遠い昔に失くした物語

丸千

第1話 始まり

「先生、何ですか? 今日の授業は終わりましたよ」


 不意に思い出したのは、学生時代の思い出だ。その日は、授業が終わって帰宅する前、俺の事を気に入ってくれていた一人の教師に、実験室に呼ばれたんだった。


 授業が無ければ、誰も近寄らない部屋。興味の無い者が見たら、何に使うか分からない実験器具が、壁の棚いっぱいに詰め込まれた部屋。

 その様子は、整頓されているのに散らかっているように見えて、人を遠ざける。その教師は、その部屋に入り浸っていると噂だった。


「君、これを見て」


 部屋の中に居た教師は、実験机の傍に立っていて、俺が部屋に入るのを待ち構えている。鞄を肩に掛けたままで、机に近付く。教師はほんの少しだけ興奮している様子だが、待っていたせいで怒っているわけでは無さそうだ。指差したものを見つめるが、興奮気味の理由は全く分からない。


 机の上にあるのは、片手で持てるくらいの大きさのガラス瓶ひとつ。その中に、火が点いたろうそくが入っている。その広い机には、他に何も置かれていない。


 白衣を着た教師は、手の平くらいの大きさの薄いガラスの板を持っていて、それでガラス瓶に蓋をする。蓋をした時に起きた風が、中に閉じ込められたろうそくの火を軽く揺らしたが、すぐには何も起きない。


 見つめていると、唐突に火が消える。ガラス瓶の中は、うっすらと煙が漂っている。この様子を二人で無言のまま見つめた後、教師が聞いてくる。


「どうかな?」


「どうかなって、何も分かりません」


 意図を読めず、素直に分からないと言った。それで教師が質問を変える。


「君は、空気を吸って息をしているでしょう?」


「突然何ですか?」


 ふたつ目の質問の意味も解らなかったので、思わず尋ねてしまった。教師は、こちらを見つめて待ってくれている。間を置いてから質問に答える。


「はい。それは解ります。水に潜ると息が出来ないし、水の中で息を吐くと泡が出ます。空気を吸っているのは解ります」


「その空気には種類があるようだよ。火が燃え続ける空気と、火が消えてしまう空気。息が出来る空気と、出来ない空気」


「先生、それってどういう事ですか?」


「火が消えてしまった後、このろうそくにマッチを近づけても、火が点かない。それどころか、マッチの火が消えてしまうんだ。つまり、火で空気が駄目になったという事だ。別の実験で、駄目になった空気に鼠をいれたら息苦しそうに死んでしまったよ」


「かわいそうな事をしますね」


「うん、そんな風になると思ってなかった。でも発見だったんだ」


「そうですか…」


 思う事がたくさんあって、少し考えたかった。時間をかけて言葉を探す。教師は、また待ってくれている。


「何故、この事を俺に?」


「君一人だけは、こういう事に…。その…。何というか、世界の規則みたいなものに興味が有りそうで…」


 今度は教師が、言葉に少し間を空ける。俺は、次の言葉を待っている。


「君は、他の人が気にせずに見過ごしているような、理解しにくい物事を理解しようと努力出来る性格だろうと思ったんだ。考え込むのが好きでしょう?」


「本を読むのも、考えるのも確かに好きですが…。今日の話は突飛すぎます。話に追いついていません」


「こういう発見を見てくれるのは、多分、君だけだ。私の気持ちも理解して欲しい」


「それは…」


 それはそうだ、と思ったが全部を声には出さなかった。教師の推測は当たっている。他の連中は、自分の事だけに夢中だ。


「まあいい。話が遠回りするけれど、君は火の魔法が使えなかったね。珍しい事だ。エルフやダークエルフも火の魔法が使えないが、人族は火の魔法に愛されているのに…」


「その事は、とても嫌ですよ」


「知ってる。顔に書いてある。授業中も、一日中ずっとね。でも、代わりに風の魔法が使えるじゃないか」


「風の魔法は、エルフ族やダークエルフ族が得意とする魔法です」


「いやいや、気を悪くしないでくれ。苛めているんじゃない。私も火の魔法が使えないし。そもそも人のうち、強力な魔法が使えるのは半数以下だからね。君がもし、将来、軍隊に入って魔法兵士として戦う時や狩人になった時、戦いの中で火を武器として扱う事もあるんじゃないかって思ってね。そんな時、或いは身を護る時、こんな知識でも役に立てばいいかなって…」


 小さく頭を下げて相槌すると、教師はさっきより間を空けて言葉を続ける。


「それと、もし、この先訓練をしても火の魔法がずっと使えなくて、そのうえで風の魔法を使って生きていくのが嫌になったら、世界の規則を私と一緒に研究しよう」


「先生のいう科学と言う学問ですか?」


「そう。ただ、その呼び名も他の研究者が違った呼び方をしているかもしれないし、まあ、私以外の研究者が居るのかも分からないけれど…。ただ、物事が何故そうなったのかの理屈を考えているだけで、学問と言えるかどうかも分からない。しかし、さっきの空気の話だって面白そうでしょう?」


「いつも同じ事が起きるのなら、いつも同じ理由、規則があるのかもしれませんね、不思議ですが…」


「この世界はまだ分からない事だらけだから、もし君が何か新しい発見をしたら、私に教えておくれよ」


「はい、分かりました」


「今日は有り難う。気をつけてお帰りなさい」


「はい」


 馬車の荷台で揺られながら、懐かしい記憶に浸っていた。


 学校を卒業した後、俺は魔法の勉強を続けて傭兵になった。その頃になって、人族であっても風の魔法しか使えない奴が何人も居る事が分かった。そして風の魔法兵士は、冒険者としても傭兵としても必要とされている事も分かった。


 何よりも、人の怪我を治す治療魔法も使えるようになってから、大事にされるようになった。火の魔法は使えないままだが、働き始めるとその事で自信を失うような事は無かった。


 こき使われているだけかもしれないが、今は忙しい毎日を送っている。畑を荒らす魔獣が出れば退治に行き、戦争があれば戦場にも行き、人同士で戦う事もある。


 あの時の科学という言葉を思い出す事はあったが、強く意識する事は無かった。ただ、あの日見た事が、物事を深く考えるようになったきっかけだった。それから今日まで、よく考えた事で助かった事、上手くいった事がいくつも思いつく。悪くない思い出だ。


 この馬車の狭い木製の荷台には、俺以外に五人の兵士が座っていて、国境線を見回る任務を終えて街に戻る途中だ。皆が疲れていて言葉を発する者は居ない。汚れたままの服と鎧を身に着け、動かない。座ったまま下を向き、意識と体を微睡みに任せているようだ。


 馬車を操る御者と俺の二人だけが起きていて、御者は前を見つめて振り返らない。馬の足音と荷台が軋む音が聞こえる中、御者の背中を見つめていても面白くも何ともない。俺は馬車の後ろの方を向いて、景色が遠ざかっていくのをずっと見つめている。


 空は晴れている。目の前に広がっている草原は、一年程前に隣国が侵略してきた時、防衛戦が繰り広げられた戦場跡だ。一面に背の高い草が茂る中、小さく人影が見えた気がする。


 草原に佇むその人影は、表情が見えないくらいに遠かった。ただ、髪は長く、俯いているように見えた。戦友の遺品でも探しているのか、悲しげな印象だった。


 例えば、過去と向き合って気持ちを整理しないと前に進めない、そんな人も居るのだろう。馬車は進み、暫くするとその人影は見えなくなった。


 世界の進んで行く方向なんて前から分からなかったが、戦争があったせいで余計に分からなくなった。魔法を使える者は魔法を、体力に自信がある者は剣を持って技を磨き、それぞれが明日の戦いに備えている。


 次の戦争がいつかなんて誰にも分からない。この世界で生きている全ての者は、今を生きる意志を試されている。そんな事を思った。

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