第51話

いつもならしばらく言い合いした後に頭が冷えれば元に戻るが、この日は麻由子は我慢がならなかった。もう切ろう、これ以上一緒に居ても苦しいだけだ。そう思った麻由子が一方的に通話を切りメッセージも返さないでいると、やがて和弘から


「歩きながら通話してたから、知らない岡山の夜の街で迷子になっちゃった。ビジネスホテルに帰る道が分からない」


とメッセージが入った。いよいよ呆れながら和弘に今度は麻由子から通話する。


「何やってんの…携帯でホテルの名前打って道検索しなよ」


「それがホテルの名前も忘れちゃった、ナントカなんとかの、新館てのは覚えてる」


こんな体たらくでは、今日話した事も明日には大半忘れているはず。なんて意味が無い時間だったんだろう。そう落胆する麻由子に和弘は


「ねえお願い、俺はまゆが居ないと生きていけないんだよ…離れないで」


と、いつもの調子で言い出した。将来の口約束すらしない癖に、すがる時だけはいつもこう。麻由子は嫌だ、と返そうとしたがスマホの向こうから聞こえる鼻を啜る音に、返すに返せなくなった。


「…泣いてるの?」


「だって、まゆが別れるって言うから。頼むから別れないで…」


「だからって泣かないでよ、酔いすぎ」


「酔ってるからじゃない、捨てられたらと思ったら涙止まらなくなっちゃって。たくさん傷つけてごめん、信頼は無いと思うけどこれから態度や言葉で信じて貰えるように…あ、ビジネスホテル見えてきた、この道で合ってた」


「良かった(笑 なら早く部屋に行きなよ」


「まゆ、別れないで」


麻由子は心底呆れ返ると


「もう、わかったよ」


とだけ返して通話を切った。


それが性格、を通り越して脳の特性とまで言われてしまえば、抗いようも直しようもない。かと言って麻由子自身も、もう嫌いになりきる事がやっぱり無理な程情も沸いていた。何度切ろうとしても無理で、捨てきれないのなら我慢し続けるという選択しか無かった。それから数日後には岡山土産を渡す為に和弘が麻由子に会いに来た。夜の車内で土産を手渡すついでに、和弘が麻由子の手を取りまじまじと見る。


「まゆ、指輪好きだよね」


「そうだね、かずに貰った指輪は左に着けたままにしてるけど、右は数日置きに自分で買ったコレクションから選んで一つか二つ、必ず着けてるよ」


「…ペアリングか、ペアネックレス付けたい」


「どうしちゃったの?そんな事言った事無かったじゃん」


「無かったけどしたいの!ねえ、ダメ?」


「ダメでしょ。私は自由だけどそっちはすぐ奥さんに『何これ』って言われるよ」


「言われたって構うもんか、なあ、着けたい、お願い」


構うもんか、と言われても麻由子は構うし困る。それがきっかけで和弘のスマホの中を探られたりして自分に行き着かれたらたまったものではない。だから何も着けたくはないがあまりにうるさいので、麻由子は少し考えて自分から提案してみた。


「リングやネックレスじゃなく、天然石のブレスレットはどうかな。障害者福祉のグループホームとかB型事業所で、利用者さんがリハビリとかも兼ねて石のビーズのブレスレットを作って販売とかもしてない?かずはその言い訳が出来るから」


「あ、作ってる工房知ってるよ!そっか、そこのなら着けていてもおかしくないや。実際、以前に利用者さんが作ってくれたミサンガ着けてた事あるから」


「なら、いつかその工房で買うかネット通販で探してみよう?」


麻由子が言うと、和弘はもうスマホを取り出した。


「今2人で居るから、今探さない?」


これも衝動性という特性なのだろう、思い立ったら吉日という行動が、和弘は本当に多い。麻由子もそれに付き合い、二人は手頃な値段で身に付けやすいビーズが小さめのブレスレットを選び、麻由子の家に届くように注文した。


「これが届く頃、秋のお出かけデートもしない?俺、築地に行ってみたいんだ。まゆはミニチュアが好きって言っていたから有明のスモールワールズにも行こうよ」


どこか遠出する時は、提案はいつも和弘から。例え将来なんか考えておらず今が楽しければそれで良い。そうとしか思われて居ないにせよ、こうして和弘は土産を渡すだけ、デートをするだけ、などセックス以外の時間もいつも持ってくれる。それを有難いと思わないといけない。麻由子は和弘の精一杯を感じ、素直に「了解、楽しみ」と答えた。


愛した方が負ける、それは不倫であれ未婚の恋愛であれ同じ事。愛した方が弱くなる。麻由子はそうなりたくなかったが、自分は負ける側、言いなりになる側になってしまっている事をいつも実感した。だがやがて和弘にされる失言に嫌な思いをばかりの付き合いの中、その失言内容が段々と麻由子の許しがたいものになっていき、麻由子の中で嫌悪が好意を上回るように。せっかく気持ちを切り替え和弘の提案する築地の食べ歩きに出掛けた帰りの事。


最初は他愛の無い『先週の当直前に行った銭湯に、珍しいくらい大きな持ち物の男が入ってきた』という和弘の経験話がきっかけだったが、その話の中麻由子が「かずのもかなり大きいけどね」と言ったのに対し、和弘は麻由子に


「まあ、小さくは無いよね。俺のに慣れちゃったから、まゆの○○○も俺のサイズにすっかり広がっちゃったんじゃない?」


と笑いながら返してきた。人が性欲の発散に身を差し出して、あまつさえ避妊すらもさせずに好きにさせている。というのに感謝も無い上に蔑むとは。男が持ち物の大きさが大きい程良い、とされるように、女であれば中の具合はきつい方が良いとされる。その自信をへし折るような、馬鹿にするような和弘の言い方に麻由子はいよいよ呆れ返り


「なら、他の男に抱かれて「私って緩い?」って聞いてみるね」


そう返したきり、窓の外を見て和弘の方を見なかった。和弘はまだヘラヘラとしながら麻由子の激怒に気付かず


「なんだよそれ、そんな事するなよ。別に緩いとは言ってないよ、普通に気持ちいいよ?」


などと追い討ちを掛ける。麻由子は呆れながら「すっかり広がった、だけならまだしも、普通…」と繰り返して小さく笑った。もう駄目だ、麻由子は心の中で呟いた。この会話はきっかけに過ぎない。でも今までの無神経な発言、失言に対する我慢を限界突破させるには充分だった。和弘はようやく麻由子が怒っているのに気付き慌てた。


「え、普通って悪い言葉じゃないだろ?」


和弘の言葉に、麻由子も遠慮せず応戦した。


「入れたら5分持たずイク癖に、広がってるだの普通だの…。私、旦那にも前の彼にも中は誉められて来たの。浅くて、一度奥で絞まって最高だって」


「ああ、そうだよ。まゆの中って浅くて、奥が一ヶ所凄く狭くなってるんだよね」


「でもあなたにすっかり緩くされちゃった。だから他にきつい人探して。私はもう傷付けられるのはたくさん。悪いけど、お声は良く掛かるの。あなたと別れても私は付き合う人に困らない」


「なんでそうなっちゃうんだよ、嫌だよ別れるなんて。あと本当に緩いなんて言ってないだろ!?」


「……もういい、終わりにして」


「終わりって、これで終わり?こんな事で?なあ誤解だって!」


「違う、今まで蓄積して来てたんだよ。かずは失礼な事や傷付く事を私に言うのが止められない。私も傷付かずに受け流せない。もう辛いから離れよう」


「…仕方ないんだよ、俺。どうしても変われない、けどこれからは本当に気を付けるからさ」


麻由子は和弘が別れまいとして話し合おうとするのも無視し、コンビニに車を停めて貰うと、降りてその場でタクシーを呼んだ。


「話し合う気も無いのかよ!」


和弘が初めて声を荒らげた。が、麻由子は動じず


「タクシーで駅まで行って、電車で帰るね」


と言いそっぽを向いた。和弘はなんとか自分の車に戻るよう麻由子にあれこれ言っていたが、やがて来たタクシーに麻由子が乗り込むと無言でその様をなす術なく見つめた。

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