮袋を取り出して、中の液体を手に取ります。
考えている事は私にも分かります。
男が火の魔法を使った時、油を飛ばして火を点け、男に浴びせる。風の魔法を使うジオさんなら実現可能な作戦です。ひとつ目の皮袋は男に奪われましたから、ふたつ目の油を使うつもりでしょう。
私達は殆どの場合、ふたつの油を持ち歩きます。ひとつ目はランプ用の油で、よく燃えます。もうひとつは料理用の油です。少し火が点きにくいかもしれませんが、あの強力な火の魔法なら問題無さそうです。
ジオさんが歩を進めようとするので、支えたまま私も進みます。とてもじゃないですが、戦いに挑む冒険者の姿ではありません。それでも風の魔法は、きっと万全に使えるのですね?
「有り難う。ここでいいぞ」
小さな声を聞いて、手を離します。信じていいのですよね?
ジオさんを待つ男は片手を怪我していますが、まだ余裕を感じます。ジオさんには余裕はありません。ゆっくりと歩き、男の間合いに入ります。男の拳が届く距離です。もう一度攻撃されれば、次は立ち上がれない事が想像出来ます。
男は、ジオさんより背が高いです。両手を腰に当て、ジオさんを見下ろします。対するジオさんは、油を握った手を上に突き上げています。本来ならば勇ましい姿ですが、今は弱々しく見えます。
お互いが動かず睨み合いになり、部屋の中は静寂に包まれます。男は目線を動かして、ジオさんの手を見ます。
「その手のそれ、油だろ?」
男が笑ったのが分かりました。何をするのかも分かりました。
「しょうがないな。火くらい点けてやる」
男は集中し、火の魔法を使います。ジオさんの手の傍に光る点が現れます。火傷をするかもしれませんが、街に帰る事が出来れば治療魔法で治ります。男は、ジオさんの反撃を躱すつもりでしょう。それを躱させない策があるのですね。きっと…。
俺の掲げた手に火が点くことは無い。
俺は思い出していた。旅の途中で聞いた事。立ち寄った村にあったという宝石の事。覗けば空と湖が見えると教えてもらった事。目の前の男も似たような感想を言った事。
「これ、水だよ」
俺は、男に静かに告げた。
これは賭けだ。いくつかの偶然に頼った賭けだ。
例えば、こいつが持っているのが俺の思っている宝石でなかったら、賭けは負けだ。水をかけると込められた力が発動する、それが嘘だったら俺は終わりだ。毒か何かが出て、こいつが倒れる、そうならなかったら俺の負けだ。
ただ、鈍った感覚の中で、うまくいく確信だけがあった。ダニーは、何かを感じて一歩引いた。あんなに心配ばかりしていたルオラが、もう迷っていない。リージュの魔法で、俺は生きている。全ては、この反撃のためだ。
俺の手は、魔法の熱に包まれるが燃え上がりはしない。指を動かそうとすると少々痛むが、気にしていられない。手の防具の布部分に小さく火が付いたが、それも気にしない。その手を男の目の前に翳すと、男は不思議がった。
「確かに燃えないな。だから何だ?」
俺は何も言い返さずに、手をゆっくりと男の胸元に近付ける。こいつが宝石を隠した位置に、濡れた手を押し当てる。攻撃するように見えるわけが無い。だから男は警戒しない。これで宝石に水が触れたはずだ。
「まずは一人」
俺達を相手に遊んでいた男は、ついにひとりずつ仕留めていく事に決めたようで、隙だらけの俺は犠牲者になる。その攻撃は、一撃目と同じで強力だった。
拳で打たれて意識を失い、後方に吹き飛んで倒れた衝撃で意識が戻る。感覚が麻痺して、痛みは僅かしか無い。戻った意識は、はっきりとしない。ただ、なんとなく様子が見え、なんとなく声が聞こえた。
「二人目はお前にしよう」
男は、ルオラの方に一歩踏み出した。
「なんだ? この部屋、暑くなったな」
毒が効き始めたのだと思った。
「違う。違うな。おい、死にぞこない、何かやったか?」
俺が何かしたんじゃない。お前自身が最初から敗因を持参してたんだ。
「何かおかしい。うおお…」
男の胸元、宝石のあるあたりから勢いよく火が吹き出す。
「うおおおおおお…」
火はすぐに燃え広がり、男の上半身を包み込む。ダニーの一撃でも倒れなかった丈夫な男が両膝をつき、苦しみの声を上げる。
あの村で話を聞いた時、宝石から毒が出るのだと思っていた。しかし、宝石のあるあたりから出たのは、激しい炎。人一人を燃やし尽くしそうな凶悪な炎。勝敗は決したが、何が起きたかは理解出来ない。
水をかけたのは正解だったのか? そもそも宝石は、村にあったものだったのか? もしかしたら、吹き出した毒が油みたいな性質で、それが燃えているのか?
「まあいい。ざまあみろだ」
俺の声は、誰にも聞こえなかったかもしれない。今日の俺の仕事は終わった。体が言う事を聞かない。少し眠らせてもらおう。
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