旧ヨコハマ水道局

@Sanehika

第1話 「たいせつに、みずはみんなのたからもの」

『たいせつに、みずはみんなのたからもの』


夕方の検針業務いつものしごとから帰ると、事務所の壁に貼られているポスターが目に入った。

紫外線で焼けた紙面の中で、誰かもわからないアイドルが笑顔を浮かべこちらを見ていた。


暢気なものだ。

一等保全官の科野しなのは思わず苦笑をこぼした。


汗で重くなった上着を脱ぐと、背中に効きの悪いエアコンから吐き出された冷気が通る。

真昼と比較すると多少は気温が下がるとはいえ、40℃を超える街の中、重装備を担いで歩き回るのは身にこたえた。

ロッカーに装備を入れ、自分の椅子に座った。


「科野君、お疲れ様。」


後ろから話かけられた。

男臭い職場には似合わない、柔らかい声だ。

振り返ると、きっちりと折り目の入った制服を着こなした女性がいた。

彼女は、衣笠紗枝きぬがささえである。大学を卒業して5年目にして、ヨコハマ第2西部支局の局長を務め、俺たち兵隊どもの直属の上司でもある。


彼女は俺の方へ歩いてきて、ペットボトルを手渡してくれた。

少し結露したペットボトルが心地良い。

ラベルを見ると電気分解された水ではなく、天然水だった。


「ありがとうございます。こんなものどこで手に入れたんですか?」

「それは、父が先日仕送りで段ボールいっぱいに送ってきてくれたんだ。」

「久々に飲めるので嬉しいです。今コップを持ってきますね。ちょっと待っていてください。」


すると彼女は苦笑いをしながら、手をゆらゆらと振って、

「大丈夫。さっきも言った通り少し余っているんだ。私は殆ど事務所にいてあまり水を飲まん。遠慮せず受け取ってくれ。」

と言った。


「ところで、水の不整利用者の件についてはどうだ?」


「あまり、調子は良くないですね。1つ1つの家を調べているのですが、異常なメーターは中々見つからないです。」


「恐らく、メーターの細工ではなく派手な抜け穴を作っている連中がいるのだろう。下手な部品を使われると、水質にも影響が出かねん。」


「やっぱり、第2西部支局うちだけで対応するのは厳しいんじゃないですかね。上流で抜かれてしまっては対応できないですよ。」


すると衣笠局長は

一瞬少し唇を引き、眉をしかめると大きく息を吐いた。


「やはり、他支局のやつらと協力する必要があるか。」

「仕方がないんじゃないんですかね、管理職として頑張ってください。」

「他人事のように言うじゃないか。もし協議する場になったら君も行くことになるんだぞ。」

「ええ、何でですか。自分なんてしがない現場の兵隊なんですから、そんなところに行ったって仕方ないでしょう。」


支局間会議というのは、年に1度開催されているものであるが、今回のように一つの支局で対応できない問題が発生した場合に、局長以上の職界の権限で開催することが出来る。

ひと癖もふた癖もある局長が一同に集まる場であり、

大抵の場合開いた時より、現場にとって厄介ごとが増えることで有名である。


そんな魔境のようなところに、俺のような木っ端保全員が首を突っ込んだところで仕方がない。

正直言って面倒であった。


「そうは言っても君、私のようなか弱い乙女が変人たちの中に放り込まれてみろ。何をされるか分かったものじゃないぞ。ボディーガードとして自分からついていくくらいの気概を見せてくれたまえ。」


「いやいや、何言っているんですか。最年少昇進記録ホルダーでしょあなた。お偉い人の相手は任せますよ。」


「真面目な話、実際の雰囲気を分かっている奴は欲しい。資料の作成からしっかりと関わってもらうからな。拒否権はないぞ。」


「はぁ、分かりました。記録から資料を作っておきます。必要な要素は後でメールで送ってください。」


「良いだろう。また今度飯を奢ってやる。楽しみにしておけ。」


そう言って俺の肩を軽くたたくと、彼女は自分のデスクに戻っていった。



自分の棚から補給食を取り出した。

補給食の箱を破り、かじりつく。

口の中の水分が全て吸収されそうな程にパサつきがひどい。

安く、カロリーを補給するためには最適だが、趣味で食べるようなものではない。


机の横に伏せてあった自分のコップを取って、先ほどもらったペットボトルの封を開ける。

地球温暖化で海水面が上昇し水源が限られている現在、

海水を濾過したものではなく、地下から汲み取られた水は貴重品だった。


自分の安月給では中々買えない代物を、軽々と渡して見せた年下の上司のことを考えながら、コップに水を注ぐ。


コップを手に取り、飲もうとした瞬間に、室内のスピーカーから放送が流れた。


『緊急放送、第35区域にて破壊活動の通報在り。科野隊は出動して鎮圧にあたれ。以上。』












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